少し前になるが、宝山寺で懲戒解雇された男性僧侶が大矢貫主から暴行された等として損害賠償を求めた訴訟の判決が奈良地裁であったというのだ。
判決は「下駄で殴ったことは不法行為に当たる」として慰謝料の支払いを命じられたのだが、少し考えさせられた。
毎日新聞のこの事件の経過を見ると、この男性は98年から勤続、「無視された」などと反発。03年ごろ、訪れた信徒に「ここには聖天様はおられん」「お参りしても無駄だ」といったという。
お坊さん、私たちには優しい、そして人を良き方向に導いてくれる人、そんな思いがありませんか。
もっともいつだったか、お坊さんが仏像を盗みまくっていたという記事が出たこともありましたが、おおむね、お坊さんは仏さんの使いといった感覚があったのは私だけではないでしょう。
「無視された」で反発、内容は分からないが、僧侶にしては了見が狭すぎないか、まるで幼児の駄々っ子の様にしか見えない。更に上記の言動はお坊さん?、まったくやくざが店の前で客に嫌がらせをして店を困らせている図ではないですか。
更に話は続いている。その後も同僚に暴力を振るったり、無断欠勤を繰り返したとある。そして05年事件が起きた。
貫主は男性の勤怠が著しく、注意しても聞き入れないのでほうきをふりまわした。翌月はつかみ合いになり、貫主が下駄で首や肩を殴って男性は6か月のけがをした。というのが全貌。
98年が発端であって05年まで、嫌がらせをしたり、無断欠勤を重ねたり、同僚に暴力をふるったりで、なんでこの男、僧侶をこんな長期間お寺においておいたのか不思議でならない。
お寺の規則は知らないが、通常の会社ではもうとっくにクビにしているはず。
それこそ大矢貫主がお坊さんの心意気でこの男性を更生させようとしたのかもしれない、それならとことん諭さねばならないのではないか、下駄で殴るなどは貫主もまだまだ修行が足りないということなのか。
お寺でみんな手を合わせ、熱心に願い事を叶えてもらいたいと拝む。欲からではなく、寺院、僧侶は頭を下げさせる親しみやすい信頼感があるからであろう。