昨日は 久しぶりにとっても落ち込んでいました。 メーリングリスト(キリスト集会)で ちょうど落ち込みからいかに脱出するかのご投稿が、ある兄弟からあったので、抜書きしてみたいと思います。(○○兄、勝手にごめんなさい!)
=======================コピペ始まり↓========================
・・・・・人って、何も問題のないときには、それが平安だと思ってしまう。“肉的な平安”(崩れさる平安)なんでしょうね。
主からの平安(ホンモノの平安)が与えられるには、どうしても、経なければならないことがある。それが悩みや苦しみという試練。自分では、避けたいこと、イヤなこと、無ければいいこと・・・・・。これこそが、神さまからの(神の子に対する)進級テストだと思います。進級テストにパスして始めて、ご褒美として“ホンモノの平安”(主からの平安)があたえられるんですね。これは、主に信頼しないと、絶対にパスしない。すると、なんどでも、なんどでも、イヤな思いは、繰り返される。平安の無い生活が続く。何年も。何十年も!
・・・・・・・・・悩みや苦しみは、ぼくの信仰が本物かどうかをテストされる時。でも、この“進級テスト”を通らなければ、信仰の成長はぜったににない。“進級テスト”の中で、主との交わりは当然増える。ここで初めて、自分に信頼するのではなく、主にゆだねることを覚える。主に働いていただく、その結果主の恵が現れる──。こうして、主の臨在の中にある平安が与えられるようになるんですね。
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ぼくもね。過去一~二年、何度も落ち込み、怖れや不安に押しつぶされそうになったときが、何度も何度もあります。だからこそ、脱出方法を、真剣に追い求めてます。
最近、落ち込み、怖れ、不安は、それ自体、主から離れる大きな罪だと示されました。「じゃあ、どうしたらいいの?」
・・・・・・・好きな曲を口から出して何度も賛美すること・・・・・・・・処方箋の一つとして、生活に取り込みました。効果は、たしかです。・・・・・・・
でも、これだけでは、不足だとわかりました。主から離れてしまうこと(不信仰)が原因なのだ、と思いました。でも、どうする?
こう考え始めました。主は、困難を通して、ぼくをよりよいところに連れて行ってくださる計画なんだ、と。すべてを働かせて益としてくださる、確信を持つべきだと。
でも、ぼくがこのテストを合格しないかぎり、次の祝福の場に連れて行ってもらえないんですね。主の目的は、ぼくの人生によいことをもたすためなんだ。わざわいを与えるためなんかじゃない(エレミヤ29:11)。信仰を成長させ、上のレベルに引き上げるためなんだ。
「主に信頼する」とは何かを、もう一度徹底的に考えました。 やはり、どうしても、「自分に頼らず、主に頼る」「自分の思い・感情によらず、みことばによる」・・・・・・・・
で、さっそく、みことばに従うことを、やってみました。
イヤなこと。怖れ。思い煩い。不安・・・は、人それぞれ違いますね。他人には、たいしたことがなくても、ぼくにはとてもおおきな障碍です。自分自身の問題に直接関係する“みことば”をたくさん書き出しました。とるべき心の態度を、書き出しました。・・・・・・・・・
そしてまた、主との交わりが、飛躍的に増えました。「どうしたらいいのですか」・・・・・・・・・・「従えなかったら、イエスさま、あなたが、ぼくの代わりになしてください。」
すると、あら不思議。ぼくの心を捉えていた不安・怖れ・思い煩い、が消え・・・・・・・。まだまだ、山あり海あり、元気になったり落ち込んだりでしょうが、少しずつ、脱出の処方箋(オーダー・メードの)を獲得していきたいものだと痛感してます。
主からの平安があるときには、冷静に判断できます。・・・・・・・み霊が導いてくれます。ぼくは動かない。すべてに、主が動いていただくんです。だって、ぼくは、十字架につけられ死んでる。生きているのは、新しい命。イエスさまのいのちですもんね。
========================コピペ終わり↑========================
私も 聖書を読みました。 今まで読んだことのない箇所(エゼキエル書)でした。 厳しい言葉が並んでいましたが 旧約のイスラエルの民の罪深い姿は そのまま私の今の姿だと、旧約を読むたび いつも思わされます。
読んでいて だんだん気持ちが神様の方に向かっていき、現実から目をそらすことができました。 (現実逃避はいけませんが、現実ばかりに心を奪われ支配されては 大切なことや自分を見失ってしまいます。)
気持ちが落ち着き 次の行動にうつることができました。
=======================コピペ始まり↓========================
・・・・・人って、何も問題のないときには、それが平安だと思ってしまう。“肉的な平安”(崩れさる平安)なんでしょうね。
主からの平安(ホンモノの平安)が与えられるには、どうしても、経なければならないことがある。それが悩みや苦しみという試練。自分では、避けたいこと、イヤなこと、無ければいいこと・・・・・。これこそが、神さまからの(神の子に対する)進級テストだと思います。進級テストにパスして始めて、ご褒美として“ホンモノの平安”(主からの平安)があたえられるんですね。これは、主に信頼しないと、絶対にパスしない。すると、なんどでも、なんどでも、イヤな思いは、繰り返される。平安の無い生活が続く。何年も。何十年も!
・・・・・・・・・悩みや苦しみは、ぼくの信仰が本物かどうかをテストされる時。でも、この“進級テスト”を通らなければ、信仰の成長はぜったににない。“進級テスト”の中で、主との交わりは当然増える。ここで初めて、自分に信頼するのではなく、主にゆだねることを覚える。主に働いていただく、その結果主の恵が現れる──。こうして、主の臨在の中にある平安が与えられるようになるんですね。
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ぼくもね。過去一~二年、何度も落ち込み、怖れや不安に押しつぶされそうになったときが、何度も何度もあります。だからこそ、脱出方法を、真剣に追い求めてます。
最近、落ち込み、怖れ、不安は、それ自体、主から離れる大きな罪だと示されました。「じゃあ、どうしたらいいの?」
・・・・・・・好きな曲を口から出して何度も賛美すること・・・・・・・・処方箋の一つとして、生活に取り込みました。効果は、たしかです。・・・・・・・
でも、これだけでは、不足だとわかりました。主から離れてしまうこと(不信仰)が原因なのだ、と思いました。でも、どうする?
こう考え始めました。主は、困難を通して、ぼくをよりよいところに連れて行ってくださる計画なんだ、と。すべてを働かせて益としてくださる、確信を持つべきだと。
でも、ぼくがこのテストを合格しないかぎり、次の祝福の場に連れて行ってもらえないんですね。主の目的は、ぼくの人生によいことをもたすためなんだ。わざわいを与えるためなんかじゃない(エレミヤ29:11)。信仰を成長させ、上のレベルに引き上げるためなんだ。
「主に信頼する」とは何かを、もう一度徹底的に考えました。 やはり、どうしても、「自分に頼らず、主に頼る」「自分の思い・感情によらず、みことばによる」・・・・・・・・
で、さっそく、みことばに従うことを、やってみました。
イヤなこと。怖れ。思い煩い。不安・・・は、人それぞれ違いますね。他人には、たいしたことがなくても、ぼくにはとてもおおきな障碍です。自分自身の問題に直接関係する“みことば”をたくさん書き出しました。とるべき心の態度を、書き出しました。・・・・・・・・・
そしてまた、主との交わりが、飛躍的に増えました。「どうしたらいいのですか」・・・・・・・・・・「従えなかったら、イエスさま、あなたが、ぼくの代わりになしてください。」
すると、あら不思議。ぼくの心を捉えていた不安・怖れ・思い煩い、が消え・・・・・・・。まだまだ、山あり海あり、元気になったり落ち込んだりでしょうが、少しずつ、脱出の処方箋(オーダー・メードの)を獲得していきたいものだと痛感してます。
主からの平安があるときには、冷静に判断できます。・・・・・・・み霊が導いてくれます。ぼくは動かない。すべてに、主が動いていただくんです。だって、ぼくは、十字架につけられ死んでる。生きているのは、新しい命。イエスさまのいのちですもんね。
========================コピペ終わり↑========================
私も 聖書を読みました。 今まで読んだことのない箇所(エゼキエル書)でした。 厳しい言葉が並んでいましたが 旧約のイスラエルの民の罪深い姿は そのまま私の今の姿だと、旧約を読むたび いつも思わされます。
読んでいて だんだん気持ちが神様の方に向かっていき、現実から目をそらすことができました。 (現実逃避はいけませんが、現実ばかりに心を奪われ支配されては 大切なことや自分を見失ってしまいます。)
気持ちが落ち着き 次の行動にうつることができました。
イエス様信仰ビギナーの者です。
すばらしいメッセージと
風のいろさんの体験談を有難うございます。
なるほどと膝をうつ思いで読ませていただきました。
これは決して現実逃避ではなく、
今直面されてる現実に対する“風のいろさんの反応”
からの離脱ではないでしょうか。
そして離脱によって風のいろさんの自己は否定され、
御霊のご支配に与かって平安を受けられた
ということなのでしょうか。
自分は死んでると思え、
主に明け渡せ、
と考えてもピンとこない、
具体的な方法がわからない、
と模索中に良い話を読ませて頂き
感謝です。
また信仰の具体的な実践談のシェアを
よろしくお願いします。
突然失礼致しました。(タイムラグもすみません)
どなたの目にも止まらぬものかと思っていました。
ただ 私の心に刺さってので 書き留めておきました。
しかも ○○兄に内緒だったので 後で削除しようかと…。
でも 弱き者さんがすばらしいコメントを下さったので
○○兄に私信を出しました。 そしてこのまま掲載しておくことを
ご了承くださいました。
私自身の信仰はむしろ 弱き者さんよりもずっとずっと薄いと思いますが
メーリングリストや兄弟姉妹とのお交わりによって
何とか 主の群れの中にとどまっている事ができています。
(でも主は私を見放さないから 感謝です!)
弱き者さんは blogとか書かれてらっしゃらないのですか?
よろしかったらURLなど 教えてください。
ここに書きにくかったら
real-vine@mail.goo.ne.jp(@はわざと全角にしましたので半角に書き直してください)
まで メールでお知らせしてください。
(でもblogとかは特にされてないのかな?)
というか、神様学校に放り込まれた感じですが。
ある日思いがけない試練と言う形で。
自分に死に、神様に生きていただく・・・
難しいです。
まだまだ自分で何でもやってみようとしてしまってて。
先が見えない暗い谷底を歩かされ
死にたいと思うこともありました。
けど、何とか守られて一日ずつ命を繋いでいます。
そうなのです。
目の前の問題だけに捕らわれていると
大切な物が見えなくなってしまうのですよね。
神様は私たちを幸せにすると約束されているのだから
信頼して後を付いていけば良いのですが・・・なかなか従えない私です。
また遊びに来ますね。
ありがとうございました。
素敵なHNですね^^
神様(イエス様)に信頼できると
ほんとに平安に満たされ何も心配がなく 幸せですよね。
でも それがいつまでも長続きしなくて
すーぐ 自分に支配されてしまって。。。
自分の力なんて露ほどもないのに
(「心配したからといって 誰が自分の日を延ばせるか(長生きできるか)」
みたいな御言葉がありますよね。←ちゃんと引用しなくてごめんなさい)
ついつい ある意味自分の力に頼ってしまうように舞い戻り。
繰り返しですよね。
今日 運転しつつ「神様のテスト」のことを考えていました。
「落第しても落第しても 何回でもトライさせてくださるのかな?」なんてね^^
もしお持ちでしたら URLを教えてくださいね。
もしお持ちでないなら よろしかったら メールをください。
(ちょっとお返事が遅いかもですが・・・)
real-vine@mail.goo.ne.jp(@はわざと全角にしましたので半角に書き直してください)
もちろんメールを下さらなくても OKですよ~♪
不信仰な私などのページに 弱き者さんやのえるさんのような方々が
お尋ねくださり またコメントをくださり 神様に感謝しています。
○○兄にも!