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朝鮮人密入国の歴史と背景(戦前編) ②

朝鮮人密入国の歴史と背景(戦前編)①の続きです。
 
■併合後の朝鮮
朝鮮併合後の朝鮮半島は800年前の飢餓と圧制に喘ぐ世界から、20世紀の近代国家へと一気にタイムワープした。日本政府は当時の国家予算の数倍もの資金を朝鮮半島につぎ込んだ。政治、経済システムの導入、銀行の創設。植林と河川の改修。ダム、発電所の建設、港湾・鉄道建設、道路建設等のインフラ整備。電信・郵便。教育、医療システムの導入。近代農業の導入と農業保護。朝鮮人にとってその恩恵は計り知れなかった。
これが日帝による最悪の圧制とは噴飯ものである。善政の一端を朝鮮人の著書から推察されたい。

(引用開始)

■「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社刊
日本人は、農村振興運動を進めた。日本統治時代以前の韓国の農村には、河川に堤防もなかったし、水利組合も存在しなかったが、水利組合が結成されたために、河川地域が整備されて堤防が建設され、それまで恒常的だった水害から、農地や農作可能な土地を守ることができるようになって、新しい農地がつくられ、多くのところで稲作が可能になった。この結果、日本人地主も増えた。

また畜産が奨励され、日本人がつくった金融組合が、希望する農家ごとに子牛一頭を無料で与えてくれた。与えたというよりは、貸したものだった。牛が成長して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと、成長した親牛は、無償で農民のものとなるという制度だった。

日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し、植林を進めるために、総督府は山監(サンカン)という監督官を村に置いた。また村人が、植林した山に入ることを禁じた。

私の小学校の日本人教師や山林局に所属していた山監や若い農村教導師は、緑化について情熱にあふれていた。真面目で、献身的な青年が多かった。日本統治時代には、そのせいで禿山だった山々が緑に覆われるようになった。農村教導師は、農村振興運動の一環として農村の改革と生活改善のために、村から村へと巡回していた。

私が小学校に入学する前に、満州事変が起こり、やがて支那事変(日中戦争)に移っていったので、村でも戦時色がしだいに感じられるようになっていった。私は、父親に連れられて公会堂で農村教導師が講演をするのをたぴたび聴いた。名調子の演説が多かった。

(中略)
あるいは金融組合による子牛を貸し出す制度についての講演会で、別の農村教導師が「夕焼けほのぼのと燃えあがる空を背にして、牛を連れて家に帰る美しい姿を目にしたときには、感激の熱い涙が、ポタリポタリと落ちるのであります」と熱弁を振るった。

私の小学校時代には、日本統治がもう二十五年以上になっていたので、村の人々の大半が日本語を聞いて理解することができた。そこで講話は、通訳なしに日本語で行なわれた。人々は話に耳を傾けながら、しばしば韓国語で「ケンジャンハンラサム」(立派な人だな)とつぶやいたり、「ヨクシ、ヨクシ」(なるほど、なるほど)と相槌を打った。

また「カを合わせて朝鮮を蘇生させましょう!今日の朝鮮では、山川草木が空からくれた天の恵みである雨水を貯え切れず、海に流してしまっています。ああ、もったいない、もったいない。そこで陸は、いつも旱魃に悩まされています。木がもっと山に生い繁れば、天の息みの雨の40パーセントを、飲み水や、水田の水として、または地下水として貯えることができます。徹底的に山に木を蓄えようではありませんか。水は生命の源であり、農耕の源なのです」といった話もあった。

日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。しかし、独立後にまたかって気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。

日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。

それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。両班のように小作人(ソチクイン)である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物わかりがよかった。だから、日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。

日本人が所有していた農地は、独立後に、「敵産」(チョクサン)としてすべて没収された。しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。

私たちの村は、李朝時代にはいつも水害で悩まされていた。そこで農作が思うようにできなかった水田地域を、「べべーミ」(船が浮かぶような水田)と呼んでいた。しかし、1911年(明治四十四年)、川に堤防が築かれたために、水害から逃れることができた。それからは「ベベーミ」という悪名のあった水田が一等級の水田に変わって、多収穫地として生まれ変わった。この話は、私の父親がしてくれた話である。

母はいつも韓服を着ていた。しばしば李朝時代のころの生活がいかに苦しいものだったのかを、話してくれた。村には五つの農業用水池があった。日本人が京釜線を敷くのにあたって、池を掘って線路の盛り土をしたということを教えてくれたのも、母だった。

日本統治時代になってから、村の人々はまともな生活を営むことが出来るようになったのだった。私の村では、独立運動系の人々を除けぱ、ほとんどの村民が日本人を尊敬していたし、敬愛していたといってよかった。村の人々のあいだで「イルボンサラムン・キョンウカタルダ」(日本人は、事理に明るい〈すべて正しい〉)という言葉がよく交わされた。

それでも村の人々が、外国人である日本人に対して屈折した感情をいだいていたことも事実だった。何といっても、韓国は外国の支配下にあったのだ。日本人のもとで働いたり、日本人と結ぶことによって成功している者は、陰で「アブチェビ」(ゴマスリ)と呼ばれた。これにはたぶんに嫉妬心理も手伝っていただろう。

(引用終了)

こうして朝鮮の歴史の中で飢餓の恐怖から開放された時代が初めて訪れた。併合前に比べて耕地面積、水田面積と米の収穫量は2倍以上、反あたりの収穫高は3倍以上となった。驚くべきは平均寿命の伸びが2.3倍である。その結果人口は一気に2倍以上に増大した。

●朝鮮半島の人口推移
「朝鮮総督府統計年報」  朝鮮総督府編 
年次 年末常住人口・(注)1944年は5月
1910(日韓併合年) 1312万8780人  
1915 1595万7630人
1920 1691万6078人
1925 1854万3326人
1930 1968万5587人
1935 2124万8864人
1940 2295万4563人
1944 2512万0174人(この他に日本本土や満州に数多くの朝鮮人がいた)※内務省調査では日本本土に210万人

朝鮮総督府が実施した主な政策は下記の通りである。

■朝鮮総督府政策一覧

         併合時(1910)      終戦時(1945)

1:人口     1313万人      2512万人(半島内のみ)
2:平均寿命   24歳         56歳
3:耕地面積   246万町歩      449万町歩
4:水田面積   84万町歩       162万町歩(1928) 
5:米収穫高   約1000万石     2000万石(1930)
  反あたり収穫量0.49石       1.49石
6:教育制度     皆無        小学校5213校
  高等教育機関   皆無        師範学校・帝国大学創設
  就学率                 61%
  ハングル教育   無し         体系化と教育実施    
7:鉄道       皆無         3829km  
8:植林       禿山         5億9千万本
9:朝鮮半島内の強盗件数    
昭和2年   1711件
昭和7年   1261件
昭和12年   727件
昭和17年   394件              

このように劇的に変化した社会的状況の中で、何故内地への密航者が増えていったのか。それは併合後、朝鮮半島の人口が爆発的に増加した事が第一の要因であった。朝鮮総督府の苦心の政策や施政も、精力旺盛な民族の下半身には歯が立たなかったと言う訳である。

次回に続く

【資料参照・引用】日本の現在(危ない日本)
 植民地統治の検証 1  反日史観を糺す



【今日のミコトノリ】今夜はお月見だにゃ!

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