名誉は多くの富よりも望ましく、品位は金銀にまさります。金持ちと貧乏は、神が造られました。思慮深い人は災難が来ると見れば身を隠します。浅はかな者は通り抜けようとして痛い目に遭うでしょう。神を畏れて身を低くすれば、富も名誉も命も従って来きます。 (箴言22章1~4節)
バイブルの箴言の中には、「畏れる」という言葉が18回、詩篇の中には15回、他にも沢山記載されていますが、「畏れ」と「恐れ」の意味の違いを紹介しましょう。
バイブルが示す「畏れ」には、全てを創造した、全知全能の神に対する畏敬の念であって、「恐怖心」によるものではないのです。それは、全知全能の神を恐れなしに、尊厳をもって近づくことなのです。
世間の評判を得ることや信頼を得ることは、非常に難しいことです。多少の急所・短所・汚点・弱点などがあると、世間から嫌われ、神に対する信頼感・心は離れていきます。ですので、名誉・品位は、私達の世界から見た金・銀よりも貴いものなのです。金・銀は、全知全能の神が創造したもので、決して人間が創造したものではないのです。
神は人間が、楽しく地上で生活できることが、全知全能の神の計画なのです。それは物質だけの富なのです。
そして、全知全能の神の前では、富んだ者も貧しい者も、皆平等なのです。全知全能の神の前では、お金・富の物質財産は、まったく関係ないのです。
福沢諭吉はこのことについて、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている__人は生まれながら貴賎上下の差別ない」と言っていますが、この意味は、「人は平等」であると言う事です。これは、トーマス・ジェファーソンによって起草されたといわれるアメリカ合衆国の「独立宣言」からの引用とされています。(慶応義塾豆百NO.22から)
人権宣言集(岩波文庫)から: われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命・自由、および幸福の追求が含まれることを信ずる。
そして、1夫多妻や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならいとし、女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があると主張したのです。
さて話を「畏れ」にもどします。
アダムとエバが罪を犯したとき、エデンの園で彼らを呼びかける神の声を聞くのです。アダムはその声に「恐れて、隠れて」しまいます。(創世記第3章10節)
しかし私達の先祖は、そのときは、善悪も完全には理解していなかったのですが、エバは、サタン(蛇)の言葉を丸呑みして、りんごを食べることで、神に近づけると信じたのです。そのために、エバはアダムにりんごを与えたのです。
それが切っ掛けで罪が認められると、彼らは、神を恐れるようになったのです。
このように罪と係わりを持つと、全知全能の神を恐れなければなりません。
では罪のとは何でしょうか。
悪意、姦淫、淫行、殺人、盗み、貪欲、邪悪、ごまかし、謀、放縦、冒涜、高ぶり、愚かさ、汚れ、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、激怒、ねたみ、酔酒、酒宴などが上げられます。そして罪の報酬は、死なのです。死は、人間にとって、恐怖なのです。
全知全能の神は、生物に命を与えくれたのですが、死も付いてきているのです。
私達は、死を恐れますでしょう。それは、死後の世界が見えないことが、恐怖感を生んでいるのです。神の存在は、死と同様、見えません。
ですので神を畏れることは、信仰があるために起きるのです。
ところで、男にとって、最も注意すべきものは、女の誘惑なのではないでしょうか。そしてアダムの様に、罪を犯すことで、神から隠れようとしたり、神の存在を無視するのですが、神の目からは、逃げ隠れできる人間など一人もいないのです。そして罪のに対する判定・裁定は必ず将来に来るのです。
罪を犯すと、必ず後で報いとなって返ってくるのです。
さて、アダムとエバは、苦しみや悲しみ、困難や苦役を受けると神から宣告され、そして神の前から追放されました。 そして彼らは、罪を犯したことに端を発し、善悪を知る知識・知恵を得たわけです。
この知識・知恵は、私達に神から与えられたものなのです。そして、私達は人生を楽しくすごし、隣人を大切にして、選択の自由を行使する力を、神が与えてくれたことなのです。
私達はアダムとエバのように、全知全能の神を怖がる理由は一切ありません。
その大きな理由は、イエス・キリストがポンテオ・ピラトの下で十字架に掛けられ死にましたが、この死が、私達にとって、大変重要な人生の成功に係わっているのです。
使途のパウロは、ローマ人へソシテに、このようなことを言い残しています。「死も、命も、御使いも、権威ある者も、今いる者も、後に来る者も、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私達の主であるイエス・キリストの神の愛から、私達を引き離すことはない。」(ローマ 人への手紙第8章38~39節)
全知全能の神の偉大な計画は、神のたった1人の子、イエス・キリストを私達の生贄として、私達の罪の代価・代償として受入れて下さったのです。
ところで、日本のことわざに、「三途の川を渡る」があります。そして「六文銭」が三途の川を渡る「通行証」となっているようです。その通行証のために、多くの人達は、「お金・富」さえあれば、天国に行けると思っているようですが、仏法の教えでは、「解脱、執着するな、空、無」などの言葉が出てきます。
私はそれらの教えは、「全て頭にある罪を捨て、無になって、自分の正しい心を見つめること、そして仏に感謝し、仏を信じること」と解釈しています。
さてここで、死についてふれましょう。
死とは、命がなくなること、なくなった状態、生命活動が止まること、止まった状態あるいは滅ぶこと、滅んだ状態などで、人間の死の定義は文化圏、時代、分野などにより様々なのです(ウィキペディア)。
バイブルには、この死後の世界観が描かれています。
旧約には、人間の死後、陰府に入るとしています。陰府は、地獄とは少し違った意味で、神を信じない人達が、陰府に入るとしています。
新約には、イエス・キリストの十字架で血を流された死後、天に昇り、神の右座に着かれたことで、死後に天国に行くことができるとしています。
カトリック教の教えでは、陰府と煉獄と天国の3段階があり、煉獄は天国と地獄の間に存在します。死者の魂が、天国へ行くために生前の罪を悔い改め、つぐない、そして清める場所としています。
有名なイタリアの詩人ダンテの描いた神曲は、地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成っていますが、神曲のテーマは愛であり、神の愛と人間の自由意志が描かれている素晴らしい神聖喜劇なのです。
死は、遅かれ早かれ、誰もに訪れ、免れる事の出来ない事実なのです。以下は、神曲の簡約です。
若いダンテは久遠の女性(ベアトリーチェ)と出会い、恋心に燃えてしまうのですが、彼女は違う男性と結婚をしてしまうのです。そして彼女は25歳の若さで死んでしまいます。その後、ダンテは自堕落な生活を10年間続けます。
その時、ダンテは暗い森に入って迷ってしまうのです。そしてダンテは、行き先の前に、まばゆい光に包まれた丘を見つけ、丘に登ろうとしますが、豹と獅子と牝狼に行く手を阻まれます。そのために、谷底に向かうのですが、そこで、過去の昔に活躍していた詩人の魂に会うのです。
その詩人は、久遠の女性から、ダンテを救ってくださいと頼まれ、この世にきたのでした。そしてダンテは、地獄、煉獄、天国を詩人をはじめとする案内人に従って旅をして行くのです。それは、イエス・キリストの復活祭の一週間の出来事でした。
ダンテは、詩人の後について地獄の外門の前まできました。地獄の門には、「我を過ぎんとするものは、一切の望を捨てよ」などの言葉が表示されているのですが、ダンテは、理解をすることが出来ず、詩人に尋ねました。
そして詩人は、「感情を捨てることです」と答え、ダンテは、地獄の門を通ったのです。
ダンテは、地獄に入りました。その時、案内人がいて、その地獄では、生前に悪 行や暴利を貪っていた歴史上の有名人や貴族、聖職者、教皇などが登場してきます。
地獄の案内人は、ダンテがなぜ地獄にいるのか不思議がっている彼らに対して、「この男は死者ではない。罰を受けに来たわけでもない。見聞を深めるため、地獄の谷をめぐっている。私はその案内人」だと言って、彼らの疑問を解くのです。地獄は、阿鼻叫喚(非常な辛苦の中で号泣し、救いを求めるさま)に満ちていました。
そして、地獄のすべてを見終えたダンテは、煉獄へと向かいました。煉獄では、臨終のまぎわに罪を悔いて地獄に落ちることをまぬがれた魂の声が聞えたりするのでした。そして、ダンテと詩人との色々な対話が交せられます。
その中には、詩人が悪愛に関して3つのことをダンテに説いています。
1. 立派な地位から転落することを願ったり、
2. 自分が蹴落とされることが心配で他人の失敗を願ったり、
3. 不正に怒 り復讐感を持ったり」することなどです。
更にその3つは、物質的な愛に陥った人達だったのです。
煉獄山の山頂でダンテは案内人と別れ、その後ベアトリーチェと出会うのです。そして、天国にてダンテは、アダム、ヨハネなどの聖人に会うのです。聖人達は、信仰とは何かとダンテに問われたりするのです。更にダンテは、イエス・キリストやマリアの光に包まれたりして、本当の愛、即ち神の愛を理解するのです。(川出文庫、平河裕弘翻訳から簡略)
くどいようですが、全知全能の神を恐れることを、決してしてはいけません。全知全能の神を畏れることは、良いことなどです。
全知全能の神への畏れは、神を愛し、尊敬し、懲らしめに従い、畏敬の念を持って神を崇拝することなのです。
全知全能の神は、金持ち、貧乏人の両者を創造したわけではないのです。
金持ちは自分が金持ちであることに驕り高ぶることなく、身を低くすること、即ち謙遜をすることが、人生に成功をする秘訣なのです。
また貧乏な者も、貧乏であることに対して落胆する必要はないのです。そして従順の心で、神との会話を交わし、富も名誉も全てが神からの贈物であることを、認めることです。
自分よりも大きな存在である、全知全能の神の偉大さを認め、そして神の言葉を従うことで、喜びを持つことが出来る姿勢をもつことなのです。
富豪家の仲には、「不満・心配だらけ」の人達がいるかと思えば、「お金はそれほどなくても」 結構幸せに生きている人達もいるのです。お金がなければ困りますが、お金そのものが、人生の成功の必須事項ではないのです。
また、貧乏人の人達は、常にハンディキャップを背負って生きていることが多く、大きな夢・願望は叶わないという人達で、小さな欲望で止まってしまっていることです。
バイブルの中には、「身を低くする」と言う言葉が、30回以上記載されています。
ですので、悪くない奴らが成功するには、全知全能の神を敬、畏れ、身を低くすることで、ハンディキャップが取りはずされ、必ず成功の道が開けるようになます。その行動をすることで、お金・富を築き上げる道が、自然に開けられてくるのです。
ですので、全知全能の神に感謝、感謝、感謝することです。