☆ 引用聖句 イザヤ書43章1節 ・ 4節
1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。
わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのもの。
4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その痛み、孤独、むなしさ。そういったことをいっぱい味わっていくのが、この世の人生です。・・・・・・・・・・心の痛み、それから孤独、不安、ひとりぼっち、心細さの原因とは何でしょうか。それはただ一つ。あなたがイエス様を知らない。 イエス様を知らない。神様を知らないというところから来ています。・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・エレミヤ記31章の3節。ここはリンデにもありますよね。
3 「永遠の愛をもって、
わたしはあなたを愛した。
それゆえ、わたしはあなたに、
誠実を尽くし続けた。」
この、「わたし」というのは神様です。・・・・・・・・・・・私を捨ててゆく。だけれども主は、誠実を尽くし続けられる。・・・・・・・・・・・・・・・・
この世の中はメチャクチャですからね。今。会社の仕事なんて、本当にもう殺人的です。さもなければ、病気、それから倒産、失業。
もうあらゆる不幸が身にふりかかってきます。そうした人にイエス様は、すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。マタイ伝11章の28節。19ページ。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
また、第一ペテロ5章の7節には、こういうことも仰っているのです。
7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを心配してくださるからです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マタイ伝18章の19節。
19 もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、
地上で心を一つにして祈るなら、
天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、
わたしもその中にいるからです。
祈りというのは何も改まって、宗教的な行事でやるものでは決してありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これは生きている主、生きている神様との親しいお話なのです。あるときは悲しい愚痴。それから、あるときは喜び。その全てをイエス様に話し、イエス様と分かつことです。これが祈りです。ということは、当然多くのことを主にお願いする。主の名によって祈る、と。
これも言い出すと、ちょっと難しくなるのですが、何でもいいのです。ともかく片っ端から、「イエス様、お願い。」と言って、天に放り上げればいいのです。下手に考えるより、そのほうが手っ取り早い。人間の力なんか知れている。もしくはゼロ。だけど、何かそういう相談を受けたり、自分がそういう立場になったらすぐ、「イエス様、こうなっています。」「こうなっています。助けてください。」これが祈りです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イエス様はいつも私を愛し、見つめていてくださる。子どもとしていてくださる。永遠にイエス様とともに私たちはいられる。このことを知れば、もはやあなたは痛みや孤独や寂しさの中から解放されます。どんな大きな問題であっても、全能の主イエス様がいつも横にいてくださるのだから、何の心配があるでしょう。何の寂しさがあるでしょう。何の心を痛めることがあるでしょう。・・・・・・・・・・・・
1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。
わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのもの。
4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その痛み、孤独、むなしさ。そういったことをいっぱい味わっていくのが、この世の人生です。・・・・・・・・・・心の痛み、それから孤独、不安、ひとりぼっち、心細さの原因とは何でしょうか。それはただ一つ。あなたがイエス様を知らない。 イエス様を知らない。神様を知らないというところから来ています。・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・エレミヤ記31章の3節。ここはリンデにもありますよね。
3 「永遠の愛をもって、
わたしはあなたを愛した。
それゆえ、わたしはあなたに、
誠実を尽くし続けた。」
この、「わたし」というのは神様です。・・・・・・・・・・・私を捨ててゆく。だけれども主は、誠実を尽くし続けられる。・・・・・・・・・・・・・・・・
この世の中はメチャクチャですからね。今。会社の仕事なんて、本当にもう殺人的です。さもなければ、病気、それから倒産、失業。
もうあらゆる不幸が身にふりかかってきます。そうした人にイエス様は、すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。マタイ伝11章の28節。19ページ。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
また、第一ペテロ5章の7節には、こういうことも仰っているのです。
7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを心配してくださるからです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マタイ伝18章の19節。
19 もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、
地上で心を一つにして祈るなら、
天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、
わたしもその中にいるからです。
祈りというのは何も改まって、宗教的な行事でやるものでは決してありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これは生きている主、生きている神様との親しいお話なのです。あるときは悲しい愚痴。それから、あるときは喜び。その全てをイエス様に話し、イエス様と分かつことです。これが祈りです。ということは、当然多くのことを主にお願いする。主の名によって祈る、と。
これも言い出すと、ちょっと難しくなるのですが、何でもいいのです。ともかく片っ端から、「イエス様、お願い。」と言って、天に放り上げればいいのです。下手に考えるより、そのほうが手っ取り早い。人間の力なんか知れている。もしくはゼロ。だけど、何かそういう相談を受けたり、自分がそういう立場になったらすぐ、「イエス様、こうなっています。」「こうなっています。助けてください。」これが祈りです。
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イエス様はいつも私を愛し、見つめていてくださる。子どもとしていてくださる。永遠にイエス様とともに私たちはいられる。このことを知れば、もはやあなたは痛みや孤独や寂しさの中から解放されます。どんな大きな問題であっても、全能の主イエス様がいつも横にいてくださるのだから、何の心配があるでしょう。何の寂しさがあるでしょう。何の心を痛めることがあるでしょう。・・・・・・・・・・・・
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