淮西李希烈の東都侵攻を救援する涇原軍の反乱により德宗皇帝は京師を棄てて奉天城に逃亡し、朱泚・李忠臣が反し奉天も攻囲され滅亡に瀕しました。河北から李懷光が反転して救援したため助かりましたが、德宗はまた懷光をも疑って反乱させ再度窮地に陥りました。興元元年德宗は謝罪し、李納・王武俊・田悅を帰順させたため事態は好転し、朱泚を滅ぼし、貞元元年には懷光も誅しました。建中4年~貞元元年をアップします。
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07睿宗代宗宗宰相史 [リンク]
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04則天宰相史 [リンク]
03高宗宰相史 [リンク]
02.太宗宰相史 [リンク]
01.高祖宰相史 [リンク]
唐後半の反乱年表[xls]
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