遭難フリーターHP
http://www.geocities.jp/sounan_freeter/top.html
渋谷ユーロスペースで3月公開
http://www.eurospace.co.jp/detail.html?no=187
■2009年に『遭難フリーター』を観る意義
まず、この映画の面白さは、派遣労働者本人がカメラを持ち、声を挙げたという点にある。
派遣労働者でなければ撮れない光景が新鮮である。特に印象深かったのは同じく派遣労働者の友達に部屋で髪を切ってもらうシーンだ。将来への不安を抱きながら、つかの間の人間関係が描かれる。この会話は、撮影者と彼の二人きりでなければ切り取れなかった瞬間だろう。そして、彼は突然工場を去ってしまう。さりげないエピソードでありながら、派遣労働者の流動性を象徴すると同時に、寂しさがこみ上げてくるシーンである。
ただ、この映画をただ鑑賞しただけに終わらせず、観る者に問いかけていることについて、真剣に考える必要があるだろう。
そもそも、「若者自身が声を挙げる」というテーマについては、2006年ぐらいからの労働運動の盛り上がりや、07年~08年の若者による雑誌創刊ラッシュもあり、一つのピークを迎えていると思う。そのムーブメントが映画作品として結実したことは非常に珍しいし面白いが、この映画じたいも06年~07年の製作である。2009年の今は、その「声を挙げた」中身が問われる転換点に来ているのではないだろうか。
だから、観る側も、この映画で非正規雇用の若者の「リアリティ」を単に面白がるだけではなく、何を読み取ることができるのかを考える必要があると思う。特に労働運動に何らかのかかわりを持っている人であれば尚更だ。実はその観点から見ても、刺激的なシーンや論点がごろごろ転がっていて、とても興味深い作品である。
中でもやはり問題提起になるのは、岩淵さんが労働運動の意義に対して否定的だという点だろう。そこから、運動が考えるべき二つの課題があると思う。
■普遍性の高い労働運動の必要性
一つは、労働運動の普遍性の問題、つまり主義主張や文化的なスタイルの問題である。
劇中、岩淵さんに「君は奴隷だ」とアジテーションを敢行する中年男性が描かれる。この説教に反発する岩淵さんの姿に対し、「この若者はけしからん」と憤慨したり、「これが普通の若者で、労働運動の論理を持ち込むほうがおかしい」と開き直ることも簡単だと思う。だが、むしろ若者と連携することのできていない既存の運動が抱える課題を語るべきなのではないだろうか。
スローガンやイメージ戦略という意味において、現在の労働運動でも、広範な主義主張、価値観の人たちに受け入れられることに課題を持っているのではないだろうか。「反貧困」や「生きさせろ」は広範な普遍性を獲得できていたと思う。しかし一方では、古い世代のスタイルや、閉鎖的な文化に陥ってしまっている部分も否めないと思う。前述の中年男性がどのようなバックグラウンドを持っているのかはわからないが、岩淵さんのような若者を勧誘できるだけの運動に関われているのだろうか。単に説教をぶちまけるだけでは、「単なる自己満足じゃないか」「運動を自分のアイデンティティに矮小化しているのではないか」という批判もされかねない。若者に共感を呼ぶような運動のあり方を追求する必要がある。これはPOSSEでも取り組んでいる大きな課題の一つだ。
■「生きづらさ」のために労働運動は何ができるか
そして、もう一つの課題は、労働運動が、こうした若者のアイデンティティの問題、精神的な「生きづらさ」の問題にどのような役割を果たすことができるかということだ。
見ていて拍子抜けしたのだが、岩淵さん自身は、運動の意義について否定的だと言いながらも、サウンドデモに楽しそうに参加している。逆に言えば、労働運動に参加しているにもかかわらず、その社会的な影響力については懐疑的なのだ。シュプレヒコールは叫ばないが、「音楽がかかっていて、非日常的な空間が楽しいから」その中に混じって街頭を歩いているという。
これは一見矛盾しているようだが、労働運動の機能が提示されていて面白い。ここでは、運動が居場所のコミュニティの機能に特化しているわけである。運動に直接参加することによる「生きづらさ」への作用がクローズアップされているわけだ。
先に岩淵さんの「生きづらさ」について推測すると、彼はこれを今はある程度克服していると思う。それにはまず、岩淵さんが今は工場での派遣から、まだ「マシ」な(それでも派遣だし、単調で「つまらない」仕事らしい)給料の仕事をしていることも、彼自身の不安定さの克服につながっていると思う。しかし、そもそも「マシ」な仕事への移行の道が閉ざされてしまっている人も少なくないだろう。
その上で、この映画を撮影し、「表現」したことが大きな意味を持っていると思う。カメラを持って雨の降る夜の東京をひたすら歩いたことで、岩淵さんは「生きる実感」が持てたという。そして完成した映画は社会的に注目された。しかし、そもそもこうした自己表現ができない人が多いのではないか。撮影技術もなかなか習得できないだろうし、「自分の置かれた状況が、たまたま現代の問題と合っただけ」と岩淵さんが語っているように、今からカメラで自分撮りをしても、二番煎じを超えるアイディアとスキルが必要だ。
話を戻すが、彼にとっての労働運動の意義についても、映画制作の延長で考えられると思う。岩淵さんがサウンドデモに参加する目的は、自己表現によるアイデンティティ的な解放感や楽しさにあるわけだ。しかし、この活動に普通の若者が誰でも参加できるのかと言うと、そのスタイルに置いて、まだ課題はあるだろう。
このように、アイデンティティの不安定さの問題を自己表現で解決しようと思っても、岩淵さんのようになれない人はどうしても出てきてしまうと思う。言ってみれば、自己表現の活動・運動は、「生きづらさ」問題を個人的な課題に収斂して捉えてしまうことにつながりかねない。むしろ、アイデンティティの問題を社会的な枠組みで考えることが必要なのではないだろうか。
断っておくが、最初に強調したように彼が2007年にこの映画作品を創ったことの意義は大きい。だから、この「自己表現としての運動をどう考えるか」という問いについては、09年の今、鑑賞する側が受け止めて考えるべき課題である。中にはそうした実践的な意識から離れて本作から「若者のリアリティ」をアーティスティックに批評したい人もいるだろう。しかし、労働運動に携わる人のとるべき観点としては、本作を踏まえ、労働問題が「生きづらさ」にどのように貢献できるかを具体的に考える必要があると思う。
■参加による「承認」だけでなく、運動の成果による「承認」を
もちろん、労働運動に参加することは、労働者のエンパワーメントとして大きな意味がある。『フツーの仕事がしたい』ではそういう部分が描かれていた。また、自分を追いつめたり他人を傷付けたりしないで済むアイデンティティ的なセーフティネット、緊急避難的な居場所の効果としても有意義だ。いわゆる「承認」の効果だ。しかし、自己表現的な活動に限定された、参加によるアイデンティティの安定としてだけの労働運動になってしまったら限界があるのではないかという危機感も同時に持った。当然、前述した一つ目の課題を追求し、広範な参加者が結集できる運動を展開することは大前提だ。だが、参加による「承認」だけがクローズアップされてしまうと、労働運動に参加できない人のアイデンティティは見捨ててしまうということになりかねない。参加者のアイデンティティ本位になってしまった運動が、一つ目の課題の隘路にはまり込むのは容易なことであるとも思う。
労働運動がもたらすアイデンティティへの効果については、もう一つの方法があるのではないだろうか。労働運動の意義が「承認」の回路であるだけではないのと同時に、労働運動を通じた「承認」の回路は、参加することだけではない。運動が客観的な構造に成果を残し、社会を安定させるという機能が重要なのではないだろうか。たとえば派遣労働者については、労働運動の手によって、細切れの雇用でもなく、賃金もある程度の水準を満たしている仕事ができるような法律を作ったり、企業と交渉して規制をかけていくことや、働けない間も生活ができ、社会に参加できる力を付けられるような保障をつくっていくことが、そのメンタリティを安定させることに有意義なのではないか。
そうした仕事や生活における安定を基盤として、趣味や仕事以外の人間関係や自己表現に時間やお金を使うこともできるかもしれないし、安心して仕事にやりがいを求めることもできるかもしれない。しかし、労働運動が具体的にどのようなヴィジョンをもって、どのように社会に働きかけをし、そのことで「承認」の問題にどのように関わっていくかについては、いわゆる格差論壇ではあまり議論がなされていないように思う。
より広範な参加者を集める普遍的な運動の必要性、そして単なる参加による「承認」のためだけの機能に陥らず、社会的な構造を具体的に変えていくことで、社会的に「承認」をもたらす運動の必要性。こうした議論はいまだに多いとは言えないと思う。いずれも2009年の労働運動が取り組むべき深刻な問題ではないだろうか。
そんなわけで、これまでの労働運動のあり方を総括し、新たな課題を考えるためのテクストとして、2009年の今、『遭難フリーター』は一見の価値があると思う。(坂倉)
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坂倉
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るヒ
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