大暦10年9月
李寶臣・李正己軍が棗強で会同し、貝州を囲みましたが、対立し解散してしまいました。
李忠臣も衛州を解囲して黄河南へ撤退しました。
寶臣と幽州朱滔は滄州を攻めましたが、承嗣從父弟庭玠に撃退されました。
大暦10年10月
成德寶臣と昭義李承昭は盧子期を磁州清水縣で大破し、子期は誅されました。
河南諸將[李忠臣等]は田悅を陳留?で大破しました
承嗣は淄青李正巳を籠絡し南からの侵攻を停止させることに成功しました。
また宦官が賄賂が少ないと寶臣を侮辱したため、寶臣軍もはかばかしく動かなくなりました
大暦10年11月
承嗣瀛州刺史吳希光が朱滔に降りました。承嗣は滄德瀛磁三州を失っています。
大暦10年12月
承嗣は正己を仲介として和を請うています。
大暦11年正/2月
承嗣は降ろうとし、諫議大夫杜亞が宣慰使として復官と所領安堵を通告しました。
大暦11年5月
乱は収まるかと思えましたが、汴宋留後田神玉が卒し、將李靈耀が自立し、承嗣に通じました。
大暦11年7月
承嗣軍は滑州を攻撃し、永平軍節度使李勉軍を破りました。
大暦11年8月
靈耀は承嗣の支援を受けて全面的に反乱し、淮西李忠臣.河陽馬燧.淮南陳少游.永平李勉軍と戦います。
大暦11年10月
承嗣は田悅に三万を率いさせ靈耀を支援し、永平、淄青兵を于匡城に破り汴州に進軍しましたが、そこで李忠臣・馬燧軍に大敗し、悅は逃走し、靈耀は誅されました。
大暦12年3月
承嗣は再び赦されました。
唐朝としては中央軍を派遣できず、経費ばかりかかり私利を追う藩鎭軍に頼ることに限界を感じていました。
承嗣は相継ぐ敗戦で、せっかく組織した軍の大半を失い。
相衛邢洺四州を併合しましたが、滄德瀛磁四州を失い、得るところはあまりありませんでした。
失意の承嗣は14年2月に卒します。
李寶臣・李正己軍が棗強で会同し、貝州を囲みましたが、対立し解散してしまいました。
李忠臣も衛州を解囲して黄河南へ撤退しました。
寶臣と幽州朱滔は滄州を攻めましたが、承嗣從父弟庭玠に撃退されました。
大暦10年10月
成德寶臣と昭義李承昭は盧子期を磁州清水縣で大破し、子期は誅されました。
河南諸將[李忠臣等]は田悅を陳留?で大破しました
承嗣は淄青李正巳を籠絡し南からの侵攻を停止させることに成功しました。
また宦官が賄賂が少ないと寶臣を侮辱したため、寶臣軍もはかばかしく動かなくなりました
大暦10年11月
承嗣瀛州刺史吳希光が朱滔に降りました。承嗣は滄德瀛磁三州を失っています。
大暦10年12月
承嗣は正己を仲介として和を請うています。
大暦11年正/2月
承嗣は降ろうとし、諫議大夫杜亞が宣慰使として復官と所領安堵を通告しました。
大暦11年5月
乱は収まるかと思えましたが、汴宋留後田神玉が卒し、將李靈耀が自立し、承嗣に通じました。
大暦11年7月
承嗣軍は滑州を攻撃し、永平軍節度使李勉軍を破りました。
大暦11年8月
靈耀は承嗣の支援を受けて全面的に反乱し、淮西李忠臣.河陽馬燧.淮南陳少游.永平李勉軍と戦います。
大暦11年10月
承嗣は田悅に三万を率いさせ靈耀を支援し、永平、淄青兵を于匡城に破り汴州に進軍しましたが、そこで李忠臣・馬燧軍に大敗し、悅は逃走し、靈耀は誅されました。
大暦12年3月
承嗣は再び赦されました。
唐朝としては中央軍を派遣できず、経費ばかりかかり私利を追う藩鎭軍に頼ることに限界を感じていました。
承嗣は相継ぐ敗戦で、せっかく組織した軍の大半を失い。
相衛邢洺四州を併合しましたが、滄德瀛磁四州を失い、得るところはあまりありませんでした。
失意の承嗣は14年2月に卒します。
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