5月29日(水)
今日は、長谷川保先生について 書かせて頂きます。
今回も Wikipedia から コピーさせていただきます。
長谷川 保(はせがわ たもつ)先生は、(1903年9月3日 - 1994年4月29日)日本の福祉事業家、教育者、政治家です。
衆議院議員(7期)、衆議院文教委員長、社会福祉法人聖隷福祉事業団理事長、学校法人聖隷学園理事長、聖隷学園浜松衛生短期大学学長などを歴任した。
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
ヨハネによる福音書13章には、最後の晩餐のとき、主イエスは「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて弟子たちの足を洗い…」とあります。当時、他人の足を洗う仕事は奴隷の役割でした。キリストは弟子たちに行動をもって最後の教えを示しました。これが聖なる神様の奴隷を意味する『聖隷』の語源となりました。外側の二重円は、このたらいを表しています。内側の三つの円は、聖隷集団の使命である医療(赤)、教育(青)、福祉(緑)を象徴しています。
福祉事業家として、結核療養所など医療施設の設立を推進し、多くの患者を救うことに尽力した。これらの医療施設は、のちに聖隷福祉事業団や聖隷学園などで構成される聖隷グループに発展した。また、日本で初めて特別養護老人ホームやホスピスをつくった人物としても知られている。なお、政治家としても活動しており、衆議院議員を7期務め、社会福祉の向上に力を注いだ。
1930年浜松市にひとりの結核患者のための病舎を建てた
のちにこの病舎はベテルホーム(ベテルはヘブライ語)。
旧約聖書に出る地名で「神の家」の意 と名づけられる。長谷川らの活動に対しては、多くの献金や寄附が集まるなど、賛同する者も多かった。
しかし、結核に対する忌避感から周辺住民らの反対運動も根強く、医療施設の経営は困窮していた。
そのような状況の中、昭和天皇より特別御下賜金が与えられ、経営危機を脱した。
1942年、聖隷保養農園が財団法人として認可され、常務理事に就任した。聖隷保養農園付属病院開設(聖隷三方原病院の前身)。
1952年、聖隷保養農園は社会福祉法人として聖隷保養園に改組され、理事長に就任した。
1961年、日本で初めての特別養護老人ホーム「浜松十字の園」を開設した。聖隷保養園は1973年に聖隷福祉事業団となるが、以降も引き続き理事長を務め、1980年に退任し会長に就任した。
1982年、日本で初めてがん末期患者などのための「ホスピス(緩和ケア病棟)」を開設など病院・福祉施設の拡充につとめる一方、各種学校遠州キリスト学園を始めとする各種医療関係学校を経営し、福祉・医療教育にも力を注ぎ、日本で最大級の社会福祉法人である聖隷福祉事業団をはじめとする聖隷グループの礎を築く。
生涯私的財産を持たないというポリシーを貫き、病院敷地内のバラック小屋に住み続けた。
遺言で死後も墓を作らず、浜松医科大学に妻とともに献体。骨格標本となり、医療者の教育に貢献しつづけている。
先日、CDやテープ等が納められている段ボール箱から、何と 両親の結婚披露宴の録音テープが見つかりました。
嬉しくなって 聞き入ってしまいました。 その中に 長谷川保先生の祝辞も入っていて 初めて 長谷川保先生のお声を聴くことができました。
ご夫妻とは 祖父母も両親も親しくさせて頂き、祖父が交通事故に遭った時、個人の病院で急変したため、父が聖隷に移し、(調度その時間は、長谷川保先生たちの聖書の学び会の最終日、なかなか来ない祖父を待っていたそうです。)
皆さんが 病院へ駆けつけ、支持を出して、最善の手当てをして頂きましたが、最初の処置が悪かった為、手遅れでした。明け方3時に息を引き取ったそうです。
長谷川保先生は、家まで来てくださり、祖母や両親に優しくお声を掛けてくださったそうです。
私は その時 3歳でした。 祖父の葬儀は、日本キリスト教団 浜松教会 献堂式前でしたが、牧師先生をはじめ会員の方全員が賛成してくださり、献堂式前に祖父の葬儀を行ってくださったそうです。500本用意した献花のカーネーションも足りなく、出雲殿も椅子を寄贈してくださり、キリスト教式の葬儀のモデルとされたそうです。
祖母は、長谷川保先生にお願いして、“浜名湖エデンの園”の一室をお借りして 晩年はそこで過ごしました。
その後も、両親は よく長谷川保先生をお訪ねしたそうです。
祖父は 長谷川保先生を「保っちゃん」とよく呼んでいたこと、父は分区の教会の友たちと、先生の所で聖書研究会を持っていたこと等を聞きました。
私が聖隷クリストファー大学で讃美歌指導をさせていただいた時のクリスマス礼拝の後で、長谷川了理事長が、「この子のお爺さんの竜三さんは、うちのおやじとすごい親しくて・・・」と他の方に紹介して下さいました。長谷川了理事長とは父も青年時代からクリスチャン仲間として親しくしていました。
長谷川保先生という とてつもない偉大な方ですが、長谷川保先生はイエス様がお弟子さんの足を洗われたイエス様の愛を貫き通され、決して贅沢をされず、多くの方々に愛をもって仕えられた方だと、両親から聞きました。
愛を惜しみなく与えられた 長谷川保先生
そして、長谷川保先生と親しくさせていただいた祖父の記念会の時に、両親が木の壁掛け『我と我が家は共に 主に仕えん』を出席された方に差し上げたそうです。
いろいろと両親から聞いて・・・祖父や父と、長谷川保先生と生き方が似ているような気がして 私は嬉しいです。
今日は、長谷川保先生について 書かせて頂きます。
今回も Wikipedia から コピーさせていただきます。
長谷川 保(はせがわ たもつ)先生は、(1903年9月3日 - 1994年4月29日)日本の福祉事業家、教育者、政治家です。
衆議院議員(7期)、衆議院文教委員長、社会福祉法人聖隷福祉事業団理事長、学校法人聖隷学園理事長、聖隷学園浜松衛生短期大学学長などを歴任した。
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
ヨハネによる福音書13章には、最後の晩餐のとき、主イエスは「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて弟子たちの足を洗い…」とあります。当時、他人の足を洗う仕事は奴隷の役割でした。キリストは弟子たちに行動をもって最後の教えを示しました。これが聖なる神様の奴隷を意味する『聖隷』の語源となりました。外側の二重円は、このたらいを表しています。内側の三つの円は、聖隷集団の使命である医療(赤)、教育(青)、福祉(緑)を象徴しています。
福祉事業家として、結核療養所など医療施設の設立を推進し、多くの患者を救うことに尽力した。これらの医療施設は、のちに聖隷福祉事業団や聖隷学園などで構成される聖隷グループに発展した。また、日本で初めて特別養護老人ホームやホスピスをつくった人物としても知られている。なお、政治家としても活動しており、衆議院議員を7期務め、社会福祉の向上に力を注いだ。
1930年浜松市にひとりの結核患者のための病舎を建てた
のちにこの病舎はベテルホーム(ベテルはヘブライ語)。
旧約聖書に出る地名で「神の家」の意 と名づけられる。長谷川らの活動に対しては、多くの献金や寄附が集まるなど、賛同する者も多かった。
しかし、結核に対する忌避感から周辺住民らの反対運動も根強く、医療施設の経営は困窮していた。
そのような状況の中、昭和天皇より特別御下賜金が与えられ、経営危機を脱した。
1942年、聖隷保養農園が財団法人として認可され、常務理事に就任した。聖隷保養農園付属病院開設(聖隷三方原病院の前身)。
1952年、聖隷保養農園は社会福祉法人として聖隷保養園に改組され、理事長に就任した。
1961年、日本で初めての特別養護老人ホーム「浜松十字の園」を開設した。聖隷保養園は1973年に聖隷福祉事業団となるが、以降も引き続き理事長を務め、1980年に退任し会長に就任した。
1982年、日本で初めてがん末期患者などのための「ホスピス(緩和ケア病棟)」を開設など病院・福祉施設の拡充につとめる一方、各種学校遠州キリスト学園を始めとする各種医療関係学校を経営し、福祉・医療教育にも力を注ぎ、日本で最大級の社会福祉法人である聖隷福祉事業団をはじめとする聖隷グループの礎を築く。
生涯私的財産を持たないというポリシーを貫き、病院敷地内のバラック小屋に住み続けた。
遺言で死後も墓を作らず、浜松医科大学に妻とともに献体。骨格標本となり、医療者の教育に貢献しつづけている。
先日、CDやテープ等が納められている段ボール箱から、何と 両親の結婚披露宴の録音テープが見つかりました。
嬉しくなって 聞き入ってしまいました。 その中に 長谷川保先生の祝辞も入っていて 初めて 長谷川保先生のお声を聴くことができました。
ご夫妻とは 祖父母も両親も親しくさせて頂き、祖父が交通事故に遭った時、個人の病院で急変したため、父が聖隷に移し、(調度その時間は、長谷川保先生たちの聖書の学び会の最終日、なかなか来ない祖父を待っていたそうです。)
皆さんが 病院へ駆けつけ、支持を出して、最善の手当てをして頂きましたが、最初の処置が悪かった為、手遅れでした。明け方3時に息を引き取ったそうです。
長谷川保先生は、家まで来てくださり、祖母や両親に優しくお声を掛けてくださったそうです。
私は その時 3歳でした。 祖父の葬儀は、日本キリスト教団 浜松教会 献堂式前でしたが、牧師先生をはじめ会員の方全員が賛成してくださり、献堂式前に祖父の葬儀を行ってくださったそうです。500本用意した献花のカーネーションも足りなく、出雲殿も椅子を寄贈してくださり、キリスト教式の葬儀のモデルとされたそうです。
祖母は、長谷川保先生にお願いして、“浜名湖エデンの園”の一室をお借りして 晩年はそこで過ごしました。
その後も、両親は よく長谷川保先生をお訪ねしたそうです。
祖父は 長谷川保先生を「保っちゃん」とよく呼んでいたこと、父は分区の教会の友たちと、先生の所で聖書研究会を持っていたこと等を聞きました。
私が聖隷クリストファー大学で讃美歌指導をさせていただいた時のクリスマス礼拝の後で、長谷川了理事長が、「この子のお爺さんの竜三さんは、うちのおやじとすごい親しくて・・・」と他の方に紹介して下さいました。長谷川了理事長とは父も青年時代からクリスチャン仲間として親しくしていました。
長谷川保先生という とてつもない偉大な方ですが、長谷川保先生はイエス様がお弟子さんの足を洗われたイエス様の愛を貫き通され、決して贅沢をされず、多くの方々に愛をもって仕えられた方だと、両親から聞きました。
愛を惜しみなく与えられた 長谷川保先生
そして、長谷川保先生と親しくさせていただいた祖父の記念会の時に、両親が木の壁掛け『我と我が家は共に 主に仕えん』を出席された方に差し上げたそうです。
いろいろと両親から聞いて・・・祖父や父と、長谷川保先生と生き方が似ているような気がして 私は嬉しいです。