現時点で確実に言えることは、歴史的にみてもスポーツは支配の道具としてとても有効であるということだ。例えば、サッカーのワールドカップやオリンピックなんかは、ナショナリズムに基づいた統合を強化する役割を果たす。つまり、スポーツを通じた熱狂が、「国民」という幻想を作り出すことによって内部にある矛盾を覆い隠し、国民統合を推し進めるのに利用される。元々近代スポーツは支配階級が労働者たちを規律化するために生まれたものだから、「スポーツに政治性を持ち込むな。スポーツはもっと自由なものなんだ」という俗流の理想論は本末転倒だ、と一蹴する社会学者もいる。
なんかのっけから暗くなるような話になってしまった。僕がこの文章で言いたいことはこんなネガティブなことではない。むしろこれとは逆のことが言いたい。そう、「スポーツは抵抗の文化として成り立つか?」ということだ。スポーツを通じて、フリーターはその秘めたる力を解放させることが果たしてできるのか。現に支配する側が注目するほどの力があるなら、その逆も言えるかもしれないじゃないか。とりあえず今回は、具体的なひとつの事例について考えながら、スポーツの可能性について考えてみたいと思う。
その事例とは、その名もずばり「The Homeless World Cup」。そうです、ホームレスのワールドカップなるものがこの世界には存在するのだ。もちろんこの大会は、「ホームレスの人たちが自分の生活の悲惨さをアピールして、最も酷い、最も惨めな生活をしている人が優勝する」というような、見世物のようなものなんかではない。種目は「銭金」のような貧乏自慢(?)ではなく、れっきとしたフットサル。要は、ホームレスがサッカーを通じて貧困・格差問題を世の中に知らしめようとする。それがホームレス・ワールドカップなのだ。(http://www.homelessworldcup.org/)
僕がこの大会の存在を知ったのは、2003年にオーストリアのグラーツで開催された第一回大会の模様をテレビで見たのがきっかけだった。今回改めて詳細を調べてみた。ウィキペディアには情報が少なかったが、普通に検索サイトで調べただけでも結構情報があった。なんと日本語のホームページも存在した。(http://www.bigissue.jp/worldcup/index.html)そこでは次のように大会を紹介している。
「ホームレス・サッカー・ワールドカップは、ホームレスの人々がつくる サッカーチームの世界大会です。主催はINSP(International Network of Street papers)で、現在、アフリカやヨーロッパ、アジア、アメリカ など世界27カ国、50都市・地域で、ストリートペーパーの販売を通じてホームレスの仕事をつくり、自立を応援する団体・組織が参加するネットワークです。」
INSPとは、「国際ストリートペーパーネットワーク」の略称で、貧困の問題を広く世界に知らせるという目的の一環として、このワールドカップが考え出されたわけである。参加資格も、
・ストリートペーパーの販売者として生計をたてている者
・難民(まだ避難国内で難民認定がされておらず、労働許可も下りていない者)
・現在ドラッグやアルコール依存症のリハビリ(治療)を受けており、2003年のHWC以降にホームレス状態を経験した者
などというように、本当に社会の底辺での生活を強いられている人たちが対象となっている。そんな人たちが限られた時間の中で練習し、仲間とひとつの目標に向かって協力する。
そして、その過程で生活を律し、職や家庭を得て、まっとうな生活を送れるようになる。これこそがホームレス・ワールドカップのウリである。日本からもホームレスの人のみなれる『ビッグイシュー』の販売員によるチームが第2回のイェーテボリ大会に参加している。
さて、この大会はスポーツの持つ抵抗の力をあらわすものなのか?いや、違うだろう。
そう答えるのには理由がある。なによりもこれは、ホームレスと呼ばれる人たちがそのポテンシャルを発散させるための場なんかではなく、むしろこのような「社会不適合者」を結局は弱肉強食の社会に組み込んでいくものとみなせるからだ。その証拠に、INSPや日本語ホームページは、サッカーを通じてどれだけの人が生活を改善させられたか、麻薬から抜け出して社会に復帰できたか、などといった点をことさら強調する。でも、問題の本質はそこにはないはずだ。貧困やホームレスを生む構造そのものには一切触れていないし、現に大会を経験しても元の生活に戻っていった人もいるが、その点に関してINSPはどう考えているのだろうか。結局のところ、この大会も「自己責任」という日本ではおなじみの観念に支配されているに過ぎないのではないか。ボーダフォン、プーマ、コカコーラなどの大企業がスポンサーについているという事実も、この大会の本性を物語っている。
僕たちが求めるのは、こんな偽善に満ち溢れたチャリティーではない。そんなものはもううんざりだ。それよりも、本当にフリーター自身が自らの意思でポテンシャルを解放できる、矛盾だらけの社会そのものに直接「No」を突きつけることができる、そんな機会を求めているし、自分たちで作っていかなければならない。その意味では、「ホームレスと貧困の問題を世界中に広める」ためという一見まともなホームレス・ワールドカップも、僕たちの望むものでないばかりか、むしろ拒否すべきものだ。
友達からこんな話を聞いたことがある。時はソウル五輪に沸き返る韓国。国の威信をかけた大イベントに先駆けて、街のイメージアップのために追い立てられた露天商たちは、時の政治家たちの似顔絵を書いたボールをただ蹴りまくるというイベントを開いたらしい。この話を聞いたとき、やっぱりスポーツにはなんか力があるはずだ、と感じた。そして、これからも僕はこの場を借りてスポーツのポテンシャルを探しつづけていきたいと思う。
コメント一覧
1読者
POCO
最新の画像もっと見る
最近の「culture × posse」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事