興元元年5月
李晟は京師回復に成功しました。
興元元年6月
德宗皇帝は懷光を招慰しようとしますが、李晟は反対します。
興元元年7月
それでも德宗皇帝は懷光を招慰しようとして、宣慰に慣れている孔巢父を送り太子太保とし入朝を促し、代わりにその軍の統率をするものを求めました。懷光の周辺は怒り巢父等を殺害しました。懷光もそれを止めようとしませんでした。
興元元年8月
朔方渾瑊・河東馬燧に懷光征討を命じました。
河中の属州である晉州の懷光妹婿要廷珍,隰州の牙將毛朝易文,慈州の鄭抗は馬燧に降りました。
さらに馬燧は絳州を攻めました。
興元元年10月
馬燧は絳州を陥し、聞喜、萬泉、虞鄉、永樂、猗氏諸縣を取りました。
懷光將閻晏が同州を攻めましたが、沙苑に敗れました。
興元元年閏10月
鄜坊唐朝臣は河中永樂縣を取りました。
興元元年12月
渾瑊は懷光軍に乾坑で敗れました。
貞元元年3月
懷光都虞候呂鳴岳が馬燧に密通し殺されました。懷光の幕僚李鄘・高郢達も連座していました。
馬燧軍は寶鼎・陶城に懷光兵を大破し、渾瑊とともに進攻しました。
貞元元年4月
馬燧・渾瑊は懷光軍を長春宮に破りました。
徐光・石崇憲等諸将は次々と降りました。
馬燧、渾瑊を河中招撫使としました。
貞元元年5月
邠寧韓遊瓌は渾瑊とともに河中朝邑を攻めました。懷光將閻晏は戦おうとしましたが、麾下の士卒は邠寧軍を見て「あれは父や兄弟達だ、戦うことなどできようか」と騒ぎ、狼狽した晏は撤兵しました。
懷光は既に衆心が去っていることを知り、まもなく歸朝するつもりだと称して事態を抑えていました。
貞元元年6月
時に關内は飢饉で唐朝側も財政的に限界に達し、德宗皇帝も征討をやめ、懷光の歸順を考えていましたが、李晟は「懷光を赦せば、渾瑊や康日知など功臣に与える土地はありません。河中の崩壊はもうすぐです、なんなら私が自ら征討にいきましょう」と提言しました。
貞元元年7月
懷光將徐庭光が長春宮を、尉圭が焦籬堡を降以って降りました。
貞元元年8月
馬燧軍は河中を包囲し、応戦しようとした懷光の命に將士は服しません、絶望した懷光父子は自殺しました。大将牛名俊が斬首して降りました。
燧は將閻晏等七人だけを斬り、あとの將士は免罪しました。軍の大部分は渾瑊により朔方軍に統合されました。
寝覚めの悪かった德宗皇帝は懷光の葬儀を認め、外孫李承緒に家系を継がせました。
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