#馬燧 新着一覧
德宗宰相史2
淮西李希烈の東都侵攻を救援する涇原軍の反乱により德宗皇帝は京師を棄てて奉天城に逃亡し、朱泚・李忠臣が反し奉天も攻囲され滅亡に瀕しました。河北から李懷光が反転して救援したため助かりましたが...
汴宋 李靈耀の乱
汴宋八州節度使は淄青・淮西と並んで平盧軍系の節度使で、長らく田神功が統治し、その没後は...
幽州節度使 朱滔の乱 1
滔は泚の弟で、泚が入朝した跡、幽州節度留後となり実質的な節度使となりました。建中2年正月...
朔方河中 李懷光の乱 2
興元元年5月李晟は京師回復に成功しました。興元元年6月德宗皇帝は懷光を招慰しようとします...
朔方河中 李懷光の乱 1
懷光は渤海靺鞨人で、本姓茹。勇敢で親族と雖も不法を許さない厳酷な性格でした。父の代より...
魏博 田承嗣の乱 2
大暦10年9月李寶臣・李正己軍が棗強で会同し、貝州を囲みましたが、対立し解散してしまいまし...
魏博 田悅の乱 1
悅は初代魏博節度使承嗣の甥であり、承嗣に代わって軍を指揮していました。大暦11年には汴宋...
貞元三年 西暦787年 2
閏月辛未,渾瑊及吐蕃盟於平涼,吐蕃違約、執殺會盟副使崔漢衡等。德宗は宰相達を前に、「本...
貞元三年 西暦787年 1
正月壬寅,張延賞が再度宰相となる。 延賞は李晟との不和により解任されたとはいえ德宗の信...
貞元元年 西暦785年 2
八月,馬燧至行營,攻長春宮 河中を守る長春宮は堅城ですが、守將徐庭光以下は戦意はなく、...
建中二年 西暦781年 3
十月乙未,楊炎は貶崖州司馬へ左遷され途次殺された。 盧杞は陰険であり敵は徹底的に排除し...
- 前へ
- 1
- 次へ