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『 私の人生 』と題して、私自身の事、両親や身近な偉人の事や、オススメの曲の紹介など書いたりしています。

私の人生 19

2019年05月31日 23時33分30秒 | 日記
5月31日(金) 今日は、私の父の事を書きたいと思います。

父は、誰からも愛される誠実そのものの人です。

取引先の方々や従業員、隣保の方々からも、そして、浜松教会をはじめ教会関係の皆さんからも信頼されていました。

私が生まれる前、父と母の結婚が決まった時に、取引先の東洋紡績株式会社の方から、「これからはガス焼き加工の時代、始めてみませんか」と勧められ、製作所の方と一緒にガス焼き機の開発に乗り出したそうです。

母がよく私に話します。 「お母さんが婚約式の時に助信に来たとき道路に面していたおじいちゃん・おばあちゃんの家が、
結婚式の時は裏の奥に移動して、ガス焼き工場が建てられていたのよ。」

半年の間に何とガス焼き工場を建て、機械まで開発してしまったのです。




調度バブルの時 超高級綿100%の糸はシルケット加工として評価が高く、お蔭で、教会にも多額の献金をすることができました。

祖父が亡くなり、二代目の責任で工場を建て直し、教会の100周年事業も終わり、雨漏りのする我が家も建て直すことが出来ました。











普通ではなかなか東洋紡や日清紡の本社との取引は不可能な時に、
直接このように取引をさせて頂いているというだけで地元からも信頼が厚く、お陰様でたくさんの仕事をさせていただきました。

綿糸ガス毛焼き機は、4号まで 開発しました。 製作所と中部ガスの皆さんに 随分助けて頂きました。

父は よく言っていました。
「 従業員は働いてくれている 」 と・・・。 働かせてあげているのではないという祖父からの会社の精神でした。
クリスチャンとしての生き方です。
「 ありがとう 」を、誰に対しても一日に何回も言っていました。

そんな忙しい毎日のなかで、松城幼稚園の加茂巌先生が園長を辞められるという大きな出来事が起き、父はその中で加茂巌先生と労苦を共にしたそうです。 その結果、父は止むを得ず、理事長の任を受け、 新規一転 幼稚園をスタートさせました。

神様から辞する時を与えられ、

理事長を信頼関係のあった加茂由彦さん(現 松城幼稚園事務長)に託しました。
その後は仕事と教会を両立させ、本当に朝早くから夜遅くまで働き続けました。

バブルが崩壊し、仕事も 日本の紡績は、海外からの輸入糸が多くなり、大量生産は海外へと移っていき、見本作りが多くなった商社の仕事が中心となりました。

会社を閉める時がきました。 長い間住んでいた家も工場も売却でき、借金も返すことが出来 本当に感謝でした。
私は 浜松に住んでいたくて 自分でアパートを見つけ、 兄も 浜松に残りました。

両親は『 袋井教会を応援したい 』と 父の一言で 新しい住まいを 袋井に決め 袋井教会へ転会しました。
私は、祖父母や両親が籍を置いていた浜松教会に残っていたくて 今現在に至ります。
でも、今は やはり あの事件の為、 何もできませんので 袋井で両親に助けられ 毎日を過ごしています。

父は祈りの人です。

幼稚園の理事長を辞める時も、会社を閉める時も、浜松を離れる時など、人生の節目節目に『時』を大事にしていました。

私は「 私の将来の夢は お父さんの仕事を継ぐ、尊敬する人はお父さん 」と、幼稚園の頃から 言っていました。
今でも、父の事を尊敬しています。

私の友人たちも父の事を尊敬していて、13年ほど前 2回目に幼稚園に勤めさせていただいてた頃、当時の彼と朝一緒に教会へ向かうと、私は教会学校の教師をしていましたので、ほぼ同じ時間にやっていた父が担当しているキリスト教入門講座に彼は出席していました。
父がとても分かりやすく話してくれると言っていました。
父が行っていたキリスト教入門講座を受講されていた方で洗礼を受けた方もいらっしゃいます。
教会などで、「 美耶ちゃんのお父さんはカッコ良くて優しそうでいいね! 」とよく言われ、自慢の父です。
自宅に母のプリザーブドフラワーの生徒が大勢みえる時は、父とランチタイムを持っています。

75歳になった今でも、普通じゃ考えられないくらい力があり、私が倒れると父が起こして支えながら部屋に連れていってくれます。 それだけ力仕事を何十年もしてきたのだと思いますし、とても頼りになります!

加茂巌先生や、父のように、聖書に書かれてある『時』を見失わないような生き方ができたらいいなと思います。

私の人生 18  試練は愛を育てる 3

2019年05月30日 16時31分34秒 | 日記
5月30日(木)

昨日は、大変多くの方が ブログを見てくださいました。
松城幼稚園・浜松教会の関係者以外の方々も、こうして 真剣にブログを見てくださっていることに 感謝です。

今日は 郷土の偉人として 加茂巌先生について 記したいと思います。
加茂巌先生は、知的で謙虚で、クリスチャンとしても 大学関係者・教会関係・幼稚園関係・・多くの方々から慕われ 愛されたそうです。
そして、加茂巌先生も、一人ひとりを愛された方です。

今回は、母が 加茂巌先生の記念会の時に 皆様にご挨拶した一部を掲載します。

『 前略

私が静岡英和学院大学及び短期大学部同窓会会長を受けて、初めて発行しました同窓会会報「楓」がございます。私がどうして理事をお受けしたか、同窓会会長をお受けしたかが記載されています。

1971年から5年間、静岡英和女学院院長及び短期大学学長をされた加茂巌先生と、浜松教会で繋がりがあったことが私を英和短期大学にホームカミングさせたと思えてなりません。

英和女学院同窓会浜松支部を「引馬野萩の会」と命名していただいたその夜、巌先生が天に召されたことを昨日のように覚えております。

「何か見えない糸で手繰り寄せられたような結着」で学長を受けられたとおっしゃっておられた加茂巌先生、私も同じような想いで理事と同窓会長をお受けしました。巌先生の意志は、巌のように堅固(けんご)ですが、心は幼子のように柔らかい心を持っておられ、私は、巌先生から本当の強さを教えて頂きました。

私は、92年11月頃から体調を崩し(くずし)、2年ほど浜松教会を離れました。その間、何度となく巌先生はお鍋いっぱいの加茂カレーをお届けくださいました。「みどりさんが元気になるなら」とおっしゃった巌先生の優しさ、深いお心に随分励まされ、生きてくることができました。そして、快復に向かったある日、静岡英和女学院から理事就任の要請があり、巌先生にご相談しました。

先生は、それはそれは嬉しそうに「みどりさんが理事を受けてくれたらこんなに嬉しいことはない」とおっしゃられ、お父さんのような存在の巌先生のお言葉とおりに理事を受けました。

その翌年、96年10月21日ホテルコンコルドで英和女学院浜松支部発足の会を持ちました。巌先生は、嬉しそうに笑みをいっぱい浮かべて英和女学院浜松支部を「引馬野萩の会」と命名してくださいました。そしてお席に戻られたのですが、「ちょっと、大事なことを言い忘れました」とおっしゃって再びマイクを持たれました。

「みなさんが英和女学院のお姉さんなら、松城幼稚園は小さい小さい妹です。
どうか妹を可愛がってください。」


そして、2時間後、花束を持ってお礼に先生のお宅を訪問しました。その数時間後に天に召されたことをお聞きしました。夜が明けるのを待って伺いましたとき、奥様の美恵子さんは、巌先生の隣で休んでいらして「どうしたことでしょう」とおっしゃったことを覚えております。由彦さん(現 松城幼稚園事務長)に、巌先生と生前約束してあったこと、私が今、生かされているいのちは巌先生のお陰ということをお伝えし、「巌先生との約束でしたので、葬儀の式次第を作らせてください」とお願いしました。

私は99年に、巌先生が学長をされた短期大学の同窓会会長を受け、巌先生への感謝の気持ちと一人のクリスチャンとしてミッション大学の同窓会会長として英和に置かれたという使命を感じ、英和短期大学を英和学院大学へと改組転換の労苦を担ってまいりました。

卒業式、入学式には、教職員と500名近い学生、保護者に祝辞を述べますが、いつも、私の心には、学長としてご労苦された巌先生のお姿があります。

私の母は、英和の寄宿舎で美恵子さんとご一緒でした。美恵子さんは私の母のような存在、そして巌先生は父のような存在でした。巌先生の加茂カレーに込められた温かいお心と支えのお陰で、巌先生のお言葉を胸に、静岡英和学院大学を育て、教職員、同窓生の心のカウンセラーとして一日一日を、主に生かされ生きております。巌先生の記念会のこの日、改めて、英和を愛し、英和の為にお働きくださった巌先生に感謝の想いでいっぱいでございます。 』

母から聞いた話ですが、引馬野萩の会の写真撮影は、写真を撮るのが大好きで友人の小倉祥司さん(現 松城幼稚園理事長)にお願いしたそうです。


加茂巌先生の前夜式・葬儀式次第は、我が家に 教会の仲間が集まり 夜遅くまで心を込めてつくりました。
そして、前夜式・葬儀は、母が すべてを仕切って 写真撮影まで行っていました。
母は、加茂巌先生から頂いた毛筆と手編みの靴下を今でも 大切にしています。

浜松教会のバザーでは、いつも 「加茂カレー」の食券は完売、
静岡英和学院大学でも「加茂カレー」は有名で グルメとして評判だったと、母から聞きました。

後先になりますが、加茂巌先生の記念会には、その当時勤めていらした 松城幼稚園の先生方もご出席、私の姉が園児だった頃です。その当時は、優秀な教員を採用する為北陸学院等にも声を掛けて 採用されていたそうです。素晴らしい知的な愛ある先生方ばかりだったそうです。

≪ 母から一言 ≫ ↓
『 キリスト教精神の幼稚園のレベルは いかに知恵と知識を兼ね備えた優秀なクリスチャン教師を採用し、イエス様の愛を惜しみなく園児に行動を持って伝えていくことだと思います。
加茂巌先生のように 一人ひとりを愛し、大切に育てていかれる姿勢が 今 求められているのではないでしょうか? 』

二度と私のように心身の痛みを受け、働くことさえできなくなってしまう人を出さないでほしい!!
決して いじめや暴力をするような事があってはならないと思います。

栞作りが大好きな母が、幼稚園から依頼されて 栞を作りました。





私の人生 17  試練は愛を育てる 2

2019年05月29日 17時55分05秒 | 日記
5月29日(水)


今日は、長谷川保先生について 書かせて頂きます。

今回も Wikipedia から コピーさせていただきます。


長谷川 保(はせがわ たもつ)先生は、(1903年9月3日 - 1994年4月29日)日本の福祉事業家、教育者、政治家です。

衆議院議員(7期)、衆議院文教委員長、社会福祉法人聖隷福祉事業団理事長、学校法人聖隷学園理事長、聖隷学園浜松衛生短期大学学長などを歴任した。

     
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。


ヨハネによる福音書13章には、最後の晩餐のとき、主イエスは「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて弟子たちの足を洗い…」とあります。当時、他人の足を洗う仕事は奴隷の役割でした。キリストは弟子たちに行動をもって最後の教えを示しました。これが聖なる神様の奴隷を意味する『聖隷』の語源となりました。外側の二重円は、このたらいを表しています。内側の三つの円は、聖隷集団の使命である医療(赤)、教育(青)、福祉(緑)を象徴しています。

福祉事業家として、結核療養所など医療施設の設立を推進し、多くの患者を救うことに尽力した。これらの医療施設は、のちに聖隷福祉事業団や聖隷学園などで構成される聖隷グループに発展した。また、日本で初めて特別養護老人ホームやホスピスをつくった人物としても知られている。なお、政治家としても活動しており、衆議院議員を7期務め、社会福祉の向上に力を注いだ。

1930年浜松市にひとりの結核患者のための病舎を建てた
のちにこの病舎はベテルホーム(ベテルはヘブライ語)。
旧約聖書に出る地名で「神の家」の意 と名づけられる。長谷川らの活動に対しては、多くの献金や寄附が集まるなど、賛同する者も多かった。
しかし、結核に対する忌避感から周辺住民らの反対運動も根強く、医療施設の経営は困窮していた。
そのような状況の中、昭和天皇より特別御下賜金が与えられ、経営危機を脱した。

1942年、聖隷保養農園が財団法人として認可され、常務理事に就任した。聖隷保養農園付属病院開設(聖隷三方原病院の前身)。
1952年、聖隷保養農園は社会福祉法人として聖隷保養園に改組され、理事長に就任した。
1961年、日本で初めての特別養護老人ホーム「浜松十字の園」を開設した。聖隷保養園は1973年に聖隷福祉事業団となるが、以降も引き続き理事長を務め、1980年に退任し会長に就任した。
1982年、日本で初めてがん末期患者などのための「ホスピス(緩和ケア病棟)」を開設など病院・福祉施設の拡充につとめる一方、各種学校遠州キリスト学園を始めとする各種医療関係学校を経営し、福祉・医療教育にも力を注ぎ、日本で最大級の社会福祉法人である聖隷福祉事業団をはじめとする聖隷グループの礎を築く。

生涯私的財産を持たないというポリシーを貫き、病院敷地内のバラック小屋に住み続けた。

遺言で死後も墓を作らず、浜松医科大学に妻とともに献体。骨格標本となり、医療者の教育に貢献しつづけている。






先日、CDやテープ等が納められている段ボール箱から、何と 両親の結婚披露宴の録音テープが見つかりました。
嬉しくなって 聞き入ってしまいました。 その中に 長谷川保先生の祝辞も入っていて 初めて 長谷川保先生のお声を聴くことができました。
ご夫妻とは 祖父母も両親も親しくさせて頂き、祖父が交通事故に遭った時、個人の病院で急変したため、父が聖隷に移し、(調度その時間は、長谷川保先生たちの聖書の学び会の最終日、なかなか来ない祖父を待っていたそうです。)
皆さんが 病院へ駆けつけ、支持を出して、最善の手当てをして頂きましたが、最初の処置が悪かった為、手遅れでした。明け方3時に息を引き取ったそうです。
長谷川保先生は、家まで来てくださり、祖母や両親に優しくお声を掛けてくださったそうです。

私は その時 3歳でした。 祖父の葬儀は、日本キリスト教団 浜松教会 献堂式前でしたが、牧師先生をはじめ会員の方全員が賛成してくださり、献堂式前に祖父の葬儀を行ってくださったそうです。500本用意した献花のカーネーションも足りなく、出雲殿も椅子を寄贈してくださり、キリスト教式の葬儀のモデルとされたそうです。

祖母は、長谷川保先生にお願いして、“浜名湖エデンの園”の一室をお借りして 晩年はそこで過ごしました。

その後も、両親は よく長谷川保先生をお訪ねしたそうです。
祖父は 長谷川保先生を「保っちゃん」とよく呼んでいたこと、父は分区の教会の友たちと、先生の所で聖書研究会を持っていたこと等を聞きました。

私が聖隷クリストファー大学で讃美歌指導をさせていただいた時のクリスマス礼拝の後で、長谷川了理事長が、「この子のお爺さんの竜三さんは、うちのおやじとすごい親しくて・・・」と他の方に紹介して下さいました。長谷川了理事長とは父も青年時代からクリスチャン仲間として親しくしていました。

長谷川保先生という とてつもない偉大な方ですが、長谷川保先生はイエス様がお弟子さんの足を洗われたイエス様の愛を貫き通され、決して贅沢をされず、多くの方々に愛をもって仕えられた方だと、両親から聞きました。

愛を惜しみなく与えられた 長谷川保先生
そして、長谷川保先生と親しくさせていただいた祖父の記念会の時に、両親が木の壁掛け『我と我が家は共に 主に仕えん』を出席された方に差し上げたそうです。
いろいろと両親から聞いて・・・祖父や父と、長谷川保先生と生き方が似ているような気がして 私は嬉しいです。


私の人生 16  

2019年05月28日 19時05分00秒 | 日記
5月28日(火)

いつも ブログをご覧いただき ありがとうございます。
昨日は 71名の方が 閲覧くださいました。
71名の方が 応援してくださっていると 嬉しいのですが、
恐らく 一部の方々は 冷ややかな負の視点でご覧いただいているのではと思われます。
とっても残念です。 心痛めています。

でも でも
私が少しでも元気になって・・・という 愛あるお声も聞こえてきます。

「私たちは 生かされているのよ。
生かされて生きるとは 愛することなの!」って 母がよく言っています。

今日は、私の曾祖母の弟 新村出 について記したいと思います。
母から聞いた話ですが、母は、言葉の意味が分からないと「新村のおじさんに聞いてごらん」と言われ 広辞苑をよく開いて調べていたそうです。

父方の祖父も、母がお嫁に来て すぐに 広辞苑を買い求め、自慢していたそうです。

ブログをご覧の皆様のご家庭にも、きっと 広辞苑(電子辞書?)をお持ちかと思います。

下記は、Wikipedia からのコピーです。

旧幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男として現在の山口市道場門前に生まれる。
「出」という名は、父親が山口県と山形県の県令だったことから「山」という字を重ねて命名された。

1889年(明治22年)4月に父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、徳川慶喜家の家扶で、慶喜の側室新村信の養父にあたり元小姓頭取の新村猛雄の養子となる。慶喜の多彩な趣味のひとつに写真撮影があったが、彼の遺した写真の中には若き日の出の姿を写したものもある。出は慶喜家で子弟の家庭教師も務めていた。

1906年(明治38年)から1909年(同41年)までイギリス・ドイツ・フランスに留学し、言語学研究に従事する。その間、1907年(明治39年)に京都帝国大学助教授、帰朝後に同教授となった。言語学講座を担当し、1910年(明治43年)には文学博士、1928年(昭和3年)には帝国学士院会員となる。1936年(昭和10年)に定年退官した。





新村出も、愛ある人だったそうです。
祖父母が、新村家を訪ねた時も、玄関外まで見送り、恐縮するくらい深々と頭を下げられたそうです。

あの出来事があってから、テレビを観る気力さえも無くなってしまいましたが、母の影響で『東大王』というテレビ番組が好きになりました。
しかし最近はテレビであまり放送されない為 You Tube で 母とよく観ています。
超難問クイズで よく 広辞苑が出てきます。
やはり 広辞苑 って すごいな! と、私の曾祖母の弟の新村出の偉大さを再確認してしまいます。



私の人生 15  試練は愛を育てる 1

2019年05月27日 15時24分00秒 | 日記
5月27日(月)

今日から 新しいタイトルで ブログを作ります。
昨日は、いろいろと考えさせられることが 多過ぎました。

その中で 思わせられたことは、「愛」でした。
悲しみを知っている人は 本当の笑みが零れ 悲しんでいる人に共感できると思います。
同情ではなく、共感です。

この私のブログをご覧になっている皆さんは、どんな思いで 読んでくださっているのでしょうか?
私の辛さ・悔しさ・心身の痛み・・・に、共感してくださるのでしょうか?

神様の愛は、とてつもなく 深い ということを 両親は よく言っています。
我が家では、驚くべき恵み という言葉が 連発しています。

でも、私は まだ そこまでは・・・。
どうしても、体調が悪いと 落ち込みます。
私の体中は、あの時の事件で いっぱいになります。

真実は、伝わりにくいです。

でも、母が最も尊敬している牧師の小島誠志先生は 次のように語っておられます。

「その裁きは人の目にはただちにわかる形で行われるのではなく、人の思いをはるかに超えた形で、根源的に行われるのです。私たちの期待よりもはるかに正しく。神の裁きとは、神がご自身の秩序を立てられる御わざであります」

尊敬できる牧師との出会いは 神様の愛を教えて下さいます。
でも、
神様の愛を伝える立場でありながら、考えられない卑劣な行動をしてしまった権威主義的な牧師も、残念ながらいます。


さて、今日から 
3人の方のことを記したいと思います。
母の曽祖父関口隆吉、関口隆吉の二男新村出(広辞苑)、そして 長谷川保氏(聖隷病院を立ち上げた愛の人、祖父・父の親友)

今日は 昨日の新聞に掲載された 関口隆吉の記事です。

関口隆吉は、クリスチャンではありませんが、愛に生きた人です。
菊川市が誇る郷土の偉人として、顕彰してくださっています。そして、来年には 菊川駅に銅像が立つそうです。



中心の方は 鈴木邦雄氏です。関口隆吉遺徳顕彰会会長として活動されています。







この記事は、「輝く静岡の先人」と題して 出版されたものです。
川勝平太県知事のお言葉が 巻頭言となっています。