埼玉古墳群のうち、整備された公園内で現在見ることができる古墳は、武蔵国最大の前方後円墳である二子山(墳丘長132m)を含め前方後円墳が8基と国内最大級の円墳である丸墓山(径105m)の合計9基です。
※二子山古墳
それらは大きい古墳ばかりですから、全国区に出しても恥ずかしくない国内有数の「大型古墳を多く有する古墳群」と言えます。
このような埼玉古墳群には古代史の楽しみが凝縮されているのですが、古墳群周辺の歴史を紐解くと、古墳時代の始まりとともに濃尾の勢力が入ってきて集落を形成します。
濃尾の人びとが大量にやってきて新たな土地を開拓するというのは、関東平野ではよくみられる現象ですが、ここでまず最初の謎が発生します。
彼らはサキタマの地に古墳(たいていの場合は前方後方墳)を築造しなかったのです。
詳細は不詳ですが、古墳群の西1㎞の地点にある高畑遺跡では、豪族居館跡らしきものも出ています。
なぜ、サキタマには古墳時代前期の古墳がないのでしょうか?
埋没しているのか破壊されてしまったのか・・・
こういう謎を残したまま、古墳時代中期を過ぎ、そして後期に入るか入らないかという5世紀末に、突如として(現状では「突如」に見える)墳丘長120mを誇る稲荷山古墳が築造され、そこから大型古墳の築造ラッシュが始まるのです。
※稲荷山古墳(写真には写っていませんがこの前方部の直線上には富士山があります)
いったい誰が稲荷山古墳を築造したのでしょうか。
それまで200年以上、地元に住み続けた人びとがついに意を決して大型古墳を造ったのでしょうか。
多くの考古学者は、前方後円墳は地元の人の意思や経済力だけでは造れないと考えています。
前方後円墳の築造にはヤマト王権の許可が必要だと考えているのです。
もしサキタマに元々いた人たち(濃尾の人たちの末裔)が築造したとしたら、それは彼らがヤマト王権に一定の評価をもらったか、あるいはこれから実施していく予定の王権の政策をサポートするために有力な勢力だと認定されたということになります。
ここで注意すべきは、埼玉古墳群の位置です。
埼玉古墳群は、荒川流域(現在の河道ではありません)勢力ですが、利根川(これも現在の河道ではありません)にも非常にアクセスしやすいのです。
私はある程度大きな勢力は、複数の河川を掌握していると考えますが、この利根川の上流域には広大な上毛野の平野が広がっています。
現在の群馬県域と栃木県の一部ですが、その地には伝統的に強力な勢力が跋扈し、日本書紀を読んでも古くからヤマト王権に協力的だった「ように」見えます。
この上毛野地域は5世紀前半は一時的に太田天神山古墳の被葬者に権力が集中されたように見えるのですが、5世紀後半以降は複数の大きな勢力が並び立ち、古墳時代後期に大型古墳を大量に造るという全国的に見ても非常に珍しい特徴を有するのです。
埼玉古墳群の勢力は、通常は荒川を交通路として使用し、荒川流域全体に影響力を行使した可能性がありますが、その一方で上毛野の諸勢力の中でもとくに大きな勢力が並び立っていた利根川流域を監視下に置いたと考えます。
※利根川と荒川の古墳時代の推定流路を書き込んだこの図は明後日のレジュメに掲載して参加者の方々に差し上げます
古墳時代は国内は比較的平和だったといわれているのでまず起こらないと思いますし、そもそも古墳は城塞ではないのですが、万が一上毛野の勢力が大挙して関東平野を攻略するために侵攻してきた場合、それを迎え撃つには埼玉古墳群の場所は非常に戦略的に有効な位置です。
つまり私は、埼玉古墳群の勢力は、強力な上毛野の諸勢力を抑えるためにヤマト王権が戦略的に配置した勢力ではないかと考えるのです。
ただし、允恭・雄略系の政権と懇意であった稲荷山古墳が築造された時点ではその意図はなく、その後、継体系の政権に切り替わった6世前半以降にそういったミッションを与えられたと考えます。
6世紀前半というと有名な「武蔵国造の乱」が日本書紀の安閑紀に記されています。
私は6世紀前半にはまだ東国には国造制は波及していないと考えていますが、そういう「国造」というラベルは置いておいて、そこに書かれている武蔵国内での主導権争いにヤマトと上毛野がお互いに敵対勢力として関わっているということが何らかの史実を伝えているのではないかと考えます。
一見仲が良さそうなヤマト王権と上毛野の諸勢力の関係は、上毛野内に諸勢力が並び立った6世紀には一部悪化していたと考えられ、サキタマの勢力の中でも親ヤマトの一派と親上毛野(ヤマトと仲のよくない上毛野勢力)の一派に分かれて争いが起きた史実が安閑紀に「武蔵国造の乱」として挿入されたのではないでしょうか。
サキタマ勢力内には上毛野からの調略の手も伸びていたと考えられ、そういうことを克服し、ようやくサキタマ勢力は親ヤマト勢力としてまとまったのでしょう。
なお、上毛野内にも親ヤマトの勢力はいて、例えば藤岡市の七輿山古墳を築造した勢力は親継体勢力と考えます。
継体はそういった上毛野内の親継体勢力を利用するとともに、俄然戦略的価値が高まったサキタマ勢力も上毛野内の反対勢力を潰すために起用したのではないでしょうか。
※将軍山古墳
ところが、中央で蘇我氏が権力を握り始めた6世紀の後半から7世紀にかけては、中央から見て埼玉勢力は利用価値がなくなったのか、あるいはあまりにも力を付けすぎてしまい警戒されるようになったのか、蘇我氏からはそれほど重用されていません。
サキタマ地方に仏教が入ってきた形跡がほとんど見当たらないことと(古代寺院跡が見つからない)、戸場口山古墳の築造はあったものの他の地域を圧倒する規模の方墳が築造されなかったことから私はそう考えます。
サキタマ勢力は、それを打開するために伝統的にヤマト王権と仲の良い上総の勢力と手を結びました。
房州石の埼玉古墳群への移入や、埼玉古墳群近傍の生出塚窯跡で製造した埴輪の上総への供給がそれを示しています。
しかし、凋落したサキタマの力が復活することはありませんでした。
7世紀後半の律令が整備されていく段階でサキタマ勢力は武蔵の国府を誘致をすることができず、多摩川流域勢力が武蔵国府の誘致に成功します。
なお、私たちが普段何気なく使っている「武蔵」という令制国についても述べたいことは沢山あるのですが、注意しなければならないのは、律令国家により造られた武蔵国は、明治の廃藩置県と同様に非常に政治的な人工物であり、そもそも荒川流域と多摩川流域を同じ文化として語ることが間違っており、それらは歴史的にも文化的に別個の勢力です。
ただし、既述したように私も便宜的に「二子山古墳は武蔵で一番大きな古墳」というようなことを言ったりはします。
※二子山古墳
それらは大きい古墳ばかりですから、全国区に出しても恥ずかしくない国内有数の「大型古墳を多く有する古墳群」と言えます。
このような埼玉古墳群には古代史の楽しみが凝縮されているのですが、古墳群周辺の歴史を紐解くと、古墳時代の始まりとともに濃尾の勢力が入ってきて集落を形成します。
濃尾の人びとが大量にやってきて新たな土地を開拓するというのは、関東平野ではよくみられる現象ですが、ここでまず最初の謎が発生します。
彼らはサキタマの地に古墳(たいていの場合は前方後方墳)を築造しなかったのです。
詳細は不詳ですが、古墳群の西1㎞の地点にある高畑遺跡では、豪族居館跡らしきものも出ています。
なぜ、サキタマには古墳時代前期の古墳がないのでしょうか?
埋没しているのか破壊されてしまったのか・・・
こういう謎を残したまま、古墳時代中期を過ぎ、そして後期に入るか入らないかという5世紀末に、突如として(現状では「突如」に見える)墳丘長120mを誇る稲荷山古墳が築造され、そこから大型古墳の築造ラッシュが始まるのです。
※稲荷山古墳(写真には写っていませんがこの前方部の直線上には富士山があります)
いったい誰が稲荷山古墳を築造したのでしょうか。
それまで200年以上、地元に住み続けた人びとがついに意を決して大型古墳を造ったのでしょうか。
多くの考古学者は、前方後円墳は地元の人の意思や経済力だけでは造れないと考えています。
前方後円墳の築造にはヤマト王権の許可が必要だと考えているのです。
もしサキタマに元々いた人たち(濃尾の人たちの末裔)が築造したとしたら、それは彼らがヤマト王権に一定の評価をもらったか、あるいはこれから実施していく予定の王権の政策をサポートするために有力な勢力だと認定されたということになります。
ここで注意すべきは、埼玉古墳群の位置です。
埼玉古墳群は、荒川流域(現在の河道ではありません)勢力ですが、利根川(これも現在の河道ではありません)にも非常にアクセスしやすいのです。
私はある程度大きな勢力は、複数の河川を掌握していると考えますが、この利根川の上流域には広大な上毛野の平野が広がっています。
現在の群馬県域と栃木県の一部ですが、その地には伝統的に強力な勢力が跋扈し、日本書紀を読んでも古くからヤマト王権に協力的だった「ように」見えます。
この上毛野地域は5世紀前半は一時的に太田天神山古墳の被葬者に権力が集中されたように見えるのですが、5世紀後半以降は複数の大きな勢力が並び立ち、古墳時代後期に大型古墳を大量に造るという全国的に見ても非常に珍しい特徴を有するのです。
埼玉古墳群の勢力は、通常は荒川を交通路として使用し、荒川流域全体に影響力を行使した可能性がありますが、その一方で上毛野の諸勢力の中でもとくに大きな勢力が並び立っていた利根川流域を監視下に置いたと考えます。
※利根川と荒川の古墳時代の推定流路を書き込んだこの図は明後日のレジュメに掲載して参加者の方々に差し上げます
古墳時代は国内は比較的平和だったといわれているのでまず起こらないと思いますし、そもそも古墳は城塞ではないのですが、万が一上毛野の勢力が大挙して関東平野を攻略するために侵攻してきた場合、それを迎え撃つには埼玉古墳群の場所は非常に戦略的に有効な位置です。
つまり私は、埼玉古墳群の勢力は、強力な上毛野の諸勢力を抑えるためにヤマト王権が戦略的に配置した勢力ではないかと考えるのです。
ただし、允恭・雄略系の政権と懇意であった稲荷山古墳が築造された時点ではその意図はなく、その後、継体系の政権に切り替わった6世前半以降にそういったミッションを与えられたと考えます。
6世紀前半というと有名な「武蔵国造の乱」が日本書紀の安閑紀に記されています。
私は6世紀前半にはまだ東国には国造制は波及していないと考えていますが、そういう「国造」というラベルは置いておいて、そこに書かれている武蔵国内での主導権争いにヤマトと上毛野がお互いに敵対勢力として関わっているということが何らかの史実を伝えているのではないかと考えます。
一見仲が良さそうなヤマト王権と上毛野の諸勢力の関係は、上毛野内に諸勢力が並び立った6世紀には一部悪化していたと考えられ、サキタマの勢力の中でも親ヤマトの一派と親上毛野(ヤマトと仲のよくない上毛野勢力)の一派に分かれて争いが起きた史実が安閑紀に「武蔵国造の乱」として挿入されたのではないでしょうか。
サキタマ勢力内には上毛野からの調略の手も伸びていたと考えられ、そういうことを克服し、ようやくサキタマ勢力は親ヤマト勢力としてまとまったのでしょう。
なお、上毛野内にも親ヤマトの勢力はいて、例えば藤岡市の七輿山古墳を築造した勢力は親継体勢力と考えます。
継体はそういった上毛野内の親継体勢力を利用するとともに、俄然戦略的価値が高まったサキタマ勢力も上毛野内の反対勢力を潰すために起用したのではないでしょうか。
※将軍山古墳
ところが、中央で蘇我氏が権力を握り始めた6世紀の後半から7世紀にかけては、中央から見て埼玉勢力は利用価値がなくなったのか、あるいはあまりにも力を付けすぎてしまい警戒されるようになったのか、蘇我氏からはそれほど重用されていません。
サキタマ地方に仏教が入ってきた形跡がほとんど見当たらないことと(古代寺院跡が見つからない)、戸場口山古墳の築造はあったものの他の地域を圧倒する規模の方墳が築造されなかったことから私はそう考えます。
サキタマ勢力は、それを打開するために伝統的にヤマト王権と仲の良い上総の勢力と手を結びました。
房州石の埼玉古墳群への移入や、埼玉古墳群近傍の生出塚窯跡で製造した埴輪の上総への供給がそれを示しています。
しかし、凋落したサキタマの力が復活することはありませんでした。
7世紀後半の律令が整備されていく段階でサキタマ勢力は武蔵の国府を誘致をすることができず、多摩川流域勢力が武蔵国府の誘致に成功します。
なお、私たちが普段何気なく使っている「武蔵」という令制国についても述べたいことは沢山あるのですが、注意しなければならないのは、律令国家により造られた武蔵国は、明治の廃藩置県と同様に非常に政治的な人工物であり、そもそも荒川流域と多摩川流域を同じ文化として語ることが間違っており、それらは歴史的にも文化的に別個の勢力です。
ただし、既述したように私も便宜的に「二子山古墳は武蔵で一番大きな古墳」というようなことを言ったりはします。