はーい
パブー電子書籍にある
作者、青木零未の
無料本です。
「夫婦」の中にある、
「見極め」
掲載しますので読んで下さい、
『見極め』
レストランは休日の朝らしく、
家族連れで賑わっていた。
喫煙席に案内された窓側の徳治の席には、
熱い一日を予告する陽射しが注いでいる。
真向かいで妻の英子が、
あごを突き出して煙を吐き出した。
色気もなく、生意気で、ふてぶてしい態度だ。
結婚してから二十年。
見慣れた仕草だが、
徳治は思わず顔をしかめた。
五年前の厄年に禁煙してからというもの、
特に英子の喫煙姿が醜く映る。
徳治はコーヒーカップを持ち上げながら、
隣にいる木本を盗み見た。
素知らぬ顔でスクランブルエッグをフォークで寄せ集めている。
木本は三年前に一流大学の機械科を卒業し、
徳治が勤める電気メーカーに就職してきた。
穏やかながらも、物事を的確に見通す明敏な部下だ。
何より徳治を人生の先輩として慕ってくれるのがうれしい。
親元から離れて一人住まいをしているため、
一年ほど前から、週末には、自宅で夕食を共にするようになった。
子供もなく、妻と義妹の栄美の三人だけの家庭だ。
単調な土曜日の夜を活気付けてくれた。
昨夜は義妹の栄美が旅行に出かけていたために、
木本に泊まっていくように勧めたのだ。
英子がタバコを片手に、テーブルに両肘をついた。
こうだから、一緒に外食したくないんだ。
下品に見られるのをわかっていない。
「やっぱり、妹の栄美がいないと、寂しいわね」
徳治の脳裏にふと彼女の喫煙姿が浮かぶ。似たもの姉妹だ。
「ねえ、木本さん、栄美を好きなんでしょう?」
英子の無神経さは今に始まったことではないが、
あまりにも突飛すぎる。
「何を言い出すんだ。馬鹿馬鹿しい」
徳治は軽く受け流した。
「あなたなんかに聞いてないわよ」
英子がキッとした表情を徳治に浴びせ、
タバコを灰皿に押しつぶした。
英子は身を乗り出して、
「どう? 図星でしょう」
と、執拗に言い寄る。
木本は戸惑い気味に、フォークとナイフを皿の上に置いた。
「おい、栄美は三十五も過ぎたおばさんだぞ。
軽はずみなことを言うもんじゃない」
木本はまだ二十五歳。あんな鼻持ちならない女を好きになるものか。
彼には同じ会社に勤めている寺沢真紀絵がいるんだ。
短大出で二十二歳。
女子事務員の中で一番目立たない細面の娘だが、笑みがいい。
右の頬の一か所が、小さくへっこむのが何よりも初々しい。
徳治には片えくぼの女性に、深い思い入れがあった。
今もなお、気懸かりな静香. . . . . . 。
名前を浮かべるだけでも、胸が痛くなる。
静香に似た寺沢真紀絵と大本の噂を耳にした時は、妙に神経が高ぶった。
そうだよ。どうみたって栄美より、寺沢真紀絵の方に軍配は上がる。
「木本さん。わかってるんだから。今後のことは、任せて」
「いいかげんにしないか。ほら、困ってるじゃないか」
木本は伏し目がちで、黙っている。
「あなた、大本さんを取られると思って、
ヤキモチを妬いているんでしょう。いやだあー」
英子が大口を開けた。
歯の裏側についているヤニが否応なく目に入る。
「話にならん。パチンコに行く。でしゃばった真似はやめとけ」
徳治は勢いよく立ち上がり、
木本を促してレストランを出た。
外の光が両目に突き刺さる。
細目にして二、三回瞬きを繰り返した。
「悪かったな。早とちりもいいところだ。
栄美と外で会ったこともないんだろう?」
歩きながら、長身の木本の肩に手をおいた。
「いいえ」
徳治は一瞬唾を飲み込んだが、
気を取り直した。
「そうか。あいつは図々しいからな。
気を使わせて、すまなかった。もういいからな」
肩にそえた手で、ポンと叩いた。
「黙っていて、すいません」
木本が申し訳なさそうに、
真面目顔で言う。
打ち明けてくれれば、
栄美に注意することもできた。
「寺沢との噂は僕の耳にも届いているよ。うまくやれ」
それで打ち切るつもりでいた。
「彼女とは何でもないんです」
まだ煮詰まっていないのか。
情けない。
「いい娘じゃないか。謙虚で物静かで、まず笑顔がきれいだ」
自分の恋がみのらなかったからこそ、
木本には貫いてほしいのだ。
「押しが足りないんじゃないのか。
彼女は待ってると思うよ」
木本の取るべき相手は寺沢に決まっている。
あの時、徳治は静香と将来を約束しながら、
英子の熱情にうつつを抜かして、婚約を破棄してしまった。
その一か月後、勤めていた会社を辞めたと、
人づてに耳にした。
それっきりだ。
今は既に結婚して、子供もいるだろう。
しかしながら、第二の人生への情熱をぶつけてみたい気持ちがある。
「なあ、木本。僕は昔、裏切ってしまった女がいたんだ。
もし、今、その人と出会たなら、きっと何もかもを投げ出して一緒になろうと思う」
「するんですか?」
木本は足を止めて、強い口調で聞いてきた。
「まあな。後悔したのを取り戻したいんだ。
男ってものは、やっかいだ。
身体と心が分離している面があるからな」
すでに木本は栄美と一線を越えたのだろうか. . . . . . 。
としても、それでも迷うな。
「僕は悔いている。眼の前の欲情に食いついて、
大事な人を手放してしまった。
いいね。身体の関係だけで将来を決めるなよ」
徳治は念を押した。これで充分だろう。
パチンコ店の駐車場を通り抜け、
入り口のドアに手をのばしかけた時だ。
「やはり、栄美さんと結婚します」
背後でキッパリとした声がした。
今、何と言った. . . . . . ?
すばやく振り向いた徳治に木本は軽く頭を下げて、
店の中に入っていく。
徳治は呆然とその場に立ち尽くした。
栄美と結婚する?
寝転んでいる義兄の身体を、平気でまたぐ女と?
前戯を省略する男は最低だと、
恥ずかし気もなく言い放す女と?
栄美は英子とそっくりなんだよ。
徳治が店内に入ると、木本はカウンターのすぐ近くで、
「運よく二つ席があいてましたから、とっておきました」
涼しい顔でパチンコ台と向かい合っている。
隣に座り、パチンコ玉をはじき出してはいたが、
必死になって木本を説得させる文句を考えた。
思いついたのは、カマキリのオスとメスの交尾だった。
『木本。カマキリのオスは食べられてしまうっていうのは
一般的な知識だが、実際の半分以上は毒婦のメスに食べられずに、
交尾しているんだ。
木本。お前は頭がいい。
だから、食べられずにメスから離れられるはずだ。
僕が英子や栄美の防波堤になるから心配するな。
お前は寺沢と結婚しろ』
オスが首を食べられて、
性欲が高まると本に書いてあったのは黙っていよう。
なお、オスは子孫繁栄のために我が身を捨てて、
メスの栄養源となる。
そんな美談など、糞食らえだ。
『木本よ。いっときの色欲の情に溺れてはならぬ。
人生の伴侶選びは慎重にせよ。
頭がいいお前のことだ、よく考えればわかるはずだ』
話すことはまとまった。
よーし。景品で米をもらって、木本に持たせるか。
これからは、我が家へ来れなくなるからな。
徳治は右手を膝にこすり合わせて、ハンドルを握った。
「早くしてよ。お客さんが待ってんだから」
景品カウンターで従業員の金切り声がした。
どこかの台で異常があったのだろう。
英子がわめく声質と同じだ。
「ああ、いやんなっちゃうわ。
昨日言ったじゃない。その髪型どうにかならないの」
再び従業員の尖り声が耳に入ってきた。
口癖まで英子にそっくりだ。
『湯船の中で身体をこすらないでよ。
垢が浮いてるじゃない。
ああ、いやんなっちゃう。その癖どうにかならないの』
繰り返される英子の愚痴だ。
どうにもならんさ. . . . . . 。
徳治は苦々しい思いで、カウンターの従業員を見た。
ん? まさか!. . . . . . 。
口元が硬直した。
衝撃が走り、即座にパチンコ台に顔を戻す。
恨み言もなく、ひっそりと立ち去った人だ。
年が絶つにつれて、
いとおしさが増す人でもある。
徳治は息を殺して、
もう一度、おそるおそる眼の隅でカウンターを盗み見た。
ボサボサの赤髪が忙しく動いている。
二十年を差し引いた顔立ちと、
愛想笑いする頬の片えくぼ。
間違いない. . . . . . 。
徳治の肩から力が抜ける。
パチンコ台にもどした真正面のガラスに、
眉間と口元に深く刻まれたいシワがあるニ重顎の男が映っていた。
そうだよな. . . . . . 。
今さら、年月を戻せるはずもないんだ。
子どもを授かる率はわずかと、
病院の検査結果を聞いたのは結婚二年目だった。
まさか徳治自身に問題があるとは思ってもみなかった。
女性が結婚したい理由の第二位に、
子供が産みたいからだと、
何かの雑誌に書いてあったのが浮かんだ。
(ついでに、一位が好きな人と一緒にいたい、で、
三位は精神的に安定したいだった)
徳治は役立たずの精子に気落ちした。
かつ、英子に母性を与えられない失念を抱いた。
『夫選びのくじが外れた、ってことかも。
でもさ、体型が崩れないのを手に入れた、
ってことになるのよね』
アッケラカンと放った英子なりの思いやりは、
決して忘れていない。
そっと木本の横顔に目を移すと、
無心にパチンコの玉を追っている。
受け皿には、はみ出るほどの玉がある。
まあ、好きにすりゃいいさ. . . . . . 。
徳治はわずかに残っている玉を、木本の受け皿に移した。
(了)
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