脳科学研究センター-脳研究の最前線

脳の研究を総合的に行うべく、脳科学総合研究センタが1997年に設立された。

アルツハイマー病と神経病理-アルツハイマー病は考古学だった!?

2024-07-26 13:21:01 | 脳科学
アルツハイマー病における原因と結果は、10年以上もの時間の開きがあります。何故これ程の時間を要するのか、厳密な意味では解明されていません。このような長期におよぶ因果関係を実験科学の方法論で解明することは大変困難です。しかも、人間に固有の疾患です。このような理由から、アルツハイマー病気研究は、多くの状況証拠を積み上げながら、互いに矛盾しないコンセンサスを築き上げる努力によって進んできました。
さらに、徐々に出来上がってきたコンセンサスに対して何度も反論がぶつけられ、これに耐える仮説だけが生き残って、今日に至ります。これまでに10万報以上の論文が発表されていますが、これらは互いに事実と考察をぶつけ合いながら、本質的でないものを除外しつつ、最大公約数的必要十分条件を絞り込んできました。コンセンサスが形成される過程は通常の科学よりも考古学に近いかもしれません。
アルツハイマー病研究にもまして考古学に近い科学分野は沢山あります。前述で引き合いに出した近代宇宙物理学において、宇宙は約137億年前にビッグバンによってはじまったことになっていますが、実際に誰かが現場を見てきたわけではありません。宇宙が膨張し続ける事実が明らかになってから、何十年もかけた観測に基づいてこの仮説にたどり着いたのだと私は理解しています。この仮説が完全に証明されることは永遠にありえません。137億年前に戻ることが不可能だからです。
素人の私には宇宙が無からはじまったことを上手く理解することはできません。「無」とは何なのでしょうか。ビッグバンやインフレーション理論に言及する本はありますが、この点に関する議論はあまりなされていないように思います。エネルギー保存則との整合性に無理はないのでしょうか。あるいは、整合性を与えるためにさまざまの素粒子の存在が予測され、実証されてきたのでしょうか。いずれにしても、いかに宇宙が生れたのかについて必ず論理的に説明される時がくることを私は信じます。科学することの核心には「研究対象は必ず論理的に理解される」という信念があります。
冒頭で述べたように、アルツハイマー病研究の実体は1980年代頃までは「博物学」、「現象論」でした。そのための手法は、古典的病理生化学です。いずれも死後脳を用います。病理学では組織切片を化学薬品や抗体をもちいて染色します。代表的な化学染色は銀染色です。これによって細胞や細胞内構造物、そして異常蓄積物を可視化することが可能になりました。
銀染色は、ゴルジ体を発見したイタリア人科学者カミッロ・ゴルジによって開発された画期的な実験法です。一連の病理学的検討の結果、疾患の神経病理学的特徴として老人斑、神経原線維変化、神経変性(神経細胞死)が確立されました。前二者は銀染色によって異常蓄積物として発見されました。神経細胞死は大脳皮質(海馬や新皮質)の萎縮(あるいは脳室の拡大)として認められましたが、今ではMRIによって生きたまま観察することができます。
次に、老人斑と神経原線維変化の物質的実体を知るために、病理生化学による検討がなされました。病理生化学では、まず、凍結した死後脳を破砕し、遠心分離やクロマトグラファーと呼ばれる方法で異常蓄積物を精製します。さらに、蓄積物が何であるかについて生化学的分析を行い、その実体を同定します。その結果、いずれもタンパク質であり、前者がアミロイドβペプチド(Aβ)蓄積、後者がタウタンパク質蓄積であることがわかりました。80年代前半のことです。
神経原線維変化の主要構成成分がタウタンパク質であること世界に先駆けて報告したのは井原康夫博士(当時東京都老人総合研究所、その後東京大学医学部、その後同志社大学)です。井原博士は日本のアルツハイマー病研究史上初めて、世界の最先端よりも前に走った研究者です。その後、どちらのタンパク質が重要であるかについて90年代後半まで論争が続きました。どのように決着したかについては後述します。

国の未来を左右するほどの影響力

2024-07-25 23:14:33 | 脳科学
そして、ほぼ全ての人間が、十分に長生きすれば、アルツハイマー病を発症する宿命があることが、近年わかりました。65歳以上で1割、85歳以上で5割、100歳以上で九割が認知症を患っていると報告されています。これはなかなかショッキングなことですが、一方で、根本的な原因が明らかになってきたことによって、アルツハイマー病を予防・治療するだけでなく、全ての中高年が対象となる脳の老化を制御できる可能性が見えはじめています。
アルツハイマー病が恐れられるのは、各人がそれぞれの人生において何十年もかけて培ってきた人間としての尊厳を奪い去られてしまうからです。本人のモラルや信条まで失われてしまうと、まさに生ける屍であり、社会的地位の高い人にとっては絶対に言われたくないであろう「晩節を汚す」ことになりかねません。また、社会的コストにおいて、医療費や介護費用のみならず家庭内介護のために失われる労働力まで考慮すれば、国家レベルでは実に年間10兆円以上が失われていると言ってよいでしょう(認知症の家族を介護するためには、仕事をやめる人々のことを考慮する必要があります)。しかも、高齢者人口の増加によって、患者数は近い将来倍増すると予測されます。このコストの負担は、自分には関係ないと思っている若者にまでおよび、日本の活力を奪っていく危険があります。
アルツハイマー病が個人と国の未来を左右するほど全国民的な問題であることを、理解していただけたと思います。逆にアルツハイマー病を克服することができれば、これらの非生産的コストを抑えることが出きるだけでなく、社会全体の生産性も向上させることができるでしょう。さらに、中高年の脳劣化を制御することが可能になれば、やがて訪れる超高齢化社会は必ずしも暗いものではなくなってきます。


アルツハイマー病とは

2024-07-25 16:25:06 | 脳科学
アルツハイマー病を発症すると、まず記銘力を含む認知能力が進行的に低下し、さらに、譫妄(意識混濁、幻覚、錯覚)などの精神症状を呈することがあります。認知能力低下は通常エピソード記憶(最近自ら行ったことや見聞きしたことに対する記憶)の異常からはじまり、言語能力や判断力が失われ、自分の居場所や家族の顔がわからなくなるほどに進行します。一般に運動失調は少ないので、徘徊などの問題行動の原因になります。精神症状としては、性格の変化、うつ症状、異常な攻撃性、根拠なき嫉妬、妄想などが典型的です。
数年前、80代の女性が夫をまさかりで殺すという事件がありましたが、彼女はアルツハイマー病を患っていたため、根拠もないのに夫が浮気をしていると思いこんでいたのです。このような症状は家族にとって大きな負担になります。「認知症」はかって「痴呆症」といわれていましたが、「痴呆症」は侮辱的だという理由で用いられなくなりました。しかし、病気の実体を表す言葉としては「痴呆症」の方が正解だと私は思います。

最新の生命科学による解明

2024-07-25 13:50:14 | 脳科学
アルツハイマー病は当初臨床医学や古典的病理学の手法で行われていたため、なかなか原因を捕らえることができませんでした。しかし、1980年代頃から基礎研究が導入されて基礎が築かれ、1990年代に入って研究は飛躍的に進歩しました。その主役は、生化学(タンパク質化学)、遺伝学、分子生物学、細胞生物学、発生工学といった生命科学の最先端の分析です。今や、アルツハイマー病の基礎研究と疾患研究は互いに影響を与えるだけでなく、研究の現場ではすでに融合していると言ってよいでしょう。
以降、20世後半から飛躍的に進歩したアルツハイマー病研究の現状と将来への展望を解説することにします。一部、専門的な知識がないとわかりづらいところがあるかも知れませんが、そんなところは読み飛ばしてください。アルツハイマー病研究の概要を理解することが一番大切です。その気になれば詳しいことはいつでも勉強できます。

100年前に発見されたアルツハイマー病

2024-07-25 01:43:33 | 脳科学
科学することの本質は、「因果関係の樹立」と「メカニズムの解明」です。そしてそのためには研究対象を詳細に記述しておかなければなりません。これは「現象論」や「博物学」と呼ばれるものです。研究は研究対象に名前を付けることからはじまります。アルツハイマー病研究もそのようにしてはじまりました。
たとえば天文学では、古代に星や星座に名前を付けられ、16世紀以降、コペルニクス、ガリレオ、ケプラーらによって天体の運動が詳細に記述されました。数学的に惑星の運動法則化することに最初に成功したのはケプラーです。さらに、ニュートンやライプニッツが確立した微積分学によって古典力学の対象として発展してゆきます。
その後、電磁気学、相対性理論、量子力学、統計力学のおかげで、天文学は今や宇宙物理学となって発展を続けています。アルツハイマー研究史もこれとよく似ています。最初は一疾患の研究だったアルツハイマー病も、今や新しい生命科学分野を切り開くまでになりました。後述はしますが、アルツハイマー病研究によって今まさに花開こうとしている研究分野が一つあります。それはこれまで正常な現象と考えられてきた脳の老化(健忘症)を制御しようというものです。私はこれを「脳老化制御学」と命名します。
アルツハイマー病は1906年にドイツ人医師アロイス・アルツハイマーが、ドイツのチュービルゲン大学で発表した症例が世界で最初です。患者は50代の女性でした。論文として発表されたのは翌年の1907年です(したがって、2006年にまたは2007年がアルツハイマー病研究100周年ということになります)。そのころのドイツは医療品・衛生の最先進国で、平均寿命が60歳を超えていました。
一方、日本は今でこそ世界の再長寿国ですが、当時の平均寿命は40歳代でした。後述するように、アルツハイマー病の最大の危険因子は加齢です。ドイツで世界初のアルツハイマー病患者が見出いだされたのは、それなりの社会的背景があったからなのだと思います。最初の症例報告後、1910年に著名な精神科医のクレベリン博士によって、正式に″アルツハイマー病″と命名されました。とはいっても、当時は希な疾患で、根拠になったのは五症例だけでした。
100年後の現代に、患者が爆発的に増えることは誰も予想していなかったでしょう。今では、全世界で患者数が2000万人を超えると考えられています。この数字は今後さらに増え続けます。しかも、数年で患者が入れ替りますから、延べ人数はものすごい数になるわけです。患者数が一多いのは米国(米国 Alzheimer's Association によると500万人以上)とされていますが、患者の増加速度が大きいのは中国とインドです。世界人口のほぼ三分の一を擁するこれらの国では、経済の発展に伴って平均寿命が伸びていることが原因のようです(中国はすでに米国を追い越したとの指摘もありますが、後述する理由から患者数を正確に把握するのは困難なのが実情です)。東アジア諸国と日本は、遺伝的・文化的背景が比較的近いため、情報を共有する意識が高いと考えられます。アジアでは、日本以外に韓国・台湾・シンガポールの研究レベルが高いので、韓国・台湾・シンガポール・中国との協同研究を積極的に促進することは相互の利益に寄与すると思います。また、欧米諸国は日本は、人口の高齢化があるレベルに達した時点で、強い不況を経験しています。社会福祉と市場経済のバランスが限界点を超えたのでしょう。中国とインドが大不況に陥ると世界が困ります。この数年以内に何とかしなければなりません。

本プログによる実験データは、おもに次の文献にもとづいています。
井原康夫、荒井啓介行「アルツハイマーが、にならない」朝日新聞社 2007
貫名信行、西川徹編「脳神経疾患の分子病態と治療への展開」実験医学増刊号 羊土社 2007
本間昭編「臨床医のためのアルツハイマー型認知症実践ガイド」じほう 2006