ねうねう句日記

いつか秀句をはきたいと、ねうねうとうち鳴きながら、より所なげに春の夜を・・・
  。

覚書3

2012-03-31 05:30:22 | 日記
2月中旬のある日、10時30分川崎駅に従妹同士三人集合。タクシーで叔父のアパートへ行く。晴れた日であったこと、それなりに三人久しぶりに揃って顔会わせが楽しかった。
うちの母にしろ昔の人はどうしてこんなに布団を持っているのだろう!きれいな布団や毛布は感激のおもてなしだ。泊まりに来る人なんて誰もいなくても、ちゃんと持ってるということで気持ちに安心感が生まれるのだろうか。一間の押入れ上段の容積の底力どいったらない。
朝11時から昼休みを除いて6時まで、今日一日で終らせようと必死になってしまった。NTTに電話をして電話を切り、プロパン屋に電話してガスボンベを引き上げに来てもらう。事前に頼んでおいた廃品回収業者にテレビや洗濯機、タンス、エアコンなど持っていってもらう。あれはどうかしら、これも使えるわよと、ついこの前まで叔父が使っていた家具や道具を平気で処分していく。ついに叔父の荷物は38リットルのキャリーバックに詰め込まれた身の回り品だけになってしまった。

実は救急で運ばれる時、彼が常に通院して痰を吸引してもらったりしていたK病院から救急の受け入れを断られ、叔父はS病院に入ったのだった。その時は命を取り留めたことに、S病院になってよかった!と思っていた。

しかしもともと叔父はK病院が総合病院になるときの設立資金を一口出すくらい昔、おそらく40年間も前から、月に四、五回はタンの吸引やそのほかで通院していたと思われる。
多分・・・先生達や看護婦たちより長くK病院に出入りしていて、当然同じ公害病の通院仲間・・相哀れむ同病の友もいるに違いない。救急さえ断られなかったら、K病院に入院していて、友達なんかも見舞いに来てくれたかもしれないのだ。

こういうこと、86歳の老人の友人や交友関係などまったく考えても見なかった。いままで、とにかくお金お金、生活保護費を打ち切られてそのあとどうするのか!そればかりだった。

続く・・・・

覚書2・

2012-03-30 23:48:05 | 日記
この前のブログで知識や心構えがなかった私たちはいろいろと臍をかむことになった、と書いた。
それは日本の福祉の中の「生活保護」の制度に対してのものではなく、その制度に携わる人や組織と私たちのような無知な代行者のスレチガイによるものと言っておかなくてはならない。制度そのものは改めて「よく出来ている」と思う。社会保険労務士、ってどんな資格なのか見当もつかなかったが、こういう制度のプロなのかな。

一月は三人の従妹たちでシフトを組み、夢うつつ時々正気の叔父を見舞う。叔父とも「海に散骨なんてバカ言わないで、亡くなったおばさんと同じお墓に入るの!」などと話ができて、この頃が一番親密で楽しい叔父と姪のなごやかなひと時だった。
S病院の担当医師は丁寧に病状を知らせてくれ、今後の見通しなど三回面談して伝えてくれた。看護士たちも明るくきびきびとよく働き、患者の困った言動にも(錯乱してる時汚い言葉を吐いたらしい!!)笑い流してくれるし、私たちがいつ行っても「マズイんじゃない」と思えることはなかった。何より叔父が命をとりとめたことが、この病院の救急医療とその後の対応が私達には目がハートだった。

急展開その1)
一月下旬、担当医師に叔父の容態が安定したことを告げられた。しかし両肺は真っ白で、もう肺機能が極限まで落ちており、酸素吸入は必須で病院からは出られないという。ここは急性期の病院なので、治療の継続と療養ができる病院に転院してもらいます、ケスワーカーがいるから相談してね、とも。死ぬまで病院暮らしか~。
その2)
ケースワーカーKR嬢は若く、親切で、専門知識に裏打ちされた説明は頼りになることこの上ない。しかし若さゆえに知らないこともあってあたりまえだな~と、責めることの出来ないリスクを感じてもいた。彼女がいうには療養型病院が決まるまで別の病院に移ってもらうことになります、ということだったが、はあそんなもんかと深くも考えなかった。
その3)川崎市生活保護課STの登場
ST氏とは従妹Tがこれまでも対応していたが、叔父が自宅に戻ることはムツカシイという医師の判断を聞いて、さっそく「もう帰ることはないようですから、なるべく早くアパートを引き払ってください」と通告される。引き払うって、だれが片付けるんだ!
しかし税金で保護費を頂いている以上とにかく早く引き払わなければならない。しかしみんな家庭があって仕事もしてる。あんなに無理して超特急で片付けしなくたってよかった。何しろ独り者のくせにその荷物の量ったら!

・・・・・・続く


覚書・生活保護という福祉

2012-03-30 14:01:31 | 日記
無知だからこそ、善意だけで「手伝いましょう」と言えるのだなあと思うことがある。
というよりあまりに無防備だった。しかし人には切り捨てることもできない肉親とシガラミというヤツがあるので、今後のためにも私以外の人のためにも記録しておこうと思う。

2011年12月25日 世田谷の従妹Tより、川崎の叔父Mが倒れて川崎S病院へ運ばれたと連絡受ける
        以下その日の経緯

Tはケアマネージャーから、「叔父さんを訪問したらひどく具合が悪そうだ」、と連絡を受ける。
Tは「明日もう一度見に行って、やはり状態悪ければ救急車呼んでください」と依頼。
その夜Tは叔父に電話してみるとまともに話ができない錯乱状態。
急いで車で叔父の家に行くと、受話器を放り出したまま仰向けに倒れていた。
救急車で病院へ搬入。医師にはよく生きてましたね、といわれたという。重度の肺炎・気管支炎だった。
2011年12月26日 従妹Tと戸塚の従妹E 病院へ。危篤と言われ私も呼び出される。
        少し安定し、そのまま年越し。

叔父は早く妻を亡くし、子も無くずっと独り者だった。大正14年生まれの86歳。そして初めて知ったことだが、叔父は生活保護受給者だった。川崎の工場で働いて、俗にいう川崎病(川崎公害病)の「公害医療手帳」を持っていることは知っていたがいつの間に生活保護を受けるはめになっていたのか。
アパートを借りる保証人になっていた従妹Tによれば、最初のアパートが取り壊しとなり、新しいアパートの家賃は払えず、家賃扶助を受けることになったという。これも後で知ったことだが、生活保護には生活扶助や住居扶助、医療扶助など七項目くらいあり、一つの扶助でも生活保護認定者である。叔父はわずかな年金と公害保障費があったため、家賃部分の足りない分と思われる1万8千円が毎月入金されていた。

さて救急車による搬入、救急医療、莫大な医療費はどうなるのか?
一月に入ってS病院のケースワーカーに面談。
「医療費は生活保護費から支払われます」「みなさんは扶養義務のない方なので、金銭的援助を無理をされることはありません」この言葉にどれだけ気持ちが楽になったかわからない。

しかしほっとしたのも束の間、「福祉」という名の生活保護制度に無知な私達は「臍」を噛むことばかりが続いたのだった。

続く・・・次回「2月~3月まで」