5月31日(金) 今日は、私の父の事を書きたいと思います。
父は、誰からも愛される誠実そのものの人です。
取引先の方々や従業員、隣保の方々からも、そして、浜松教会をはじめ教会関係の皆さんからも信頼されていました。
私が生まれる前、父と母の結婚が決まった時に、取引先の東洋紡績株式会社の方から、「これからはガス焼き加工の時代、始めてみませんか」と勧められ、製作所の方と一緒にガス焼き機の開発に乗り出したそうです。
母がよく私に話します。 「お母さんが婚約式の時に助信に来たとき道路に面していたおじいちゃん・おばあちゃんの家が、
結婚式の時は裏の奥に移動して、ガス焼き工場が建てられていたのよ。」
半年の間に何とガス焼き工場を建て、機械まで開発してしまったのです。
調度バブルの時 超高級綿100%の糸はシルケット加工として評価が高く、お蔭で、教会にも多額の献金をすることができました。
祖父が亡くなり、二代目の責任で工場を建て直し、教会の100周年事業も終わり、雨漏りのする我が家も建て直すことが出来ました。
普通ではなかなか東洋紡や日清紡の本社との取引は不可能な時に、
直接このように取引をさせて頂いているというだけで地元からも信頼が厚く、お陰様でたくさんの仕事をさせていただきました。
綿糸ガス毛焼き機は、4号まで 開発しました。 製作所と中部ガスの皆さんに 随分助けて頂きました。
父は よく言っていました。
「 従業員は働いてくれている 」 と・・・。 働かせてあげているのではないという祖父からの会社の精神でした。
クリスチャンとしての生き方です。
「 ありがとう 」を、誰に対しても一日に何回も言っていました。
そんな忙しい毎日のなかで、松城幼稚園の加茂巌先生が園長を辞められるという大きな出来事が起き、父はその中で加茂巌先生と労苦を共にしたそうです。 その結果、父は止むを得ず、理事長の任を受け、 新規一転 幼稚園をスタートさせました。
神様から辞する時を与えられ、
理事長を信頼関係のあった加茂由彦さん(現 松城幼稚園事務長)に託しました。
その後は仕事と教会を両立させ、本当に朝早くから夜遅くまで働き続けました。
バブルが崩壊し、仕事も 日本の紡績は、海外からの輸入糸が多くなり、大量生産は海外へと移っていき、見本作りが多くなった商社の仕事が中心となりました。
会社を閉める時がきました。 長い間住んでいた家も工場も売却でき、借金も返すことが出来 本当に感謝でした。
私は 浜松に住んでいたくて 自分でアパートを見つけ、 兄も 浜松に残りました。
両親は『 袋井教会を応援したい 』と 父の一言で 新しい住まいを 袋井に決め 袋井教会へ転会しました。
私は、祖父母や両親が籍を置いていた浜松教会に残っていたくて 今現在に至ります。
でも、今は やはり あの事件の為、 何もできませんので 袋井で両親に助けられ 毎日を過ごしています。
父は祈りの人です。
幼稚園の理事長を辞める時も、会社を閉める時も、浜松を離れる時など、人生の節目節目に『時』を大事にしていました。
私は「 私の将来の夢は お父さんの仕事を継ぐ、尊敬する人はお父さん 」と、幼稚園の頃から 言っていました。
今でも、父の事を尊敬しています。
私の友人たちも父の事を尊敬していて、13年ほど前 2回目に幼稚園に勤めさせていただいてた頃、当時の彼と朝一緒に教会へ向かうと、私は教会学校の教師をしていましたので、ほぼ同じ時間にやっていた父が担当しているキリスト教入門講座に彼は出席していました。
父がとても分かりやすく話してくれると言っていました。
父が行っていたキリスト教入門講座を受講されていた方で洗礼を受けた方もいらっしゃいます。
教会などで、「 美耶ちゃんのお父さんはカッコ良くて優しそうでいいね! 」とよく言われ、自慢の父です。
自宅に母のプリザーブドフラワーの生徒が大勢みえる時は、父とランチタイムを持っています。
75歳になった今でも、普通じゃ考えられないくらい力があり、私が倒れると父が起こして支えながら部屋に連れていってくれます。 それだけ力仕事を何十年もしてきたのだと思いますし、とても頼りになります!
加茂巌先生や、父のように、聖書に書かれてある『時』を見失わないような生き方ができたらいいなと思います。
父は、誰からも愛される誠実そのものの人です。
取引先の方々や従業員、隣保の方々からも、そして、浜松教会をはじめ教会関係の皆さんからも信頼されていました。
私が生まれる前、父と母の結婚が決まった時に、取引先の東洋紡績株式会社の方から、「これからはガス焼き加工の時代、始めてみませんか」と勧められ、製作所の方と一緒にガス焼き機の開発に乗り出したそうです。
母がよく私に話します。 「お母さんが婚約式の時に助信に来たとき道路に面していたおじいちゃん・おばあちゃんの家が、
結婚式の時は裏の奥に移動して、ガス焼き工場が建てられていたのよ。」
半年の間に何とガス焼き工場を建て、機械まで開発してしまったのです。
調度バブルの時 超高級綿100%の糸はシルケット加工として評価が高く、お蔭で、教会にも多額の献金をすることができました。
祖父が亡くなり、二代目の責任で工場を建て直し、教会の100周年事業も終わり、雨漏りのする我が家も建て直すことが出来ました。
普通ではなかなか東洋紡や日清紡の本社との取引は不可能な時に、
直接このように取引をさせて頂いているというだけで地元からも信頼が厚く、お陰様でたくさんの仕事をさせていただきました。
綿糸ガス毛焼き機は、4号まで 開発しました。 製作所と中部ガスの皆さんに 随分助けて頂きました。
父は よく言っていました。
「 従業員は働いてくれている 」 と・・・。 働かせてあげているのではないという祖父からの会社の精神でした。
クリスチャンとしての生き方です。
「 ありがとう 」を、誰に対しても一日に何回も言っていました。
そんな忙しい毎日のなかで、松城幼稚園の加茂巌先生が園長を辞められるという大きな出来事が起き、父はその中で加茂巌先生と労苦を共にしたそうです。 その結果、父は止むを得ず、理事長の任を受け、 新規一転 幼稚園をスタートさせました。
神様から辞する時を与えられ、
理事長を信頼関係のあった加茂由彦さん(現 松城幼稚園事務長)に託しました。
その後は仕事と教会を両立させ、本当に朝早くから夜遅くまで働き続けました。
バブルが崩壊し、仕事も 日本の紡績は、海外からの輸入糸が多くなり、大量生産は海外へと移っていき、見本作りが多くなった商社の仕事が中心となりました。
会社を閉める時がきました。 長い間住んでいた家も工場も売却でき、借金も返すことが出来 本当に感謝でした。
私は 浜松に住んでいたくて 自分でアパートを見つけ、 兄も 浜松に残りました。
両親は『 袋井教会を応援したい 』と 父の一言で 新しい住まいを 袋井に決め 袋井教会へ転会しました。
私は、祖父母や両親が籍を置いていた浜松教会に残っていたくて 今現在に至ります。
でも、今は やはり あの事件の為、 何もできませんので 袋井で両親に助けられ 毎日を過ごしています。
父は祈りの人です。
幼稚園の理事長を辞める時も、会社を閉める時も、浜松を離れる時など、人生の節目節目に『時』を大事にしていました。
私は「 私の将来の夢は お父さんの仕事を継ぐ、尊敬する人はお父さん 」と、幼稚園の頃から 言っていました。
今でも、父の事を尊敬しています。
私の友人たちも父の事を尊敬していて、13年ほど前 2回目に幼稚園に勤めさせていただいてた頃、当時の彼と朝一緒に教会へ向かうと、私は教会学校の教師をしていましたので、ほぼ同じ時間にやっていた父が担当しているキリスト教入門講座に彼は出席していました。
父がとても分かりやすく話してくれると言っていました。
父が行っていたキリスト教入門講座を受講されていた方で洗礼を受けた方もいらっしゃいます。
教会などで、「 美耶ちゃんのお父さんはカッコ良くて優しそうでいいね! 」とよく言われ、自慢の父です。
自宅に母のプリザーブドフラワーの生徒が大勢みえる時は、父とランチタイムを持っています。
75歳になった今でも、普通じゃ考えられないくらい力があり、私が倒れると父が起こして支えながら部屋に連れていってくれます。 それだけ力仕事を何十年もしてきたのだと思いますし、とても頼りになります!
加茂巌先生や、父のように、聖書に書かれてある『時』を見失わないような生き方ができたらいいなと思います。