脳科学研究センター-脳研究の最前線

脳の研究を総合的に行うべく、脳科学総合研究センタが1997年に設立された。

未解決の重要課題

2024-08-10 13:11:22 | 脳科学
アルツハイマー病研究は約100年前に始まりました。当初は、臨床医学や古典的病理学による「現象論」でした。その後、病理生化学が神経病理の物質的実体を明らかにすることによって、因果関係検討の突破口が開かれました。アルツハイマー病が科学的研究の対象になった瞬間です。Aβのアミノ酸配列が明らかになったことによってアミロイド前駆体タンパク質の遺伝子がクローニングされ、家族性アルツハイマー病の原因遺伝子が初めて同定されました
原因因子変異の表現型を調べることによって、病因論的研究は大いに進みました。しかし、未解決の問題が沢山あります。一部繰り返しりなりますが、以下、列挙します。
(1)孤発性アルツハイマー病におけるAβ蓄積の原因はまだ明らかではありません。今のところネプリライシン活性低下が有力な候補です。問題は「どう証明するか?」です。
(2)Aβ蓄積か神経原線維変化や神経変性を引き起こすメカニズムも不明です。
(3)アルツハイマー病発症機構における神経原線維変化の役割は不明確のままです。最近、神経原線維変化を伴わない神経変性が存在することがわかってきました。
(4)軽度認知障害(アルツハイマー病の前段階)において既に嗅内野(短期記憶形成において重要な役割を果たす領域)に神経原線維変化や神経変性が認められます。しかし、アミロイド前駆体タンパク質を過剰発現するマウスは、Aβを蓄積しますが、神経原線維変化や神経変性は認められません。
上記の問題は、現時点で存在するアルツハイマー病モデルマウスは、アルツハイマー病どころか軽度認知障害の病理さえ再現していないことを意味します。マウスの寿命は長くて二年半ですから時間が足りないのかも知れません。だからといって、20年も30年も待っているわけではゆきません。分子レベルで本質的に重要な病理過程を同定し、遺伝子改変によってこの過程を加速させることは一つの重要な戦略だと思います。
遺伝子改変マウスを作製し交配させることは容易な実験ではありません。これによって決定的に重要な治療標的が浮き彫りになるはずです。さらに、治療薬の効果を調べる対象としてもより適切なモデル動物になるでしょう。
以上の他にも、解決されるべき問題はあります。APPトランスジェニックマウスの脳に蓄積するAβの大半は、アミノ末端のアスピラギン酸残基とアラニン残基が欠落した上、その次のグルタミン酸残基が脱水縮合してビログルタミン酸になっています。この修飾型Aβは、シナブス毒性が強く、重合性も高いので、アルツハイマー病の発症メカニズムに深く関与すると考えられます。しかし、この課題は多くの読者にとって専門すぎるので、これ以上言及しません。


アルツハイマー病克服のための長期戦略‐ワクチン療法の威力と失望

2024-08-09 23:42:04 | 脳科学
前節までは、現在進行形で進んでいる研究戦略について述べました。これらに加えて、将来を見据えた次なる戦略が必要だと私は考えています。前述しましたが、アルツハイマー病モデルマウスをAβで免疫すると抗Aβ抗体が産生され、Aβ蓄積が抑制されることが報告されました。現在も臨床試験されているAβワクチンは、この結果に基づいたものです。しかし、最初の第二相臨床試験では、被験者の5パーセントが髄膜炎を発症し、患者さんが死亡したケースがあったため、治療は取り止めになりました。現在、より安全なワクチン療法の開発と治療が検討されています。
このワクチン療法が与えたインパクトと失望は、アルツハイマー病研究に警鐘を強く鳴らしたのだと私は解釈しています。マウスモデルで成功したことをいきなりヒトに応用したことは性急でした。よりヒトに近い動物モデル、すなわち、霊長類モデルが必要です。遺伝子改変霊長類作製に関する研究は、国内外で進んでいます。とくにコモンマーモセットは、高等霊長類でありながら、体重は300~400グラムと計量である上、約一年で成熟し、メスは年間四~六匹を出産することから有望な候補だとされています。
ただし、一年や二年で成果が得られる研究データではありませんから、長期的視野のもとに地道な努力を続ける必要があると思います。日本では、厚生労働省の研究において遺伝子改変霊長類に関する研究がすでに始められています。また、今後、組織を超えた共同研究が展開すれば素晴らしいことです。

臨床試験の現状

2024-08-09 10:51:12 | 脳科学
現在、国内外で多くの治療薬候補が臨床試験を受けています。総額で数千億円以上の費用が投じられているはずです。研究開発に用いた資金を出来るだけ早く回収したいのでしょう。臨床試験の結果は結論が出るまで公表されませんから、今後どのような展開になるかについては正確に予測することは不可能です。製薬企業にとっても死活問題であり、臨床試験の失敗が報告されて株価が10分の1に下がったケースもあります。
あくまで私の個人的な予測ですが、劇的に効果のあるアルツハイマー病治療薬が見出だされることは当面ないように思います。病態が神経変性まで進んだ状態では、Aβ蓄積を抑制するだけで認知症が回復するとは考えにくいのではないでしょうか。軽度認知障害の段階で神経変性ははじまっているのです。Aβが蓄積しはじめて30年以上が経っていることを思い出してください。30年を簡単にリセットできるはずがありません。したがって、現時点では、臨床試験の結果に過剰な期待は抱かず、次節で述べる未解決課題に進むべきだと私は思います。

対メカニズム療法

2024-08-09 09:57:43 | 脳科学
「アルツハイマー病の最大の謎」の項で述べたように、Aβが蓄積して認知症に至るメカニズムは残念ながら解明されていません。この問題が克服されない限りは、アルツハイマー病の完全な予防と治療は不可能でしょう。
現在考えられている主な可能性を示します。「炎症反応」は、おもにマイクログリア(免疫系のマクロファージに相当)等が活性化してラジカル等を産生し、これによって神経細胞が傷害されると考えられています。一方マイクログリアは老人斑などの異常蓄積物を除去する作用があることも指摘されています。したがって、炎症反応が悪玉なのか善玉なのかはっきりしていません。今のところ、抗炎症剤の投与によって病態が際立って改善されることはないようです。
酸化ストレスは、加齢に伴って過酸化脂質などが増加することや前述のマクログリアの活性化によって引き起こされます。最も影響を受けるのは核酸DNAです。加齢に伴って発現の下がる遺伝子は、酸化ストレスに対し脆弱であることが知られています。抗酸化剤としてビタミンEやクルクミン(ウコンの成分)が知られています。発症後の効果は顕著ではないようですが、発症前に長期服用することによって、予防効果が期待されます。抗高脂血症剤であるスタチンや非ステロイド系抗炎症剤(NSAIDs)は、疫学的研究や動物実験から、有効性が指摘されています。
タウオパシーについては、過剰リン酸化が原因であるならば、タウタンパク質をリン酸化する酵素を阻害する薬剤が、予防薬・治療薬となることが期待されます。また、近年、神経細胞の変性や死に関与する細胞内プロテアーゼとしてカルパインやカスパーゼが注目されています。これらのプロテアーゼ阻害剤も予防薬・治療薬の候補です。
最後に、Aβの重合凝縮を抑制する目的で、前述のAβワクチン以外に、低分子の凝縮抑制剤が開発されています。これは、Aβの分子間相互作用を高めることによって、重合を抑制したり、いったん重合したものを解離させる作用があります。第三相の臨床試験が行われている化合物がありましたが、2007年八月に失敗が報じられました。

Aβ以外の治療標的‐対処療法

2024-08-09 02:03:28 | 脳科学
現在アルツハイマー病治療のために世界で最も使用されている医薬品はドネペジルです、これは、エーザイの杉本八郎博士(京都大学)が開発に成功した、世界に誇る日本の成果です。製薬品をアリセプトといい、年商約1000億円といわれます。ドネペジルはどんな経緯で開発されたのでしょうか?
1980年代にアルツハイマー病脳内において低下している神経伝達物質が検索されました。その結果、アセチルコリンが低下していることが分かりました。また、アセチルコリンを合成する神経細胞が変性していることも見いだされました。そこで、研究者たちは「脳内アセチルコリンレベルを上げれば、症状が緩和されるのではないだろうか」と考えたわけです。脳内でアセチルコリンを分解する酵素がアセチルコリンエステラーゼなので、これを阻害する薬品の設計と合成が精力的に行われました。その結果、コリンエステラーゼ阻害剤であるドネペジルが開発されました。国外でも同様の薬品を合成する努力はなされましたが、総合的にドネペジルを超えるものはありません。ドネペジルは比較的副作用が弱いこと、および、一日一回の副用ですむことが長所です。アセチルコリンエステラーゼの阻害剤は強すぎても弱すぎてもよくありません。
アルツハイマー病の発症機構カスケードにおいて、アセチルコリン低下は下流に位置します。患者さんには投薬効果の見られるレスポンダーとそうでないノンレスポンダーがあります。レスポンダーに関しては、投薬後約半年ほど認知能力の改善が見られます。しかし、いくらアセチルコリンの分解を抑制しても、アセチルコリン合成ニューロンが死滅して効果がなくなります。この半年を過ぎると、非投与患者と同じように認知能力が低下してゆきます。アセチルコリンを標的とした治療法は、原因を取り除くわけではないので、対症法と称されます。根本的原因(Aβ蓄積)の除去および対メカニズム療法と組み合わせれば、より強い効果が期待されます。
その他の対症法としては、興奮性アミノ酸受容体のイオンチャンネル拮抗剤があります。
これは過剰のカルシウムイオンが神経細胞に流入することを抑制する作用があります。コリンエステラーゼ阻害剤が効かなくなった、より重度の患者さんに使用されることが多いようです。