The Penelopes / Vaudeville Park Records News

The PenelopesとVaudeville Park Recordsに関するニュースをお届けします。

The Penelopes watanabe インタビュー Part 1

2019-02-18 15:25:38 | Weblog

米Cloudberry Recordsのサイトに、The Penelopes watanabeのインタビューが掲載されました。
http://www.cloudberryrecords.com/blog/?p=5337

日本語訳をこちらに掲載いたします。
まずは Part 1です。

 

- やあ達彦! インタビューを受けてくれてありがとう! フェイスブックでは長い事友達だけど、君の音楽について質問するのははじめてだね。だから凄くわくわくしてるんだ。元気かな? いまでも音楽を作ってるの?


覚えていて下さってありがとうございます。元気にしてます。
来年(2019年)ニューアルバムを出す事を計画してまして、4分の3は終わっているんです。でも実際のところ、80代半ばの両親の介護が、今は以前より難しい状態になっているので、最近いくつかの曲を仕上げるのに集中する時間が殆どないのです。でもリリースを諦めた訳ではないんですよ。それにちょっとした時間があったらメロディーの欠片を録音したり、歌詞のアイデアや曲のタイトルなどをメモしたりしてますよ。


- じゃあ最初から始めるよ。君は元々東京出身なの? 最初の音楽の思い出はどんなの? 最初手にした楽器は何だったか覚えてる? それをどうやって演奏出来るようになったの? 成長して行く間に家で聞いてたのはどういう音楽?

 

ええっと、私は東京出身ではないんです。兵庫県の宝塚出身で、今でもそこに住んでるんですよ。日本の西部に位置してて、大阪から電車で45分のところです。とても静かで住むには快適な場所で、それが自分の音楽づくりに大きな影響を与えたと思います。この街はまた宝塚歌劇でも有名で、その長い歴史が街をとても美しく洗練されたものにしていると思うんですね。それもまた私にインスピレーションを与えてくれてます。

僕が生まれたのは1965年で、だから最初の音楽の記憶は60年代の沢山の特撮番組、アニメ番組からなんです。ウルトラマンとかウルトラセブン、マイテイ・ジャック、怪奇大作戦、ワンダー3、サスケなどなど・・・それらが僕の血肉となったと思うんです。

ロックミュージックを意識しだした時に(兄貴の部屋に入っては)ギターを弾き始めたんですが、最初の楽器はギターじゃなくてエレクトーンですね。それは6歳の頃ヤマハ音楽教室で出会った。長くは続きませんでしたが。

ギターに関していうと、上に書いたように16歳かそこらぐらいの時に触れ始めたんですね。私の兄貴はまた70年代後半から80年代前半に莫大な量のカセットテープのコレクションを持ってまして。自然と60年代から80年代へのアクセスが凄く出来たので、「ロックミュージック」にさらされることになったんですね。モータウンのクラシック、ビートルズやキンクス、フー、レッド・ツェッペリン、シン・リジー、スティーリー・ダン、ブルース・スプリングスティーン、ビリー・ジョエルのようなビッグネームから、当時のニューウェイヴの凄い人達、エルヴィス・コステロ、XTC、スクイーズ、ジャム、クラッシュ、ブームタウン・ラッツ。ジョー・ジャクソン、グレアム・パーカー、イアン・デュリー、ニック・ロウ、ポリス、ナック、チープ・トリック、カーズ、PIL、ポップ・グループ、プリテンダーズ、U2、エコー&ザ・バニーメナ、マッドネス、カルチャー・クラブ・・・などなど。そしてそれからその時代のより洗練されたニューウェイヴポップを聴くようになったんですね。シンセポップ(OMD、チャイナ・クライシス、デペッシュ・モードなど)やいわゆるネオアコと呼ばれるギターポップ(アズテック・カメラ、ペイル・ファウンテンズ、ブルーベルズなど)ですね。そうやって僕は成長したし、それらがペネロープスのコアの部分を作ったんです。


- ペネロープス以前には別のバンドに関わったりはしたの?


兄貴の新のバンドであるサウンド・ミラーズのスタジオセッションに加わった以外は、ペネロープスより前にバンドに関わったことはなかったですね。

 

- バンドを始めた頃の東京はどうだった? 仲良くしてる同じような考えのバンドっていた? 良いレコード屋さんはあった? バンドをチェックする場所とかヴェニューは?


上にも書いた通り、80年代後半にインディーポップが流行り始めた時、私は東京にいなかったから、シーンがどんなだっか、そもそもシーンが存在してるってことさえ知らなかったんです。90年代初めに、フリッパーズ・ギターの登場であの大都市に「ネオアコ・シーン」があるのを知るようになったんですよ。個人的には、イギリスのニューウェイヴやインディーポップのレコードを大阪や神戸のレコード屋に買いに行って、たまたま日本のギターポップのテープも見つける、っていうだけでしたから、全く「シーン」を見つけることもなかったし、親しくなる、というのもなかったんです。奈良のぼうしレーベルに連絡を取って初めて、関西にもたくさんインディーポップのアーティストがいるというのをいただいたコンピレーションのテープで聴いて知ったんですね。それが1990年です。


- いつ、どのようにしてバンドが始まったの?

ご存知のように、元々ペネロープスは私が始めたソロユニットです。1986年ぐらいから真剣に音楽に取り組み出して、89年までにいくつかデモを作ったんですが、その時にThe Love ParadeとSunnysideとか、いくつかの架空のバンド名を使って、国内外のレーベルに送り始めたのです。反応は殆どなかったのですが、唯一奈良のぼうしレーベルだけが返事を下さって。それに大いに励まされたので、もっと本格的なデモを作ろうと考えた。そこで関わる人が増えて来ました。こうやってペネロープスは帆を揚げた訳です。


- ペネロープスはいつも殆どの部分は君だよね? でもバンドのクラシックなラインナップはあったのかな? 何人の人がペネロープスで演奏し、そして彼らとはどうやって知り合ったのかな?

基本的には私のソロユニットですが、特に最初の頃の録音やライヴは他のメンバーの協力で、「ペネロープスの音」を追求していました。1990年の初めに弟の聡やもう一人のギタリスト - 粟谷佳司君と言って、ロッキング・オンというロック雑誌に彼が出したメンバー募集で知り合った。彼も後にメンバーになるのですが - とセッションをして、その後にThe Penelopesと名乗ることにしたんですね。90年の秋から91年にかけては弟と二人組という編成で3つほど数曲入ったデモを作って、それがポルスプエストでのコンピCDへの参加に繋がりました。それで、今度はライブと録音のためにもう二人のメンバー - ギタリストのナオヤマ・タダシ君と、オルガンプレイヤーの西出聡君 - を加えました。彼らはプレイヤーという雑誌での小さなメンバー募集で連絡して来たのです。だから1991年の"Evergreen"録音の時は、私(Vo&G)、聡(G)、ナオヤマ君(G)、西出君(Kb)という編成でした。

その後弟とナオヤマ君が抜け、私と西出君、そして上に書いた粟谷君の三人が1992年に芦屋のスタジオエイトに入ってファーストアルバム"In A Big Golden Cage"を録音します。そのリリース直後の1993年にベーシストの宮田智種さんが加わり、その年の夏にセカンドアルバムを大阪のスタジオYOUで録音します。彼女はその後もずっとペネロープス・サウンドを支えてくれていますよ。

と言う訳で、25年以上の間に沢山の人が関わって来ましたが、この1stと2ndの録音や当時のライヴに参加してた人達が、一番「基礎」のペネロープス・サウンドを作り上げていたので、クラシックなラインナップと言うと、この頃のメンバーということになりますね。あとは後の作品でドラムを叩いた梨本一樹君も、私の音楽をよくわかってくれていたと思います。"Eternal Spring"の録音では十分上手く録音出来なかったけれど、彼もペネロープスのクラシックラインナップに加わるべき人です。


- そこからいくつかのラインナップの変化もあった訳だよね?

3rdアルバム"Kiss Of Life"以降はベースの宮田さん、"Eternal Spring" での梨本君を除いては、参加した人達は殆どみんなゲストでしたので、大きな変化はないです。それは、自分の出したい音というのがはっきりわかって来たからだと思います。


- ペネロープスという名前なのは何故?

60年代のTVドラマ「サンダーバード」に登場する女性エージェント、レディ・ペネロープから取ってます。あのドラマが象徴する60年代への憧憬がずっとあったんですね。よくフェルトの"Penelope Tree"から取ったの?と言われたものでしたが、そうではありません。


- 創作のプロセスはどんな風だった? どこで普段練習してたの?

プロセスは数え切れないほどありますよ。最初にメロディーが頭に浮かぶときもあれば、良い曲タイトルが先に浮かぶこともあります。時にはそれらが一緒に来る事も。そしてまた時にはコード進行以外は何も浮かばなかったりというのも・・・。ラフなアイデアが曲になる方法というのは、数え切れないほどあります。私に関して言えば、たいていギター、ベース、オルガン、ドラムの基本的なフォーマットのデモをひとりで作りまして、それから他の人達がそのデモを聴いて、そして独特な味付けを加えるという感じですね。

1st、2ndアルバムの頃は、録音したスタジオでよく練習してました。3rdから5枚目までスタジオで殆ど練習はしなかったんです。6枚目、7枚目の頃はライブの前によく地元宝塚の隣の街である、西宮にあるスタジオに行ってましたね。

 

- 君の作品のほとんどは90年代に出たものだよね。その時代はたくさんのレーベルとたくさんのバンドがいて、日本のインディーポップにとって全く良い時代だったよね。その10年の間、君自身はシーンの一部だと感じたりはしてた? もし90年代当時の日本のベストバンド・トップファイブを作るとしたら、誰が来るのかな?


90年代は私にとってあまりに早く過ぎて行きましたし、厳しい時代でもありました。もちろん楽しめる瞬間もあったんですが・・・でも、自分のレーベルを始めて、配給会社を見つけ、自分のアルバムを自分でプロモートしなきゃいけなかった。それはビジネス面をもっと真剣に見なければならないということも意味していました。渋谷系はカラフルだったけれど、ある意味偏っていて、実際のところ自分のやりたい音楽を売るには難しい時代でした。

だから、私はいまでも90年代を「古き良き時代」と見てノスタルジックに回想したりは出来ないんですよ。いまだに「ああ、自分は日本のインディーポップシーンの一部だったんだな!」なんて風に感じる余裕はないんです。良い音楽を作ろうと身も心も打ち込んでベストを尽くした、そして残念ながら失敗した、と思い出すだけです。

それに当時は、多くのバンドは私には友人ではなくライバルに思えたんです。レコード会社にはもっと売って欲しかったし、自分ももっと売りたかった。
でも今振り返ってみれば、みんな同じように感じていたというのもわかりますし、当時の自分に全く何の余裕もなかったことが本当に残念です。

という訳で、これは、「もしみなさんがまだそこにいるなら聞いてください。みなさんの音楽、本当に好きでしたよ」リストです。彼らはみんな私たちの近くで演奏していた90年代の日本のインディーバンドで、いくつかはまだ活動中です。

1. ザ・ルーフ
2. B-フラワー
3. クリストファー・ロビン
4. チェルシー・テラス
5. ブルーベリー・ベリーブルー


- それと、バンドサウンドへの影響を与えたのはどういう人達?

手短に書くと、これらがペネロープスの3つの主柱です。(1)XTCとエルヴィス・コステロを中心とする70年代末に出て来たニューウェイヴ、パワーポップ (2)ペイル・ファウンテンズやアズテック・カメラなどの80年代のギターポップ (3)ビートルズ、キンクス、フーなどの60年代の偉大なバンド。


- 君の最初のリリースはとても素晴らしいレーベルのひとつ、ポルスプエストレコードからだった。「イン・ナ・ビッグ・ゴールデン・ケージ」。このレーベルとの契約はどんな風に契約に至ったの? 彼らとの関係は?


(上に書いた)ぼうしレーベルがコンピレーションの計画を持ってらして、それがもっと大きなレーベルであるポルスプエストの注意を引いたのだと思います。実際そこは日本のメジャーレーベルである東芝EMIの中に設立されたレーベルだった。フリッパーズ・ギターの成功の後、多くのメジャーレーベルは若くて新しい音を見つけようとしていたんです。ある日そのレーベルのプロデューサーが私に電話して来て、ペネロープスにレーベルのサンプラーCDに参加するよう言って来た。それが1992年の"The Birth Of the True"になった訳です。私達が大阪のスタジオで"Evergreen"を録音してる時に、アルバムをリリースできる可能性はあるのか彼に訊きました。そして彼はそのためにちょっとした予算与えてくれた。それがたぶん私にとってはポルスプエスト時代の最高の瞬間でした。

彼らと私たちの関係は文字通り最小限のものでした。私たちは関西にいましたが、レーベルは東京にありましたのではるかかなたでした。90年代初めはインターネットもない時代でしたから、コミュニケーションは不足しがちでしたね。
プロデューサーとしてこの方面の音楽に精通した有名な音楽ライターの方が録音について下さることになったのですが、彼も関西の人ではなかったし忙しかったのでなかなか来る事が出来なかったのです。私ひとりか、場合によってはふたり、三人で、ずっと芦屋のスタジオでああでもない、こうでもないと試行錯誤しながら作品を作ってたのを思い出します。レコーディングでは本当に楽しい時間を過ごしましたが、レーベルからはあまり情熱が伝わって来なかったのがいつも残念だったですね。私もレーベルとどう付き合って良いかわからないし、レーベルもどう売って良いか迷っている印象がありました。東京の事務所に行ったら、ペネロープスのブロモーションに関する物は殆どなくて、泣きたくなったことを覚えています。だから、こちらから宣伝のために色々提供します、会議も可能なら行きますと手紙を書いたものです。でも返事はなかったですね。結局のところは、1993年の段階ではまだ日本ではギターポップは大きな動きになるほど成熟していなかったのだと思います。

だから、その関係を思い出すたびに、今でも複雑な心境になりますよ。皆さんに知って頂くという意味では大変恵まれたと思う半面、ちゃんとプロモートしてもらえてないという不満をずっと抱えていましたから。


- これがまさに君にとって最初のレコードなのかな? それともそれ以前に他の録音はあったの?


1980年の中学の合唱コンクールで録音されたレコードを除けば、"Evergreen"が僕にとっての最初の録音で、それが1992年のコンピCD"The Birth Of the True"に収録されたんです。

 

- ファーストアルバムの曲のうち2曲がスペインのレーベルElefant Recordsから7インチシングルとしてリリースされることになったよね。インターネット以前の時代に、君の音楽がどうやって大陸を越え、ルイス(Elefantのレーベルオーナー)の耳に入ったんだろうね? 彼らのところで音楽をリリースし続ける可能性はあったの?


1991年頃は西ヨーロッパ全体にC86からサラ・レーベルに到るギターポップに通ずる音を出すバンドを愛好する草の根のインディーポップ・コミュニティーがあって、いくつか作ったカセットテープを通じてThe Penelopesは既に知られていたようです。イギリスのRed Roses For Meやまたフランスのいくつかのレーベルとのやり取りが彼らのコンピレーション・テープへと発展して、それらが彼の耳に届いたんじゃないかと思います。実を言えば2ndアルバムからシングルを作る話もあったんです。僕としては"Good Music"をシングルにしたくて、希望するデザインも添えて要望したのですが、いつしか立ち消えになってしまいましたね。


- これは好奇心から訊くんだけれど、エレファントの人達とは会ったことはあるの? スベインに行った事は?


いえ、残念ながらないですね。確かスペインに行ったことがあるのは、ベーシストの宮田です。彼女はモッド系のバンドでもプレイしているので。何年か前にフェスティヴァルに呼ばれて行ったはずですね。


- 7インチの曲の両面の曲ともに美しいね。実際のところあのシングルを通じて君の音楽を発見したんだ。凄く知りたいんだけれど、もし数行で言えるとしたら、何にインスパイアされたと言える?


A面の"It's Not You"は80年代のギターポップ、The Pale FountainsやThe Railway Childrenが表現した世界を目指した感じ。B面の"Please Listen To Me"はShoes(アメリカのパワーポップバンド)や初期のElvis Costelloの影響が強いと思います。"A Place Called Home"(初期バージョン)は後のバージョンより深いリヴァーヴでより雰囲気のある音でしたが、それは当時The SmithsやMcCarthyをよく聴いていたからですね。


- セカンドアルバムは93年に出たんだよね。"Touch the Ground"というタイトルで。注意を引いたのは裏表紙のアートだったんだ。図形で"touch the ground"(地面に触れる)方法を説明していて。その背後にあったアイデアは何だったの?


2ndアルバム"Touch the Ground"は1994年に出ました("In A Big Golden Cage"は1993年)。ジャケット全体のアイデアを思いつき、制作したのは佐々木さんと言う、ルーフというバンド(上にも書きましたが)のシンガーだった人なんですが、彼は何年も前に亡くなったんですね。だから、彼が何をほのめかそうとしていたのかはわからないですね。その頃は、誰かが自分の音楽を元に、何か謎めいたデザインを作ってくれるのがただただ嬉しくて、ワクワクしていましたよ。それ以上にフロントカヴァーが心配でしたね、スクイーズの「フランク」に似てると思ってましたから。


- それからDiscogsは"Power Of Music"という1994年のカセットアルバムをリストに上げてるよね。これは正式なリリースなの? その作品は全く知らないんだけれど。それについて事情を聞いてもいいかな?

たぶんDiscogsに情報を提供した人が間違っていると思うんですが・・・"Power Of Music"は1995年に出したカセットアルバムで、1996年にも"Magic Circles"というカセットアルバムを出したんですよ。1994年に出したのは"Chocolate Train"という2曲入りのテープです。これらは全て全国のタワーレコードやWaveといったレコード店で販売したので正式なリリースです。当時友人が始めたレーベルのテープコンピにも参加したけれど、これらの一時的な90年代後半のカセットリリースの流行は記録に残ってないのです。というのも、その後すぐにカセットリリースはメジャーレーベルに真似され始めて、あっと言う間に廃れてしまったんですよね。そしてさらに2000年頃には本当のインディー、DIY精神を持ってる人達の作品を上記のレコード店が置いてくれなくなった・・・追い出されて行ったんですね。

これらの作品の目的は、完全に自己満足でした。自分の次のCD作品がいつ出せるかわからないので、待てなかったんです。音のクオリティはすごく低かったけれど、私にとってはそれで良かったんです。とにかく当時は、作品を出す事に飢えていましたから。


- 次の作品、そしてそれ以降のペネロープスのリリースは全てボードヴィルパークレコードからになったよね。ボードヴィルパークレコードとは誰のこと? それは君自身だったのかな?

ボードヴィルパークは私がひとりで運営するとっても小さなレーベルです。それは1996年に始まったんですが、その年は、既に完成していた3rdアルバムがなかなかリリースされなかったのです。憤慨しましてね。で、間に合わせのちっぽけな店舗を作って次の作品を売りに出したという訳ですが、結局そこが自分の居場所となってしまったという訳です。名前は敬愛するイギリスのソングライター、ポール・べヴォワーが80年代に率いたバンドThe Jet Setのアルバムから来ています。


- 一曲、"Today"という曲で気づいたんだけれど、別の渡辺さんがバッキングボーカルをやっているよね。彼女は誰?


"Today"でリードシンガーをやってるのは女性ではなくて、私の弟の聡(バンドの初期のメンバーでもある)です。でもバッキングVoをやってるのは誰かな・・・私じゃないですかね(笑)

 

- ペネロープスはEPやシングルのバンドというよりもむしろアルバムのバンドなんだなと気づき始めたんだけど。自分でもそう思うかな? それって意図したことだった? 何故アルバムのフォーマットの方を好むのかな?


たぶんほんの少ししかシングルをリリースしてないのと、アルバムはたくさん出しているから、そう思うんだと思います。シングルをあまり出してなくてアルバムが多いのは、単純に私が曲を沢山作って来て、経済的な面から、一度に沢山出せるフォーマットはアルバムだったからです。だから、シングルよりアルバムの方を好むというのではなくて、アルバムの方が便利だった、という訳です。個人的には7インチシングルが大好きだから、もしチャンスがあったらぜひ出したいなといつも思っているのですが・・・。


- "Inner Light"が次のアルバム、1999年の終わりにリリースされたんだね。これはとっても長いアルバムで19曲も入ってた! 君にとっては最も多作な時期だったのかな?


19曲も入れた理由は、どんなバンドもアルバムを出し始めたら、4枚目かそこら辺りで二枚組とか、コンセプトアルバムとかの大作を作るものだという考えに取り憑かれていたからですね。少なくとも自分が尊敬するアーティスト達はそうでしたよ、ビートルズ、フー、キンクス、XTC、クラッシュ・・・エルヴィス・コステロは一枚に20曲も入れてました! それに倣ったんです。だから、この時期が一番多作だった訳ではないと思うんですよ。今の方が曲のアイデアは豊富にありますし。ただ、完成させるのに手間がかけているのと、日常が忙し過ぎるんですよね。

 

- レモネードファクトリースタジオというのは? 君がよく録音に使っていた場所だよね?それはどこにあったの? そしていまでも存在するのかな?


レモネードファクトリーというのは、私が録音に使っていた部屋のことで、本当のスタジオではありません。だから、ただの冗談なんですよ。その名前は、曾祖父から関わった「ウィルキンソンタンサン」というレモネードのメーカーから来ています。その工場は本当に家の近くを流れる武庫川のほとりにあったんですが、90年代初めに商標を売り、会社をたたんでしまったので、私が音楽をやり始めた頃には、もう存在しない工場でした。その記憶をずっと残しておきたかったのです。

 

(Part 2に続く)

 

 



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