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悪くない奴らが成功するには、律法と信仰の違いを理解すること

2013-03-13 21:00:23 | 成功法則

さて、黄金律(ゴールデンルール)を前回少し紹介しましたが、すでに色々な学者、牧師、神父、キリスト教信者によってこのテーマは語られていますので、私なりに「律法」そして「信仰」に関して書き出していきます。

さて、「律法」とは何なのでしょうか?

 

それは、「神が、我々人間に与えた教えと戒め」なのです。そして一方的な契約ではなく、神と人間の双方関係の契約なのです。そして律法は動物と違って人間として生きていくために作られたのです。そして人間がこの約束事を守れば、唯一の神は、私達を祝福してくれるのです。

では、「大3律法」を紹介しましょう。

1)「道徳律法」は、人間の内面についての定めです。神がモーセに十戒を渡しました。これが道徳律法の基本と言えるでしょう。

2)「祭儀律法」は、神の礼拝のための定めです。礼拝の形式、祭司の制度、祭りや安息日についての規定です。バイブルには、過ぎ越しの祭り、五旬節、仮庵の祭りがあります。

3)「社会生活全般律法」は、民法、刑法、婚姻、教育、衛生などの規定です。

それでは、「信仰」とは一体何なのでしょうか?

 

それは、簡単に約すと「唯一の神を信じて行動すること」なのです。まずは信仰の父とされるアブラハムと唯一の神に関して見てみましょう。

創世記12章1~3節、「貴方は、貴方が生まれた故郷、貴方の父の家を出て、私が示す地へ行きなさい。そうすれば、私は貴方を大いなる国民とし、貴方を祝福し、貴方の名を大いなる者としょう。貴方の名は祝福となる。貴方を祝福する者を私は祝福し、貴方を呪う者を私は呪う。地上の全ての民族は、貴方によって祝福される。」とあります。

このように唯一の神の「3大祝福」を紹介しましょう。

1)子孫繁栄の祝福(アブラハムの子孫は、海辺の砂のように増える)、

2)土地の祝福(カナンの土地を与える)、

3)恵みの祝福(救いを与える)とアブラハムに、3つの祝福の約束(契約)をしているのです。

神が与えてくれた約束を元にアブラハムは、何も逆らわずたた唯一の神を信じ、従うのです。そのためにアブラハムは、「信仰の父」と言われたのですが、この信仰のお陰で、アブラハムの家族は、試練をさせられるのです。

唯一の神は、アブラハムに対して長年住み慣れた地を離れ、知らない地へ行くこと命令し、神の約束の地(カナン)へ向かったのです。そしてアブラハムの家族の一行は、カナンの地に向かいます。しかし、その土地で、アブラハムと甥のロトの家族とが繁栄し過ぎた為に、土地問題が起こるのです。

 

アブラハムは肥沃なソドムとゴモラの土地を甥のロトに与え、アブラハム自身は不毛な地を選んだのです。その結果、神はロトに対して試練を与えるのです。それは退廃の町と化したソドムとゴモラを、神は破壊させるのです。その時にロトと2人の娘は助かるのですが、ロトの妻は後ろを振り返ったため、塩の柱に変えられてしまったのです。

その後、アブラハムの妻サラは、神の約束どおりの子供が出来なかったために、サラは侍女ハガルにアブラハムとの子を生まさせるのです。その子がイシマエル(主は聞き入れる)で、アラブの先祖となっています。しかし、神が約束した子孫とは、養子による子孫(イシマエル)でなく、アブラハムの実子による子孫なのです。 

そして神はアブラハムに、約束通りサラに身ごもさせるのです。そして神はその子の名前を、イサク(彼は笑う)と命名させたのです。そして神の約束した子でないイシマルと侍女ハガルは、砂漠に追いやられますが、神はハガルに対しても、子孫を繁栄させることを約束しています。それがアラブ人達なのです。

 

さて「信仰」の本題に入ります。 

神の試練は更に続きます。アブラハムの子イサクをモリヤの地で、神の燔祭の儀式にイサクを捧げさせることを告げるのです。そしてアブラハムは、神の意向によってイサクを生贄にさせることを実行するのです。父親として可愛い子供を生贄にすることは、悲しみに耐えられる事が出来ない、信じられない出来事だったのです。生贄は、儀式の律法から発生しています。バイブルには以下の記載があります。 

ヘブル書第11章17節、「信仰によってアブラハムは試みられた時、イサクを奉げました。」と、そして

ヘブル書第11章19節、「彼は、神は人を死の中から甦ることも出来ると考えました。」とあります。 

しかし神は、イサクの上に刃物を振り上げた瞬間、天使を送り、その行為を止めたのでした。アブラハムが周囲を見回したところ、茂みに角を絡ませた雄羊がいたので、彼はそれをイサクの代わりに生贄としたのです。

 

アブラハムは、唯一の神を信じること、そしてその神に従順であることを、私達に示したのです。これが「信仰」であり、アブラハムが「信仰の父」と呼ばれていることなのです。

さて新約では、「信仰」がどのように表現されているのでしょうか? 

聖徒パウロは、生涯イエスに出会ったことは有りませんでした。しかし聖徒パウロの信仰心によって、世界にキリスト教を広めていったのです。 

聖徒パウロは、律法と信仰に関してガラテアの信徒に送った手紙に記載しています。それは、イエスの12使徒の一人である聖徒ペテロが、福音の真理に基づき歩いていないことを非難する手紙なのです。 

ガラテア人への手紙2章15~21節、「私達は生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。もし私達が、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、私は自分が違犯者であると証明することになります。私は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。私は、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」と記されています。

聖徒パウロが証明した福音の真理とは、律法を通してではなく、イエス・キリストを信じる「信仰」を通してだけ、ユダヤ人にも異邦人にも救い、即ち、人間が罪から開放されるというのです。 

イエス・キリストを信じて義とされるときに人間は、神に対しては生きた者とされ、即ち救いの恵みが与えられりことであり、「律法」によって義とされる生き方を、完全に断ち切ることなのです。 

そのことによって、信じる者は希望を持って喜ぶべきであり、全ての人間が罪によって神から離れたように、イエス・キリストの償い(十字架で血を流す)によって、全ての人間の罪が許されるのです。

ご存知のように、罪は、サタンの誘惑に乗ったエバ、そして、エバを信じたアダムが神に嘘を付いたことから発生していることです。このことをはっきり認識してください。

 

ですので神を信じて、感謝、感謝、感謝です。


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