私たちの研究室では、それまで誰も行わなかった新しい実験方法をもってこの問題にチャレンジしました。まず、ラジオアイソトープで標的したAβ1‐42ペプチドを合成・精製しました。ペプチドの化学合成は、カルボキシ末端側から一残基ずつ付加することによって伸ばしてゆきます。一残基あたり10時間を要しました。放射線物質を取り扱う上に、一つでも失敗したら台無しですから、緊張感が張りつめっぱなしでした。同僚の岩田修博士と津吹聡博士と私では、毎日侃侃諤諤の議論をしたものです。合成と同じくらい苦労したのが精製でした。結局、共同で作業を進めていた米国のある企業の不誠実な対応(脱落)が原因が遅れたため、計画を立てて、精製が終了するまで約一年を要しました。これだけ長い標識ペプチドを合成したのは私たちがはじめてでした。
次にペプチドをラットの脳内に投与して、経時的に分解パターンを分析しました。生理的分解過程をとらえることが目的でしたから、麻酔下の生きたラットを用いました。その結果、中性エンドぺプチターゼ(中性pHでペプチドを内側から分解する酵素)様のプロテアーゼが脳内における分解過程の律速を担う主要な酵素であることを発見しました。
さらにAβ分解酵素の実体がネプリライシンであることを同定しました。最終的な証明はネプリライシン遺伝子ノックアウトマウスを用いて行いましたが、最も重要な発見は酵素活性が50パーセントに低下したノックアウトマウスでもAβ1‐40とAβ1‐42双方の定常量が1・5倍に上昇していることでした。このことは、ネプリライシン活性が半分に減少しただけで家族性アルツハイマー病原因遺伝子変異と同程度の効果があることを意味しています。
では、実際に脳内のネプリライシンは加齢に伴って変化するのてしょうか。マウスの脳内では加齢に伴ってネプリライシンの活性化や発現が低下しますが、同様の現象がヒト脳でも観測されることが複数回報告されました。さらに、病理学的にアルツハイマー病の前段階にある脳において、ネプリライシンの遺伝子発症が50パーセントほど低下していることが示されました。以上のことから、孤発性アルツハイマー病におけるAβ蓄積の原因は、加齢に伴う脳内ネプリライシンの活性低下である可能性が強く示唆されました。
また、疾患研究において原因を特定することは根本治療への道を開きます。言い換えれば、ネプリライシンが新たな治療標的として浮上してきたわけです。アルツハイマー病モデルマウスにネプリライシンを遺伝子治療によって導入すると、Aβ蓄積を抑制することがわかりました。
ネプリライシンを過剰発現するトランスジェニックマウスを用いた実験でも、同様の結果が得られています。いずれもマウスには目立った異常はありませんでしたから、副作用は少ないと予想されます。さらに、ネプリライシン過剰発現はアルツハイマー病モデルマウスの認知能力低下を回復させることもわかりました。神経病理と認知障害の両面において正にの作用を有することになります。