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横浜みなとみらい21地区「モクモク ワクワク ヨコハマ ヨーヨー」組立プロセス記録3

2024-08-21 18:38:42 | 日記

更新がストップしたHPからの移植記事が続く。

今回の内容は、私のTake-murakamiという頁を用いて最上壽之さんの情報を発信したものである。当時、最上さん自身のHPが無かったことから、Take-mogamiという枠を設けた。前々回に説明した通り、このWeb.頁が閉鎖になる為の移植である。

 

Take-mogami モクモク・ワクワク・ヨコハマー・ヨーヨー制作プロセス

みなとみらい21 多目的広場モニュメント モクモク・ワクワク・ヨコハマー・ヨーヨー

 横浜のみなとみらい地区に、この巨大なモニュメントが登場して14年(注 2008年の記事である)が経った。設置当初は、JR桜木町駅からランドマーク・タワーに向けて動く歩道を渡り、ランドマーク・プラザを抜けると突然視界に現れるスパイラル状の形態に、説明する言葉が見当たらない衝撃を受けた方も多いはずだ。その造形物の背景に広がる風景は、工事中の仮囲いとおびただしい建設重機、埃っぽい殺伐としたものだった。
 その後、クィーンズ・スクェアの完成によって風景は一変し、この造形物がこの場の必然に基ずくスケールと形態を与えられていたことに、多くの方々が気付かれたことと思う。現在は「みなとみらい駅」の開業によって訪れる人達も多くなり、いつしかこの場が「ヨーヨー広場」と呼ばれるようになった。アマチュア写真家達の格好の被写体にもなり、様々な広告メディアにも登場することになったことは周知の事実だ。

 この、国内最大級のステンレス製モニュメントの制作プロセスを写真30枚で御覧になり(注 前回のブログ頁)、今後少しずつ本HPで紹介していく制作意図に関する記事を読まれれば、様々な意味において画期的、かつ多くの示唆を含む彫刻家、最上壽之氏の仕事であることに気付かれると思う。

 

公共性という要請に対する形態発想の一過程

 ランドマーク・タワー等によるビル風を緩和する方法を、グランモールと名付けられる人口地盤上に考慮しなければならない。その目的を適える装置として造形物の設置が検討されたのは、街路樹では想定される最大風速に耐えられないと判断されたことによる。彫刻家、最上壽之氏は、その形態の発想の条件として、このビル風の抑制という、本来的に彫刻作品に要求されることのない要請が加えられたことに関して、「それは表現上の制約ではなく、風という流体を表現に取り込む良い機会だ・・・」と捉えた。無論、造形物である以上、まして巨大な作品となる以上、氏も経験したことのない量塊性を前提にした制作となった。そのマッチョな作品が、空気の流れという目に見えずに体感する流体を対象とすることは、とても興味深い問題を含んでいると思われた。
 最上氏は、地球を取り巻く大気の流れの中に発想を求めて、あたかも自分の身体が蒸発して雨となって降り注ぎ、大地を流れ、時にみなとみらいの作品設置空間に水蒸気として漂うような気持ちになった。自宅の窓から眺められる相模湾の風景も、突如海上に霧が立ち込め、一筋の陽光の降り注ぐ中、青空が霧を分かち、そして稲妻とともに夕立がやってくる風景を見て、スパイラル状の形態を用いることに発想が落着いていった。
 他にも、高度経済成長期にその制作活動を拡げていった最上氏の見ていた風景の中に、今は見られなくなった灰色の煙を吐く工場の煙突、蒸気機関車の煙突から吐き出される煙が、車体後方に回転しながら置き去りにされつつ拡散していく様。あるいは風神雷神といった神々への畏敬と、神々が空中を飛び交う様。天に昇る竜神が起す突風。そして聳え立つランドマーク・タワーの直線的な形態に対するコントラスト。とめどなく、経験したこともし得なかったことも含めて大量のスケッチに書き留められていった。それらのスケッチは、おびただしい枚数であり、その線のスピード感は、まさしく強烈なビル風を味方につけたごとくの勢いのあるものだ。
 一人の彫刻家として、そうしたイメージを形態に表現して行くことは至極の時間だが、しかし、「果してビル風は緩和出来るだろうか?」こればかりは何等かの科学的な裏付けが得られなければ多くの人達や組織に対しての説得力が得られない。関係者との度重なる折衝が続けられ、しかし、最上氏の発想した形態はほとんど修正を受けることもなく、そのビル風抑制効果が風洞実験で証明された。
 工芸の世界では「用の美」という言葉がよく使われる。「外観が美しいように感じられる器でも、使用に不都合があるものは美としない・・・」ということだが、モクモク・ワクワク・ヨコハマ・ヨーヨーは、その下に立ってみれば誰もが経験出来るだろう。周辺で感じていた風は、その作品の間近では主張を弱めている。横浜美術館方向への突風の通過も緩和している。
 彫刻作品としての諸問題と、都市計画上のビル風緩和という要請を、そして人々が集う場の目印としての機能、勿論話題性も含めて、多くの要素をぶつけるエネルギーによって立ち上がった表現として、未曾有の世界だと言えるのではないか。それはおそらく、美術、芸術や、まして彫刻という範疇にあるものが捉えきれない領域だろう。

関連資料: 最上壽之のモニュメント《モクモクワクワク ヨコハマヨーヨー》横浜・みなとみらい21に完成 未来思考的な公共性の表現(インタビュー; 聞き手=村上慎二)1994年6月号『SD (鹿島出版会)』
※SD誌取材時の取りこぼし部分などから、HP用に本文を構成しました。

 

関わる人の手の多さは、多くの可能性と結実とを抱きこむ

 1994年4月、バブル景気の終焉というタイミングに、このモニュメントは完成する。多くの下請け中小企業の手わざによって加工されたパーツ、それらは脚部を千葉のAIM工場、ループ部を北海道のAIM工場で組立て、みなとみらい地区に搬入されたのは1993年の師走も迫った頃だった。
 大型クレーンで吊り込まれる様を目撃した人々も限られる。なぜなら、現在と違ってグランモールの通行者はまばらだったのだ。それでも脚部の設置が終わり、足場と養生ネットの間からループ部が顔を出した頃、今まで見たこともない奇妙な形態に、通りかかる人々は気付き始めた。この作品の制作を記録撮影していた私に対して、
「一体何が出来るんですか?」
といった質問が増えだした。ランドマーク・プラザ内のマクドナルドは、今でもこのモニュメントのループ部を水平視線で鑑賞することが出来るポイントだが、ビッグマックを貪りながら、
「これ、なんだろう?」
「ジェットコースターみたいだけど・・・違う?」
といった若いカップルの会話が毎日のように聞かれた。
「グルグル・・・ブピャー」
などと奇声を発しながら、身をくねらせてふざける小学校低学年風男子も目撃した。

 巨大な構造物でありながら、具体的な機能を見いだすことが出来ない人々の感情は、好奇心を刺激して止まないが、とりあえずの答えをその場で得ることが出来ないことに不満を覚え始める。この不安に相対して持続する時間の中に、多くの想像的時間があるはずだが・・・それは芸術、美術の最も大切な時間であるはずだが・・・陳腐な言葉に結び付けた結果に不満足ながら、それで視線を逸らして想像的時間は失速して行く。しかし、失速して行くまでの僅かな時間は、この作品が完成を待たずして表現を主張し始めていることを示していた。(もっとも、完成したとしても無数の失速の積算を経てからしか、鑑賞者の一歩は踏み込まれないものかもしれないが。)
 前例のない形態に構造計算の担当者は頭を抱え、複雑な曲率で構成された有機的な曲線に複雑な関数計算が関わり、ステンレス管の微妙な曲げ技術は、職人のこだわりの感性に委ねられ、卓越した溶接技術によって強度と一体感が保たれ、搬送は低床のトレーラーに積載されて桁下をかわしながら現場への搬入。どれをとっても全てがこの作品一度きりの、一期一会のクォリティーが要求される仕事に、現場は緊張が漲っていた。最上氏の仕事であると同時に、彼らの仕事でもあるのだから。

 「取り込み、取り込まれる関係性・・・」という言葉を多用していたこの頃の最上氏は、「仕事はひとりで行えるものではない・・・」と付け加えることを忘れなかった。独り、アトリエに篭って黙々と丸太にノミを振るう彫刻家像をイメージする人にとっては、これらの言葉は理解不能な衝撃を与えるに充分だろう。そう、最上氏は、独り篭って素材と格闘するばかりの彫刻家ではない。氏にとっての彫刻とは、素材を彫り刻むばかりの概念ではないようだ。

 ある所に、独り篭って制作を続けるある作家がいた。その丸太(もしくは石材)は、その素材を調達する目利きによって売られていたものだ。それを作家はインスピレーションによってその素材に価値を見出し、
「素材が俺を呼んでいる。」
と錯覚した。そして情熱と泣きによって値切って入手した・・・としよう。作家の視点から見た素材との出会いである。
 一方、素材屋は商売である。
「この材料なら、あんなことにも、こんなことにも使える。でも、やたらな奴には売らない。目利きのプライドだ。」
と思っていたところに作家がやってきた。
「ははーン!それに引っかかったかぁ・・・(お前には売らねーよっ!)一応お前にも目ん玉ついてんだなぁ。(でも、お前には未だ10年早い。売らねーよっ!)」
と、目利き素材屋は思っている。結果的に素材屋はこの素材を金に替えて手放すのだが、既に作家の手の資質と可能性は、素材屋にある程度見抜かれてしまっている。
 以上の関係においても、「取り込み、取り込まれる関係性・・・」が発見される。作家は作っているのだろうか?素材屋に囲われてはいないか?素材屋の目利きの実力の上に成り立った仕事ではないのか?
 ここに創造主の問題を持ち込まずとも、「独りで作っている」というのは己の思い上がりと言える。「取り込み、取り込まれる・・・」という言葉は、この頃最上氏が繰り返し口にしていた言葉だが、これは一体何を意味するのだろうか?私は不正確だが「柔軟にして謙虚な感性」と翻訳する。そしてそれは自身に向けて発せられた、創作に関する根源的な姿勢表明に聞こえた。その結果は、多くの関係者の卓越した情熱と技の結晶として、前例なき数々の困難を乗り越えて関係者とその作品を囲む場を活性化し、モクモク・ワクワク・ヨコハマ・ヨーヨーが現存するではないか。

当時を振り返り、HP用に書き下ろし 村上慎二 200808

 

モニュメント制作に関わった組織

住宅・都市整備公団 首都圏都市開発本部
横浜特定再開発事務所

横浜市 都市計画局
緑政局

株式会社 大高建築設計事務所
日本鋼管株式会社
ウヌマ株式会社
エー・アイ・エム株式会社
三沢電気株式会社
岩崎電気株式会社
株式会社CADセンター

 

http://www17.plala.or.jp/take-m/mogami%20mm21.html より移植

 


横浜みなとみらい21地区「モクモク ワクワク ヨコハマ ヨーヨー」組立プロセス記録2

2024-08-20 10:47:43 | 日記

今回は横浜みなとみらい21地区の中心、ランドマークタワー傍に設置された巨大モニュメントの制作・組立プロセスの画像をご覧いただきたい。

このモニュメント本体は、脚部を千葉県内の工場で制作し、ループ部を北海道の工場で制作した。更に一つ一つの細かなパーツについては、多くの町工場の仕事が関わっていると聞いた。他に類例を見ない、大規模な取り込みによって作られたモニュメントである。

常々、最上壽之さんは「取り込み、取り込まれる」という言葉を使われており、「取り込みは大きい方が良い」と力説されていた。そのような観点から見ても、最上作品制作において最大級の取り込みを得た仕事だっただろう。

なお、このモニュメントの制作は1993~94年だったため、撮影は全て35mmモノクロフィルムである。画像はキャビネにノートリミングでプリントしたものを、フラットベッドスキャナーでデータ化した。モノクロフィルムを使用したのは、画像の保存性を重視した為である。

1, モニュメント設置前のグランモール(1993年初冬)

 

2, 正面仮囲いの先は現在のクイーンズタワー

 

3, ランドマークプラザ前 円形の植栽が予め人工地盤上に設けられたモニュメントの台座

 

4, 台座とモニュメントの脚部のジョイント部分工事

 

5, 拡大画像

 

6, 脚部は千葉県内の「エー・アイ・エム株式会社」で作られた

 

7, 

 

8, 

 

9, 

 

10, 中心に座るのが最上さん

 

11, ループ部分は北海道北広島市内の「エー・アイ・エム株式会社」で作られた

 

12, 仮組状態

 

13, 夜間照明テストも行われた

 

14, 地面には薄っすらと雪

 

15, 

 

16, 現在のクイーンズタワー側の空地からクレーンで脚部の吊り込み

 

17, 

 

18, 

 

19, 脚部が立った

 

20, 足場設置(ランドマークプラザ階段から見た)

 

21, 北海道からループ部が到着

 

22, ループ吊り込み準備(現在のクイーンズタワーA敷地)

 

23, 吊り上げ開始

 

24, 

 

25, 奥に見える建物が横浜美術館 けやき通りを挟んでランドマークプラザとの間にあった敷地からもループを吊り上げた

 

26, 

 

27, ループ部ジョイント作業(足場上から撮影)

 

28, ループ部(足場上から撮影)

 

29, 

 

30, いちょう通りから見た遠景

 

31, ドックヤードタワー棟C-Dから見たモクモク ワクワク(足場が外れて全体像が見えてきた)

 

32, コーキング処理などの作業が進む

 

33, 照明設置工事とテスト

 

34, 照明の取付角度に指示をする最上壽之さんとプロジェクトの仲間たち

 

モニュメントの設置と完成式典が終わり、その雄姿が一般開放されると様々な反応があった。それは賛否両論である。

当初、このモニュメントの存在はこの場に唐突に見えたことだろう。「不気味だ」といった感想も聞かれた。勿論、景気が減速していく中でこのような巨大なモニュメントの制作費は?という批判もされた。

不気味だという意見には私としては同意するところがあった。まだ開発中で空地だらけのMM21地区に出現したこのモニュメントは、やはり異様な雰囲気を醸し出していたと思う。だが、このモニュメントが設置された場の完成図から予想すると、このバランスで安定するようにも思えた。本当のところは、これから建設が始まるクイーンズタワーの完成を待たなければ分からないのだった。

 

この頁は、まだ暫く画像の追加、加筆を行う可能性があります。

次回に続く

 

横浜みなとみらい21地区「モクモク ワクワク ヨコハマ ヨーヨー」組立プロセス記録3 - ムラカミの公開制作的ブログ

更新がストップしたHPからの移植記事が続く。今回の内容は、私のTake-murakamiという頁を用いて最上壽久さんの情報を発信したものである。当時、最上さん自身のHPが無かった...

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横浜みなとみらい21地区「モクモク ワクワク ヨコハマ ヨーヨー」組立プロセス記録1

2024-08-19 11:37:00 | 日記

幾つかの不都合が重なったために、更新を諦めた私のHPがある。そのHPも来年には、プロバイダーの都合で閉鎖されるという。そこで、その中でもアクセス数があり、幾らか社会の為になっていると思われる内容を、このgoo blogに移植しておくことにした。移植にあたって、補完と削減をして整理もすることにした。

私は世田谷美術館の開館から数年後に、幾つかのお仕事を頂いて図録制作等に関わることが出来た。そのひとつ「あそびのこころ」展(1990年5月26日~6月24日開催)は、当時の幾つもの美術館が力を注ぎ始めていた教育普及に関わる展示ともいえ、作家の制作プロセスも含めて取り込んでいく内容だった。

この展覧会の準備において彫刻家の最上壽之さんと出会い、以後のお付き合いが始まった。

『「あそびのこころ」展』 | 世田谷美術館 SETAGAYA ART MUSEUM

『「あそびのこころ」展』 | 世田谷美術館 SETAGAYA ART MUSEUM

目次 なし奥付 なし〔作品図版・会場写真・テキストあり〕〔作家名:伊藤知香、熊谷優子、スタン・アンダソン、土屋公雄、藤岡薫子、松本秋則、最上壽之、渡辺豊重〕

世田谷美術館 SETAGAYA ART MUSEUM

 

 

最上壽之さんの詳細については、以下リンク先を参照されたい。

最上壽之 :: 東文研アーカイブデータベース

 

これから数回に分けて、閉鎖が決まったHPから最上さんの内容を移植しようと思う。それは最上壽之さんの仕事として一般的に最も有名で、いつでも見ることが出来る、みなとみらい21地区に設置された巨大なモニュメント「モクモク ワクワク ヨコハマ ヨーヨー(1994年設置)」の組立設置プロセスの記録である。

今回は、出来立てのモクモク ワクワクの記録を示す。

完成間近のモクモク ワクワク(グランモールの横浜美術館側から撮影)

 

完成式典(右から6人目が最上さん)

 

日本丸メモリアルパーク内タワーC-D棟から完成したばかりのモクモク ワクワクを望む

 

次回に続く

 

横浜みなとみらい21地区「モクモク ワクワク ヨコハマ ヨーヨー」組立プロセス記録2 - ムラカミの公開制作的ブログ

今回は横浜みなとみらい21地区の中心、ランドマークタワー傍に設置された巨大モニュメントの制作・組立プロセスの画像をご覧いただきたい。このモニュメント本体は、脚部を...

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「富士山~矢倉岳ミステリー(仮題)」・・・番外編「橘樹神社」「中里遺跡」

2024-08-13 15:48:32 | 日記

前回の投稿から時間が掛かってしまった。幾つかの文獻にあたり、資料をさがして読んでいるうちに遅くなってしまった。また、良好とはいえない体調も、遅れの一因なのでご容赦願いたい。気長にお付き合いください。

「富士山~矢倉岳ミステリー(仮題)」・・・最終回「白鳥神社」 - ムラカミの公開制作的ブログ (goo.ne.jp)

 

富士山と矢倉岳の頂上を結ぶ線を延長していくと、横須賀の走水があり、浦賀水道を超えて千葉県に入ると鹿野山の「白鳥神社」に至ることを前回に書いた。これは単なる偶然だろうか。そこには日本武尊の東征を象徴的に位置づける意図が隠されているように思える。特に弟橘比売命の悲劇は、昔から多くの人の心を掴んだだろう。なおさら、その様に位置付けられても不思議ではない。

だからこそ、我が地にも弟橘比売命を祀りたいという思いが立ち上ってくることもあり得る。本当は所縁もないが、祭神として日本武尊・弟橘比売命が祀られることもあろうかと思う。

橘樹神社(川崎市)

上の画像は川崎市高津区子母口に位置する橘樹神社(以下リンク先)。

「富士山~矢倉岳ミステリー(仮題)」・・・周辺資料7 - ムラカミの公開制作的ブログ (goo.ne.jp)

実はここを訪れた際に気になってしまった記述を、碑文(下画像)の中にみつけた。

読みにくいので、以下に書き起こしてみた。

 

 橘樹神社修復記念碑
祭神 日本武尊
   弟橘媛

 日本武尊が御東征のみぎり 当地方から房
総半島方面(渡航せんとした際 海神の怒り
か海が大いに荒れたため 御妃の弟橘媛がそ
の怒りを鎮めようと 尊の身代りとして海中
に身を投じられた
 媛のこの崇高な行為により荒れ狂っていた
波浪も忽ち静かとなり 尊の御一行は無時に
渡海することができた 後日 媛の装身具の
一部がこの地に漂着し 村人は媛を憐れんでそ
れをこの地に埋めて祀った 
 尊は御東征の帰途 再び此の地に立寄り媛
を慰霊するため一社を建立したのか当社の創
建と伝えられている 

 当社は嘗て橘樹郡総社として崇敬され 江
戸名所図絵にも掲載された由緒ある神社であ
り 現在の社殿は当時の氏子の熱意により現
在から百三十七年前に改建されたものである
 しかし、歳月の経過と共に各所が老朽化し
放置できない状態となったため 遠い時代よ
り祖先が崇敬し維持してきた神社を修復し 
次の世代に引継ぐことは現在の者の責務であ
るとし 平成と改元された記念事業として多
数の有志の浄財によりこの■事を実施した

 平成二年十月吉日
          橘樹神社修復委員会

注:■は判読不可。アンダーラインは筆者。

 

東征に関わる記述として定型的な内容だと思う。だが、この橘樹神社の立地条件(現在の標高17m程)を考えると、果たしてこの近辺に装身具の一部が漂着するようなことがありえたのだろうか、という疑問が生じた。確かに近くには子母口貝塚があることから、縄文時代の海岸線はこの近辺だったと思われる。だが、東征の時代は縄文海進の頃程には波打ち際は近くなかった筈だ。

また、現在の東京湾の波打ち際は時代によって大きく異なることは言うまでもない。簡単な資料を見ている限りでは、その年代ごとの変遷を追うことが難しいのは、専門家でも定説が定まらないのかもしれない。ただ、素人の私がイメージするのは、江戸城築城の頃は湿地帯だったといわれることから、大昔はまだ縄文海進の影響が幾らか残っていた地形だったのではと思う。

その様にイメージすると、この橘樹神社の近くは湿地帯のような有様だったかもしれない。

様々な根拠の薄い想像が、この碑文を読みながら巡ったのだった。

ではいったい、この流れ着いた装身具とは(本当に漂着したならば)、何処に流れ着いたというのだろうか。

 

その疑問に直接的ではないが示唆を与えてくれたのが、二宮町の吾嬬社だった。以下のリンク先に〈由来に関しては不明確。ただ、グーグルマップのクチコミによれば、かつて吾妻神社(同じ二宮町吾妻山公園内神社)の宮司だった方が建てられたのではないか、と書かれている〉ということだ。

「富士山~矢倉岳ミステリー(仮題)」・・・神奈川神社庁リストに掲載されていない「吾嬬社(二宮町)」 - ムラカミの公開制作的ブログ (goo.ne.jp)

信仰は、場の必然を超えることがある。祠や社は彼方此方に建立されていくだろう。はじまりは個人的な小さな祈りの場であっても、それがやがて広がっていくこともある。私はそのようにして建てられたのが、この橘樹神社なのではないかと、素人発想だが考えもした。

だが、もう少し専門的な方の意見はどの様になっているのかを知りたくなった。

 

先ず、私の比較的近隣の遺跡の資料を探した。「令和4年度特別展 弥生の大集落 中里遺跡-くらしを変えた東西の出会い- 小田原市立郷土文化館」の図録を参照してみた。すると〈縄文時代の小田原は、中期(約5,500年前から4,400年前)には市内の広い範囲で遺跡が確認できます。見晴らしの良い丘陵上に集落を営み・・・ところが後期に入る約4,400年前から集落の数が減少し、晩期には住居跡がほとんど確認できなくなります。/この状況は小田原市内だけでなく、神奈川県内さらには関東・中部地方でも共通する現象で、気候の寒冷化が影響していると考えられています。〉という記述(p.10)がある。

続いて次の頁、小田原市国府津からやや二宮寄りに位置する「前川向原遺跡第一地点」の記述(P.11)には、〈相模湾に隣接する標高16mの砂丘上に位置します・・・土杭や柱穴が検出されましたが、遺物は出土せず、遺構外から縄文時代晩期から弥生時代前期の土器が出土しました〉とある。この標高16mは気になる点だった。冒頭に書いた橘樹神社の立地条件は標高17m程である。勿論、地盤は不変ではないが、だいたい弥生時代前期の波打ち際の後退を感覚的に捉えられそうな気がした。

因みに「前川向原遺跡」は、ネット上の資料にあった住所から推定すると、国道1号線の北側にある「小田原市立前羽小学校」「前川第二公園」「ダイヤモンドライフ湘南」の位置と思われる。

ここで一度、中里遺跡跡を訪ねてみた。

現在の中里遺跡は、「ダイナシティ ウエスト」という大きなショッピングモールになっている。その敷地の一角に、「中里遺跡ポケットパーク」が設けられていた。下画像のように東海道新幹線の線路脇に位置する。

小さな憩いの場となっており、時折腰を下ろしている方の姿を見かける。背景のコンクリート製の壁には、遺跡の説明がされている(画像では読み辛いので書きだす)

中里遺跡ポケットパーク
 中里遺跡は、1952年に大同毛織小田原工場建設の時に遺跡の一部が発見され、その後再開発事業のため1991年から3地点において本格的な発掘調査が行われれました。
 その結果、この地区には今から約2150年前頃(弥生時代中期前半)の東日本では最も古い本格的なコメ作りの集落があったことがわかりました。

 右図のように第I地点では多くの住居や倉庫、井戸などのある集落、第II地点では水田、第III地点では方形周溝墓と呼ばれる墓の跡が発見されています。

 こうした集落・水田・墓地がまとまって発掘されたことにより、弥生時代の集落の全体を知ることの出来る貴重な遺跡といえます。

 また出土した瀬戸内海地方の土器などから、遠く400キロも離れた瀬戸内地方の人々との交流によって、進んだ稲作技術を東日本で最も早い時期に取り入れた人々の集落遺跡であることが明らかになりました。

 中里遺跡はこのように学術的に大変貴重であり、小田原の歴史を知るための代表的な遺産でもあるところから、発掘された住居の一つを再現し、中里遺跡ポケットパークとして市民の皆さんに弥生文化に親しんでいただこうとするものです。

2000年9月
株式会社ダイドーリミテッド
小田原市教育委員会

 


中里遺跡のあらまし
 発掘調査の結果、第I地点で確認された集落は、当時の浅い川(自然流路)によって区画され、その範囲はおよそ30,000平方メートル以上にも及ぶ大規模なものと推定されます。

 集落内からは、竪穴住居跡97軒、掘立柱建物跡(高床倉庫)68棟、土坑(ゴミ捨て穴ほか)824ヶ所、井戸跡6ヶ所などが発見されました。これらの建物跡には多いもので3回の建て替えが認められるものがあり、数世代に亘って集落が継続したものと考えられます。

 この集落は、数十年間続いた後消滅しますが、再び3世紀の弥生時代末になると、調査区の南西の地区に周囲を溝で囲った環濠集落が出現します。

 出土した遺物は、縄文時代の伝統を受け継ぐ中里式(須和田式)土器の他に、既に稲作時代を迎えていた瀬戸内海地方東部(兵庫県神戸市周辺)で作られた土器である「瀬戸内系土器」も多く含まれていました。

 また、稲作と共に日本に伝えられた「大陸系磨製石器」と呼ばれる。農工具などを製作するためのオノやノミ、稲を摘み取る石包丁、土を耕すための石鍬、木鍬や籠類など稲作に関係する一連の遺物も発見されました。

 さらに、炭化米(籾が炭状になったもの)、鹿や鳥の骨、桃や瓜科の種子など、食料の一部も多く出土しました。

 こうした出土遺物は、中里遺跡の人々の豊かな暮らしぶりを知るとともに、この集落に稲作を中心とした新しい技術や文化が導入されたことを物語っています。

中里遺跡が私達に伝えるもの

 中里遺跡は東日本の本格的な弥生時代集落としては最大のものといえます。
 弥生時代は日本で本格的に稲作を始めた時代で、紀元前4世紀頃に、中国大陸や朝鮮半島の部kkなの影響を受けて北九州地方に誕生した文化が次第に日本列島に広まったものと考えられています。
 東日本へはやや遅れて弥生文化が伝わってきますが、人々は台地の上に住んで、縄文時代の伝統の強い木の実の採集や狩猟による暮らしを続けながら細々と稲作を行う状態が、しばらくは続いたものと考えられてきました。
 しかし中里遺跡での発見は、こうした考え方を大きく改めることになりました。これまで考えられていたよりも、およそ50年ほど早い時期に人々は進んだ技術により低地を切り開き、灌漑による本格的な水田耕作を行う大きな集落を築いていたことが明らかにされたからです。
 また、集落の様子を見ると、中央に集落の中核施設として、大型の倉庫や神殿などと推定される棟持ちの掘立柱建物が経ち、周囲に井戸が掘られており、西日本の弥生の集落と大変よく似た姿をしていたことが分かりました。
 集落から100メートルほど離れたところに築かれた墓地も、方形周溝墓という、当時西日本から全国に広まりつつあった新しい種類の墓が選ばれました。こうした東日本では大変めずらしい集落は、瀬戸内頭部の弥生土器が多量に出土したことから、この遠くはなれた地方の人たちと小田原地方に住む人たちの交流が行われたことにより誕生したものと考えられます。
 瀬戸内海東部の土器は、愛知県や静岡県などの太平洋沿岸で認められていないことから、瀬戸内東部地方の人々が海路により直接小田原へもたらしたのではないかと思われます。
 彼らは新たな天地を求めて東を目指し、中里の地を選んで小田原の人たちと共に故郷の集落にも負けない立派な村を築いて、灌漑による最新の技術をはじめとする西日本の文化を伝えたのでした。
 中里遺跡は、こうした弥生文化が東日本に広まっていく姿を集落と水田、墓の全てで知ることが出来る大変貴重な遺跡なのです。

住居跡がイメージされているポケットパーク、現在の標高は13mである。この中里遺跡は、富士山と矢倉岳を結んだ線の延長上よりやや南に位置する。それでも東征時の風景の雰囲気をイメージする手がかりの一つになるような気がした。

 

さて、橘樹神社の位置するあたりに弟橘比売命の装身具が漂着したのだろうか。もう一つ考えられることは、この橘樹神社のある川崎市高津区子母口の地域は、今では丘陵地の住宅街となっている。だが、太古はこの地域の中心だったかもしれない。大きな街だったならば、そのシンボル的な意味合いもあって、弟橘比売命伝説が記録されることもあり得るのではないか。

これはなにか適当な資料を探さなければならない。私は素人だけに、専門的過ぎても歯が立たない。

そして「川崎・たちばなの古代史-寺院・郡衙・古墳から探る 村田文夫 著 有隣新書」という本を見つけたので購入した。

 

川崎・たちばなの古代史|有隣堂の出版物

村田文夫|8世紀初め、律令国家の成立に伴い、現在の川崎市一帯は武蔵国橘樹郡に編成された。橘樹郡の郡衙(役所)の...

有隣堂

 

実に私の疑問は、この本一冊で解決した。p.98から始まる「四、郡衙周辺に神社的な遺構・遺物を探る」から、疑問を解決する記述が始まる。

まず郡衙とは役所の意だ。つまりこの地域の中心地だったということ。そして江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では、〈立花社 村の西に寄てあり〉という記述があるらしい。そして規模の大きな遺跡が発掘調査されているのでこの本が著されている。かつて橘樹神社は大きな街の中にあったには違いないだろう。ただし、江戸後期よりも以前は少々位置が異なるようではある。

そしてこの様な記述があった。〈つまり『古事記』にある、海辺に漂着した弟橘姫の櫛をとりあげ、『江戸名所図会』(近世後期)にもある御陵を造って治め置いたという部分から、御陵・古墳をつくりあげ、橘樹神社の二神信仰をたくみに定着させたのであろう。ちなみに現在の考古学・地質学の通説では、奈良時代の海岸線は、今の川崎駅の周辺とされる。〉

もとい、それは一説ではあるが、私の疑問に納得出来る内容であった。