3月5日(日)☀
参加者:私と夫の2人
神戸ユニバー記念競技場に車を停めて南へ南へ、谷越え、山越え須磨の海までやって来ました




スタートからのここまでは前編がありますのでよかったらそちらを覗いてください

14時にスタートしてから既に2時間経過⏰時計は16時となっています

ジェームス邸の脇道から2号線に出て、海沿いを東へ進んでいます




「須磨区」に入りました



「これまでどこやったん
」というと垂水区塩屋で、ジェームス邸を見て山を下ってきました。


この辺りで昔の「播磨国」と「摂津国」の境となります。「境川」という川があるそうですが…


↑この山塊でその当時の日本の中心を担っていた「畿内」とその外という「畿外」に分かれるのでしょう。
(今いるところは青丸の辺りです)

そう、「播磨国」と「摂津国」の境です。このデンと据えた山塊は昔じゃ山道しかないだろうから用がない限り超えようと思わないですね


須磨区の「須磨」の名前の由来は「畿内の隅(すみ)」の意味合いとも言われます


その山の塊の脇を抜けて東側に入ると、須磨区一ノ谷町、「敦盛塚」のある須磨浦公園に出ました。

「境川」の碑を見つけました


でも、マップでは本当の境川はさっきの須磨区と垂水区の境辺り、山が始まる辺だとなってます



敦盛塚の五輪塔にお参りします。
平敦盛は平清盛の甥(弟の末子)で、16、7歳という若さで、一ノ谷の戦いが初陣。
一の谷の合戦で海へ逃げる途中、熊谷直実に討たれる話は平家物語の中では有名です

(あっ、私は歴史で習ったというよりはアニメで覚えたほうが正しいですが…)

この五輪塔は北条貞時が平家一門を供養するために建立したもので「あつめ塚」と言われていたものが「あつもり塚」と呼ばれるようになったと言う説もあるそうです。

五輪塔は室町時代のもので平敦盛の「胴塚」。「首塚」はこの先の須磨寺に。体がバラバラに祀られてるのですね



「須磨浦公園」
ここはなんといっても「六甲全山縦走」のスタート地点です
ここからずぅっと約56km宝塚まで続きます
(また、参加したいですね
)





今、黄色の↓のところにいますが六甲全山路は須磨浦公園より鉢伏山→旗振山→鉄拐山…と続いていきます🗻

こんなにどっかり山に阻まれたら
播磨国と摂津国の国境となるのがよく分かります

源頼朝が率いた軍が赤矢印の西国街道からの大手軍、源義経の軍は丹波路を進み、播磨国三草山(現加東市)の戦いを征して、軍を分けながら自らは70騎で山中を進み、平家の一の谷の軍勢の裏手に…とあります。

須磨浦公園から山側に山電の高架を潜って住宅街を上ります



結構な急坂なのですが写真でうまく伝えられないのが残念です



この山の途中の住宅街の奥に源義経軍が降りてきたであろう、一ノ谷の戦いの「鵯越の逆落とし」と呼ばれる場所があります


今日は街なかで終わるかと思ってたけど例にもれず、登山付きです

源義経が一の谷に陣取る平家に奇襲攻撃をかけた山に登ります

平家はこの断崖絶壁の山をバックに南は海、播磨国に抜けるには海沿いの細い道しかなく、敵は西国街道を通って正面からくる、まさか、上から来るとは思いもよらなかったのだと思います。

「逆落とし」へ通じる入り口らしき所には特に何の案内もありません

スマホのマップを頼りに登ります





一気に上っていきます
今は義経軍が進撃してきた山道はハイキングコースになっています




今は整備されてる里山ですが、当時はそうはいかないんでしょうから、やはり結構な急坂です

源義経は70騎で一の谷の断崖絶壁の上に構えたのはこの鉄拐山かと🤔


源義経は70騎で一の谷の断崖絶壁の上に構えたのはこの鉄拐山かと🤔
弁慶の連れてきた猟師の息子に道案内をさせ、先に馬だけ行かせ試したあと、
「鹿も通れるなら、馬も越えられよう」と鼓舞し、駆け下りたとなってます



こぉ~んな感じで馬に乗って駆け下りたんでしょう🐴想像しながら駆けてみますが、つんのめると危ないので調子に乗るのはやめときました



景色は抜群に良いです
須磨浦ビーチも波形がくっきり見えます👀


義経軍が逆落としで平氏を討ったのも実はただのお話かもしれないし、いろんな説があるようですが、それでも歴史を自分の足で辿るのは面白いです


さて、山を降りて先程の須磨浦公園に戻ります




公園内に「源平合戦 戦の濱」の石碑があります。

義経軍は断崖絶壁を駆け下り、火を放ち、福原京辺りに戦う平氏はその火の手を見て一ノ谷が墜ちたと海に浮かべた船へ退却するに我先にと名のある武将が雑兵を倒し、味方同士でも戦いになり血の浜、血の海だったとあります。

昭和38年頃でも、昔の浜の想像と変わらぬ何もない砂浜です



須磨寺を目指して帰路へ
街の名前になるくらいのお寺なんですね




参道を通って

17時30分お寺の門の前の赤い太鼓橋を渡ります。「源平ゆかりの古刹」なのでしょうが、ちょっとイメージが…

めちゃめちゃ近代的なお寺で、私たちは、ちと興ざめを通り越し、あぁあ…

(※コレは私達の個人的な感想です)

夕暮れ近いので人は他に数人くらいです。
「源平の庭」と名がつけられた銅像が立つ広い庭が設けられてました。

左の水色の海の中にいるのが「平敦盛」、右の砂浜にいるのが「熊谷直実」

平氏が我先にと海に浮かべた船へ逃げていく中、先陣を切ったのに武将の首が取れずにいた「熊谷直実」が「平敦盛」に後ろから声をかけるシーンです

平敦盛は振り返り、一騎打ちに挑むがあえなく倒され、熊谷直実が首を取ろうと兜を取ると息子と同じ年頃の美少年に躊躇するが、後ろからは自陣が迫っており、自分が後に供養すると約束し、首をはねます。

熊谷直実は源義経陣地であった、ここ須磨寺にその首と、その腰にさしてあった笛を持ち帰ります。
首を洗ったという池がお寺内にありました。その奥には、義経が腰掛けたという松樹。

首を持ち帰った熊谷直実は敦盛より「持ち帰った首を見せれば自分が誰だったのかが分かる」と言われます。
義経がこの松の樹に腰掛け、「敦盛卿の首を実検せり」と立て札に書いてあり、ここで熊谷直実は名のある武将「平敦盛」であったことを知ったのでしょう。
戦の朝にきれいな笛の音が聞こえ、敦盛の腰にさしてある笛を見てこのお方の笛の音であったかと悔やみます。
その後、熊谷直実は出家したとなっています。
この奥には平敦盛の「首塚」があります。

色々調べると、熊谷直実は敦盛の兜や鎧、武具などの遺品や笛、首を父である経盛の元に送ったと書かれているものもあります。
私:「えっ
ほな、ここに首はない
」



この下には敦盛の首が祀ってあることになってますが、笛も「青葉の笛」として、須磨寺の宝物館に展示してあるそうです。
私:「笛もない
笛、誰の
」


もう既に宝物館は閉館しており残念ながら、「青葉の笛」を見ることはできませんでした

その時代に生きてないので分かりませんがそんなことを想像して歴史に浸るのが楽しいので詮索せずに行きましょう

では、須磨寺にサヨナラで



ずっと上りです


「須磨離宮公園」の入口交差点に出ました。須磨離宮公園はかつて存在した10箇所の皇室の別荘(離宮)のうちの一つです。

とっても整備されてて、素敵なイングリッシュガーデン🌹薔薇の季節に行くと素敵です


大きな交差点なので歩道橋で向こう側に渡ります




「北須磨小学校」
四角い普通の校舎の奥に円柱形の珍しい校舎があります
オシャレですね



思わず、こんなところに出て驚きました




神戸女子大学須磨キャンパスの横を通り、県道65号を走ります




途中、須磨浦公園からスタートした「六甲全山縦走路」の一部、高倉台から栂尾(とがお)山に行くつつじ橋に入ります


メジャーなハイキングルートなので、このつつじ橋だけで3〜4組の下山されてきた人たちとすれ違います


青山橋の交差点を右手へ





「啓明学院」の前まで帰ってくると頭の中の地図がきちんと繋がりました


ここは以前、須磨アルプスの馬の背を通って妙なところから下山してしまったコースです

ここからは散策したことがあるので2回目になる帰り道、まだあと約4km

距離が分かるだけに辛いですが頑張って帰ります



距離が分かるだけに辛いですが頑張って帰ります


名谷駅前の広場を通って


18時50分、真っ暗になりながら住宅街を通って、神戸ユニバー記念競技場に到着

今日も無事に帰ってくることができました

最後までお付き合い頂きありがとうございました


今日も無事に帰ってくることができました


最後までお付き合い頂きありがとうございました

もう時は4月となり、毎週毎週ジョギング散策は続いております



またお立ち寄りいただけると幸いです
