ねうねう句日記

いつか秀句をはきたいと、ねうねうとうち鳴きながら、より所なげに春の夜を・・・
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レンジ湯たんぽで悪寒・腹痛克服・風邪か煙草か/きっとニコチン中毒

2013-02-24 17:25:18 | 文学
レンジでゆたぽん Lサイズ
 

久しぶりの投稿です。万年スランプでしたが、急に体調を崩したのを排便・湯たんぽ・睡眠で克服したのが嬉しくてブログ更新です。

助かった、ゆたぽん

昨晩、深夜、窓際でちょっと本を読んでいたら足元からすごい悪寒がしてお腹まで痛くなってきた。エアコンで気温ボタンを押すと、お部屋の温度22度、外の温度1度という。

気持ちも悪くなってきて便通まで催してくる。出たらすっきりするかもとトイレへ。朝出る予定だったろうものが普通に出て少し落ち着く。

が、口の中が気持ち悪くなりお腹も痛いし寒い。気持ち悪いのはさっきまで渋茶をあおりタバコを4本立て続けにすって急タtンニン・ニコチン中毒にでもなったのかしらん!

どうしよう!24時間循環風呂であったまるのがいいのだけど、パジャマを脱ぐ元気もない。そうだ湯たんぽだ!このまえSIMAHOで買ったではないか。

Lサイズでチンすること表4分裏3分。抱いてベッドにもぐりこむ。お布団の中でまだがたがたしている脚、膝の上に乗っけると・・・あ~買っといてよかった。

大きさ2倍で真ん中が薄くなってるので右足と左足の膝の上にうま~く乗っかる。暖かさがつま先へ、お腹へとひろがる。

それからお腹に移し、胸にあて、冷えてる右肩にのせているうちにぐっすり寝てしまった。

6時間くらい寝たろうか、気が付くと湯たんぽは右の脇に。まだ温かい。うたい文句どおり7時間保温していた。

あの冷え切った脚の上、両膝に広がっていく暖かさ幸せだった。

それにしても、煙草はほどほどにしないと。いつ体調が悪くなったのか自分でも気づかないこともある。軽く一本たしなみ程度に吸いましょう。


鬼王殿に逢ませう 許六

2012-09-15 14:26:42 | 文学

(大津絵・鬼に追われる大黒)

元禄16年、彦根蕉門の歳旦帳・歳暮吟に

  大年や鬼王殿に逢いませう 許六 

というのがある。鬼王殿がどうして大晦日に出てくるのか不思議だったが、歳時記をみたら納得。

平安時代、宮中では大晦日に盛大に行われた悪鬼・疫礪を払う「追儺」の行事があって、それが諸国の社寺にひろまっていった。

今の感覚では二月節分の行事に豆まきをするのだが、それは実は「追儺」が変形したものという

江戸時代は大晦日あちこちの寺社で鬼やらいがあって、鬼王殿が多数出没していたのだろうか。

お正月を前に、追い払われる鬼だが、大晦日に人間に追いかけられるのもちょっと楽しいかも。

(追われる鬼)

あー大変だった、お風呂できれいになって年越ししましょう。腰蓑は雲にひっかけている。

鳥耳斎「地獄絵」。人をキセルと煙草入れのタバコにして苦しめてる鬼。鬼も人もゆるくて。2012年府中市美術館。

  


改行が生む余白余情

2012-08-22 00:10:53 | 文学

俳諧と俳句は究極の韻文学であると思うが、句作においても鑑賞においても、さび、しおり、かるみ、姿だの風体だの上滑りしてしまう用語だらけの文学である。

ふだんそれらについて意図的に考え込むのをさけてきたが、「切れ」において有益な論を読むことができた。

揖斐高「改行論」平成14年3・4月号の『文学』 より  揖斐氏ねうねう

俳句すなわち俳諧の発句が「詩」であるためには「切れ」が不可欠であった。わずか5・7・5の17音からなる発句は句の途中で意味の連関を断ち切ったり、句末を強く言い切ったりすることによって一句の独立性を確保しつつ、余情や詠嘆を表現する詩であった。

近世和歌における長歌と明治新体詩との表記形式上もっとも大きな違いは改行の有無であった。新体詩は、西洋の近代史をもとに不徹底ながら伝統的な長歌形式とは異質な改行形式を導入していた。

このころ正岡子規は、「新体詩押韻の事」(日本人・第38号・明治30年3月)の中で、散文的になりがちな新体詩を、押韻することで韻文たらしめようと提唱する。しかし日本語の文末にくる動詞・形容詞などは語尾が定まっている為、倒置法を多く用いて名詞止めを多用することになる。それを「韻を踏みたるがために佶屈聱牙ともならん」と佶屈聱牙=曲折が多くなる、と断りつつ、和歌と俳句に通じた子規は「曲折多きは韻文をして趣味多からしむる所以なり。俳句には比較的に曲折多し。和歌者流が俳句を目して佶屈聱牙となすも亦韻文を知らざるなり」と、新体詩に「曲折」を求める。

 子規は「切れ」という特殊な俳諧用語を、和歌や新体詩の表現分析のために「曲折」という語に置き換え、「曲折」した表現がもたらす印象を「佶屈晦渋」という語で表したように思われる。   子規は新体詩が「詩」でありうるためには「曲折」=「切れ」が必要だとしたのである。・・・・中略・・・・これは別の言い方をすれば、改行表記が採用された新体詩の詩句と詩句の間には 「曲折」を抱え込んだ空白がが常に存在するようになったということである。

さらに、この空間は詩句と詩句の間に順接・逆説的な関係を暗示し、意味連関の内包、断絶や転換の表彰ともなり、空白を読む読者に余情が発生すると論じていく。 以下は、粗末な頭で自分が理解したところ。

すこしづつ新体詩に定着していった「改行」は俳諧における「切れ」の発生であり、それが生み出す空白にこそ「近代の新たな抒情は、初めて新体詩にその表現の場を見出した」のである。

「切れ」の問答といえば芭蕉の「唐崎の松」の句をめぐる問答が名高い。『去来抄』から引用しておこう

 辛崎の松は花より朧にて    芭蕉


伏見の作者、にて留の難あり  其角曰く「『にて』は『哉(かな)』に通ふ。この故、哉どめの発句に、にて留めの第三を嫌ふ。哉と言へば句切れ迫なれば、にてとは侍るなり」。  

呂丸曰く「にて留めの事は、已に其角が解あり。又、此は第三の句なり。いかで、発句とは為し給ふや」。  

去来曰く「是は即興感偶にて、発句たる事疑ひなし。第三は句案に渡る。もし句案に渡らば、第二等にくだらん。

先師重ねて曰く「角・來が辨皆理屈なり。我はただ花より松の朧にて、おもしろかりしのみ」となり。


景観画像・星野聰・磨針峠

2012-07-25 11:53:23 | 文学

ご近所でもある「文学堂」さんの奥様は「断捨離」をはじめられたようだ。それもご自分の研究のためにに集めたりもらったりの書籍から。「もうそんなに長くありませんのでね、若い方に使っていただけるなら。」小柄できれいな方である。江戸の昔から今に至るまで「文読む」乙女や刀自はいるんですよね。日本の古典文学の裾野は女性に支えられているんだな、と思います。

第一弾は文学研究の機関誌、学術誌である。とはいえ彼女の知己から「こんどこういうものを書いたので」と贈られた大学の学術誌、種類はさまざま、号数はとびとび。こちらも団舎利推進中であるし、ここが思案のしどころである。ミイラ取りがミイラになるのは必定ということ。読んでもすぐ忘れる、でも読みたい。

1)種類別におおまかにわける。目次から俳諧・和歌関係をピックアップして読む。ブログに書く(書誌だけでも)。  2)大学の院生図書室に並べる。誰かが手に取って利用してくれていいし、完璧に揃ってなくてはイヤ!本棚をふさぐな!という潔癖な図書委員の目に止まったら廃棄していただく・・・。

ことにしよう

001 

「景観画像の文学」  国文学資料館講演集14 ―国文学研究・資料と情報―平成4年

 星野聰 京都大学大型計算機センター教授 主著『続日本紀総索引』他 

 平成4年当時人文科学へのコンピューター応用を研究されていた方の講演。 この先生は文学部に入った経歴はないがとくに「歴史や文学に関係があって興味深い地域の景色」を長年ハンディカメラやビデオで写してきた。

ここでいう「景観画像」はそれらをはじめフィルム資料などを、コンピューターにとりこんで保存し、膨大な画像を能率よく検索できるシステムを構築すること、さらにどのように文学に結び付けて実用化していくか、が課題であるという。 画像をたくさん入れておく安価な媒体としてCD-ROMが有望です。一枚で900コマくらいの画が格納できます。なーんて言ってる。10年前はみんなで感心したに違いない。

実用化ねー。平成24年の今、博物館や資料館は、展示企画において画像をふんだん保存された画像を探したり使用できることは大助かりであることは想像に難くないが。景観ではないが絵画で著名な画題のものを時系列にならべてみれば、いままで指摘されてこなかった比較による新しい見解もでてくるだろう。研究集会では花盛り傾向になってくるだろうなー。しかしここでいうのは「景観」。私がこの論文に関心をもったのはほかでもない、二か月ほど前にブログに書いた三河湾の竹島付近の景観と万葉集という文学に結び付けられた記事があることだ。さらに彦根ー米原間にある磨針峠から見る琵琶湖の景観の変遷を推理している箇所があること。

1)万葉集272番「四極山(しはつやま)うち越え見れば笠縫の島 漕ぎかくる棚無し小舟」  高市連黒人

大宝2年に持統太政天皇が(すでに文武天皇に譲位)三河のくにへ行幸され、その時随行した高市連黒人の歌について次の地理的解釈。

  さてここにお鍋をひっくり返したような形の島があります。これは笠の形をしていると思いますが、竹島とい う小島でこれが笠縫の島だと思っています。この島は蒲郡の海岸からごく近くにあっ  て、今は橋で渡れるのです。またこの島に向かい合って海辺に低い山があり、今は蒲郡プリンス(クラッシック)ホテルがその上にたっています。(私は)これを四極山にあてています。

持統太政天皇の行幸した大宝2年といえば大宝元年(701年)に大宝律令が完成した翌年である。そんなころから竹島は蒲郡の海辺にあって、すでに竹生島から弁天様を勧請していたのだ。蒲郡ホテルのあった四極島には今でもなにか遺跡が眠っていそうな気がする。

2)270番歌 「旅にして物こほしきに山下の 赤のそほ舟沖を漕ぐ見ゆ 」 高市連黒人

  黒人はこれをどこで詠んだものか、実は米原と彦根の間にある磨針という峠でございます。こういったことを説明するにも景観表示を使いますと、人を納得させる手段としてあるいは一般研究  支援のために役立つと思っているわけです。ここが米原です。その南西に大きな入江がありました。ところが戦争中食糧難のため干拓し、今は農地になっています。しかし、ここに入江がありますと、黒人の歌を磨針峠で詠んだとしても矛盾がないのです。・・・東の方から来ると磨針で初めて近江が見渡せるのです。もうすぐ都、そこで本当に嬉しそうな詩を詠んだ義堂(義堂周信か)という僧がいます。逆に峠を東に越えますと、もう琵琶湖はみえません。東に行くときはここで旅装束に変えていく、ここで見送る。そこで磨針峠はさびしい270番歌とよく合うのです。

かつて磨針峠には望湖亭という茶屋があってそこからの眺望は素晴らしく、往来の人々は感慨ひとしおであったという。竹島にしろ、磨針峠にしろ、現地を知っているのでやすやすと星野先生のお説に納得してしまう。次は星野先生の結びの言葉。

「そういうわけで景観表示にコンピューターを利用すると文学だけとはいいません。歴史、地理その他、ひろく人文科学への研究に大変役立つものと考えています。」