長々と掛ってしまった「富士山~矢倉岳ミステリー(仮題)」だが、本日で一応の締め括りとなる(あともう一回、番外編を予定しているが、それは私の疑問点に関わる推定なので、本編の目的とは異なる)。
富士山頂と神奈川県の西端に位置する矢倉岳頂上を結んだ線を延長していくと、弟橘姫伝説の地、横須賀走水に至る不思議について巡ってきた。それは一応、神奈川県内の神社を巡って終わりとしたい。だが、この弟橘姫伝説と日本武尊の東征に関わる神社は千葉県内にも多い。これは神奈川県民の私には扱いきれないので、他サイトを探してもらいたい。一つ一つの神社を巡られている方のブログが見つかると思う。
それでも、締め括りとして取り上げておきたい千葉県内の神社がひとつある。それが鹿野山の「白鳥神社」である。ここもまた、富士山と矢倉岳を結んだ線の延長線上に、ほぼ位置する。
白鳥神社と「鹿野山のはしご獅子舞」
君津市鹿野山白鳥ケ峯
白鳥神社は、日本武尊・弟橘比売命を祭神とし、厄除開運、家内安全、生業繁栄をはじめ、吉凶禍福のお告げを授ける神として知られています。
伝説によれば、景行天皇の皇子である日本武尊が、天皇の命により、鹿野山を拠店として猛威をふるっていた阿久留王を征伐するため、東国へ下ったといわれます。
途中、相模から船で上総に渡ろうとして、走水(三浦半島浦賀付近)のあたりにさしかかったとき、暴風雨に遭遇し、船は先に進めなくなりました。
このとき、妃の弟橘比売命が、波風の平穏を海神に祈りながら海中に身を投じたところ、海は静まり尊は無事上総国にたどり着き、阿久留王を征討して民生の安定をはかったといわれています。
日本武尊が亡くなったのち、白鳥となって鹿野山に飛翔してきたといわれ、住民がその徳をしのび、白鳥神社を創建したと伝えられています。
当社の祭礼は、毎年四月二十八日に行われ、九十九谷を一望する社前の広場において、千葉県指定無形民俗文化財「鹿野山のはしご舞」が奉納されます。
伝承によれば、永正年間(十六世紀初頭)に真言密教を流布するため、紀州高野山から弘範上人が当地に訪れた際、上人の徳を慕って多くの「きこり」が鹿野山に移り住んだと伝えられます。
きこりたちが、遠く離れた故郷の奥高野をしのび、獅子に託して五間一尺(約九・三メートル)のはしごの上で舞ったのが「はしご獅子舞」の始まりであるといわれ、獅子の舞うさまは郷愁に満ちています。
平成元年一月三十一日
君津市教育委員会
このような言われがある白鳥神社である。
訪ねたのは6月21日、晴れ間ののぞく蒸し暑い日だった。「九十九谷展望広場 駐車場」に車を停めて参拝した。
以下、画像を複数枚示す。
鳥居をくぐり、石段を上り始めるとゴルフ場の道が参道を横切る。
白鳥神社周囲は「鹿野山ゴルフ倶楽部」である。
白鳥神社。その右側には以下画像のような文字が刻まれた石碑がある。
この「弟橘比売神社」(下画像)は、白鳥神社に向かって右手(東側)に位置する。
本殿を正面にして左側に、更に上に上る小道がある。そこを登って行く。足元は良くない。訪ねた時は雨上がりであり、滑りやすい土の急坂で、草刈りがされてなく、草をかきわけ、枝をよけて登ることになった。
登りきるとそこには「元白鳥神社 日本武草薙」が祀られている。
参拝を終えて、登るよりも下る方が滑りやすい踏み跡を無事に降りることが出来た。駐車場に戻り、念のためにシャツを脱いではたくと、地面には小さな尺取虫が数匹落ちた。ここは冬枯れの季節に参拝した方が無難と思われる。
この鹿野山での発生の情報は得られなかったが、周辺の山中ではヤマビル被害の報告もされている。私は軽装で上ってしまったが、念のためにヒル除けスプレーなどしておいた方が良いかと思う。
「九十九谷展望広場 駐車場」からの展望。
さて、かなり時間が掛かってしまったこのミステリーだが、どの様な感想を持たれただろうか。富士山と矢倉岳はランドマークとして分かり易い山だ。その延長線上に走水とこの白鳥神社が位置するのは偶然なのだろうか。私はそこにはなにか、象徴的な意味合いが含まれているような気がする。想像(妄想)が巡るところである。