伯母の葬儀の間、手を組み、時折祈っていた。「私を守っていてください」と。思いっきり仏教式の会葬の中、自分の信仰を貫くのは結構大変だ。しっかり意識していないと…。
導かれた初めの頃は、「形だけだから…。イエス様、ごめんなさい。」と心で言って、普通にご焼香した。けれど年月と共に(信仰が深まるにつれ)、そう出来ない、そうしたくない自分になっていた。なるべく「私はクリスチャンなので…」とひとことお断りして礼だけしたり(でもチャンスを捕らえられずにそれを伝えないまま、ぎこちなく礼だけしたり)、していた。
近年 父方の伯母が亡くなった時は、母からあらかじめ従姉妹に伝えておいてくれて、「○○ちゃんはいいんだ」と、かえって周りに気を使ってくれ、私に席を立たせないでいてくれた。しかし一昨日の葬儀では、たぶん母は伝えてくれてなかったみたいだし、自分で喪主の従兄弟に伝えたかったけれど、とても儀式的な葬儀社の次第の中で、声をかけにくく。 席は立たなかったし、前の席に母、私の横に妹だったので、2人は暗黙の了解のうちに私の焼香を抜かしてくれた。けれど、何も知らない方々は どう思われたかなあ?と、ちょっぴり人の目を気にした。
私は子供の頃からずっと、人に対して愛想もよく、人付き合いもそこそこうまく行っている方だった。親しい親族やご近所ならなおさらに。
しかしここ2~3年、更年期による欝と 仕事の疲れとで、どんどん人と接するのが苦痛になり、信仰関係の場所にもなかなか行けなかったし、家に客がきても、自室にヒッキーしていた。(とても異常だと思うが、仕方ない。どうしても出られないし 出たくなかった。今でもまだ駄目である。) そういう状態にあったので、葬儀で久々に会う顔見知りたちにも、気安く事情を話せないでいた。
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その信仰さえ、今、なんだか危うくて。私の足元の土台がぐらぐらしているのを感じる。不信仰なのか?
今までもそうだったけれど、最近はさらに、自分勝手な歩み・思いの中に埋没し、祈りも少なく、集うことも減ってきて。 私の信仰の歩みは、寄り道、迷い道、はぐれ道、しっぱなし。 隣の広い道を歩む他の人々のように、私もあっちの道を歩きたいなんて思うこともしばしば。(でも、やっぱり信仰は捨てられない)
それでも なんとか「主」を「見上げる」というか、「見つめる」というか、「主の方向を向く」というか、それはしていると思う。神様にお願いしていることは(そしてそれはきっとして下さってると確信してるが)、そんな私が、たとえ囲いからはみ出すことがあっても、決して見放さず、見捨てないでくださいということ。 自分で勝手なことを思ったり行動したりしていながら、本当に我侭だと思うけれど、そう願っている。
自分がいつ、ちゃんとしたクリスチャン(?)になれるのかわからないけれど、我侭一杯の道を歩いているけれど、小さくか細く、神様にお願いしている。
導かれた初めの頃は、「形だけだから…。イエス様、ごめんなさい。」と心で言って、普通にご焼香した。けれど年月と共に(信仰が深まるにつれ)、そう出来ない、そうしたくない自分になっていた。なるべく「私はクリスチャンなので…」とひとことお断りして礼だけしたり(でもチャンスを捕らえられずにそれを伝えないまま、ぎこちなく礼だけしたり)、していた。
近年 父方の伯母が亡くなった時は、母からあらかじめ従姉妹に伝えておいてくれて、「○○ちゃんはいいんだ」と、かえって周りに気を使ってくれ、私に席を立たせないでいてくれた。しかし一昨日の葬儀では、たぶん母は伝えてくれてなかったみたいだし、自分で喪主の従兄弟に伝えたかったけれど、とても儀式的な葬儀社の次第の中で、声をかけにくく。 席は立たなかったし、前の席に母、私の横に妹だったので、2人は暗黙の了解のうちに私の焼香を抜かしてくれた。けれど、何も知らない方々は どう思われたかなあ?と、ちょっぴり人の目を気にした。
私は子供の頃からずっと、人に対して愛想もよく、人付き合いもそこそこうまく行っている方だった。親しい親族やご近所ならなおさらに。
しかしここ2~3年、更年期による欝と 仕事の疲れとで、どんどん人と接するのが苦痛になり、信仰関係の場所にもなかなか行けなかったし、家に客がきても、自室にヒッキーしていた。(とても異常だと思うが、仕方ない。どうしても出られないし 出たくなかった。今でもまだ駄目である。) そういう状態にあったので、葬儀で久々に会う顔見知りたちにも、気安く事情を話せないでいた。
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その信仰さえ、今、なんだか危うくて。私の足元の土台がぐらぐらしているのを感じる。不信仰なのか?
今までもそうだったけれど、最近はさらに、自分勝手な歩み・思いの中に埋没し、祈りも少なく、集うことも減ってきて。 私の信仰の歩みは、寄り道、迷い道、はぐれ道、しっぱなし。 隣の広い道を歩む他の人々のように、私もあっちの道を歩きたいなんて思うこともしばしば。(でも、やっぱり信仰は捨てられない)
それでも なんとか「主」を「見上げる」というか、「見つめる」というか、「主の方向を向く」というか、それはしていると思う。神様にお願いしていることは(そしてそれはきっとして下さってると確信してるが)、そんな私が、たとえ囲いからはみ出すことがあっても、決して見放さず、見捨てないでくださいということ。 自分で勝手なことを思ったり行動したりしていながら、本当に我侭だと思うけれど、そう願っている。
自分がいつ、ちゃんとしたクリスチャン(?)になれるのかわからないけれど、我侭一杯の道を歩いているけれど、小さくか細く、神様にお願いしている。
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