日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

真脇遺跡および真脇遺跡縄文館|石川県能登町 ~イルカ漁や環状木柱列で有名な北陸を代表する縄文集落跡~ 【北陸古代史探訪 2日目①】

2021-08-24 23:13:56 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月21日(水)



この日の探訪箇所
真脇遺跡 → 須曽蝦夷穴古墳 → のと里山里海ミュージアム → 能登国分寺展示館 → 能登国分寺跡 → 能登国総社 → 万行遺跡

 北陸古代史探訪の2日目は、「ホテル東横INN新高岡駅新幹線南口」からスタートです。

 今日は部屋じゃなくて下の食堂で食べようっと。

 お、凄い、新高岡駅新幹線南口の朝飯はスペシャルだ!



 私は東横インのヘビィーユーザーで、列島各地の東横インに泊まっていますが、ここは最高レヴェルですね。

 オムライス風なご飯に唐揚げ、マーボ豆腐などなど。

 みそ汁はシジミですよ。

 美味しかった。

 今日は一発目に真脇遺跡に行くので、ちょっと早く出ようと思っていたのですが、何気に出発の時間が遅くなって、結局ホテルを出たのは7時ちょっと前です。

 能登半島方面へ行くには、下道しかないのかなと思っていたのですが、結構先まで無料の高速道路である「のと里山海道」が通じていますね。

 ホテルを出て1時間半くらい走ったところで、ちょうどよくSAがありました。

 ちょっと休憩しよう。

 別所岳サービスエリア。



 なんか、展望台のようなものがありますよ。



 何とかと煙と同じく、高いところは大好きなので看過するわけには行かない。

 長い廊下や階段が続きます。

 山が綺麗だ。



 この先には何があるのかな?



 海だー!



 でも思い切り逆光だー!



 ※写真が見苦しくて済みません。



 この展望台は東を向いているらしく、今はまだ8時半ですから、写真撮影には適していないですね。



 ※肉眼だともう少し綺麗でしたよ。



 山側は綺麗に写せる。



 周辺図があります。





 正面のキラキラしている海は、七尾北湾ですね。



 能登島方面。



 ツインブリッジが見えます。



 今日の午後は能登島に行く予定ですが、あの橋を渡るのだろうか?

 ※結果的にはナヴィの指示によって能登島大橋を渡って行きました。

 いや、いいねえ。

 楽しい。

 でもあまり長居はできないので車に戻りましょう。

 長い廊下をもと来た道を歩きます。

 あれ、下にヤギさんがいるぞ。



 行ってみよう。

 どんぐりひろば出現!



 奥に行くとヤギが3頭います。

 でも、自己紹介は2頭ですよ。



 なるほど、きなこちゃんとおはぎちゃんは双子の女の子で、お母さんの名前は判読不能だ。



 おはぎちゃん、それは食べられないよ!



 頭が黒いから、きなこちゃんですか?



 ちょっかいを出しても、皆さん食事に夢中で全然相手をしてくれません。

 自称「高尾のムツゴロウ」としては忸怩たる思いを拭いきれません。

 というか、ここで時間を使うわけには行かないのでみなさんさようなら。

 再出発。

 やがて「のと里山海道」が終わり、山の中の道をしばらく走ると、真脇遺跡に到着しました。

 時刻は9時半。

 途中、SAで景色を見たりヤギさんに相手にされなかったりしましたが、新高岡駅前から2時間半以上掛かりました。

 そこそこ遠かったけど、ドライヴには最適な道ですよ。

 今日は一人なのでちょっとつまらないですが。

 高速道路がずっと無料区間だったのがありがたかった。

 さて、まずは真脇遺跡縄文館の見学から始めましょう。



 おっと残念!

 ここは写真撮影NGです。

 ただし、「研究のため」などで個人的に使用するのであれば、申請書を書いて出せば撮影OKです。

 もちろん申請しました。

 展示室はこんな感じ。



 ※私は写真をガンガン撮りましたが、約束は守らなければなりませんので、撮った写真は個人使用に限り、このブログでも公開しません。

 遺物を見学していると、私よりも先に入っていたおじさんが何か疑問があるらしく、受付の方を呼んできて質問を始めました。

 おじさんは好奇心が旺盛のようで、縄文館の方が持て余すほどの質問攻めが展開されているので、お節介だと思いましたがその会話に入り込みました。

 結局、3人であーだこーだと話が弾み、偶然にも他のお客様がいらっしゃらなかったので、遺物を見ながら断続的に3人で2時間近く喋っていました。

 こういう話って楽しいですね。

 私も蒙が啓かれる気分でとても勉強になりました。

 何しろ、北陸の縄文に関してはほとんど知識がない状態でこちらに来ていますから、昨日と今日で急速に北陸の縄文時代についてキャッチアップできましたよ。

 といっても、100段階レヴェルの1から5に上がったくらいだと思いますが。

 展示室自体はそれほど広くありませんが、展示内容はかなり濃いです。

 まず、真脇遺跡はイルカ漁で有名ですが、ここに来ると謎が深まりますよ。

 だって、イルカって肉が多すぎますから、1頭捕まえただけでも数組の家族じゃ食べきれないんですよね。

 余った肉はどうしているのか?

 ましてや、数頭を捕獲した場合は、明らかに肉の有効活用を考えないと、漁をしても無駄です。

 これは旧石器時代のゾウの捕獲にも言えることなので併せて考えてみるといいでしょう。

 それと、環状木柱列も有名ですが、それに関する展示も豊富ですし、土器類も素晴らしいものがたくさん並んでいるため、土器好きには堪りません。

 今上天皇陛下が皇太子時代にこちらにお見えになったときに非常に関心を示して実見された「お魚土器」を始め素晴らしい土器が集まっています。

 ⇒宮内庁のこのページに当時の皇太子殿下ご視察の時の写真が掲載されています

 その他、謎の遺物も盛りだくさん。

 もちろん土偶ちゃんもいます。

 縄文というと北東北や甲信越が有名ですが、北陸も負けないくらい面白いですよ。

 なお、廊下側にも展示ケースがあって、そこも面白いので忘れずに見学しましょう。

 ではつづいて、遺跡のほうに行ってみたいと思います。

 11時半を回っている・・・

 日本漁業発祥の地ですぞ!



 出ました!



 トーテムポールではありません。

 縄文館に展示してある国指定重要文化財「彫刻柱」のレプリカです。

 縄文時代前期のもので、大量のイルカの骨の下に埋まっていました。

 長さは2.52mでクリの木でできていますが、用途は不明です。

 私が知る限りでは、全国を見渡してもこのように彫刻を施された縄文時代の丸太は他に例が無いように思えますが、何かご存じの方がいらっしゃったら教えてください。

 遺跡公園を見渡します。



 縄文集落跡でよく見かける盛土遺構のようなものがあります。



 うーん・・・



 縄文遺跡と言えば定番なのが竪穴住居の復元ですが、この公園にはこの1棟しか建っていません。



 外には「縄文小屋」の表札も出ていますから、遺跡とは関係のないイヴェント用の建物かな?



 あ、なんかここからが正式な遺跡のような雰囲気がする。



 ところで、真脇遺跡の概要ですが、縄文時代前期中頃から晩期までの長期間にわたってほぼ途切れることなく人が住み続けた集落跡です。

 その中でも有名なのが遺跡の存続した全期間にわたってイルカの骨が見つかることで、イルカ漁が盛んだったことを示していますが、イルカ以外にも海獣の骨をはじめとして様々な魚介類の遺物が出土します。

 なお、弥生時代以降、イルカ漁をしていたのかは不明ですが、記録によれば江戸期から昭和30年代までは、真脇の村ではイルカ漁が盛んにおこなわれていました。

 現代の多くの人びとはイルカ漁に馴染みが無いと思いますが、縄文遺跡からイルカの骨が見つかることはたまにあるため、今後各地の遺跡に行った時にはその点を留意しようと思っています。

 それと、真脇遺跡では列島各地の土器が見つかることから、この地には各地から大勢の人々が集まってきていたことが分かり、もしかするとイルカ漁に関する一大交易センターとして当時は存在が知れ渡っていたのかもしれません。

 時代によっては今の公園のすぐ近くまで海が来ていたときもあったそうで、公園より高い場所には多くの住居跡が見つかっており、おそらくまだまだたくさんの住居跡が眠っているのではないでしょうか。

 公園で現在見ることができるのは、いたってシンプルで2つだけです。

 左手が環状木柱列で、右手が「板敷き土壙墓」。



 まずは板敷き土壙墓から行きましょう。



 3本の木柱が立っており、その下には土壙墓があります。

 説明板を読んでみましょう。



 縄文時代中期前葉から中期後葉に造られた4基の土壙墓で、3号墓からは屈葬の人骨が見つかっており、その人物は20~30代の男性で、この土壙墓が造られた時代は、この場所が集落の中心であることから、埋葬されたのはムラのリーダーであったと想定されています。

 3号墓は縄文館に展示があります。

 手前が2号墓で、2号墓の左手が3号墓、右手が1号墓、奥のが4号墓です。



 土壙墓というのは、単に穴を掘ってそこに遺体を埋葬するだけの墓ですが、この遺構はネーミングからわかる通り、1~3号の3基は底に木の板を敷いていたのです。

 それがどうしたんですか?

 と聴かれそうですが、縄文時代の土壙墓の底に板が敷いてあるというのは私は初めて聴きました。

 そして、木の板を造るということが実は大変なのです。

 想像してみてください。

 金属がなく石器しか道具がない時代に板を作るんですよ。

 2号墓の側面に立石のようなものがあるのが気になります。
 


 3本の木柱列は、いずれも数回立て替えた形跡がありますが、ここに立っているということは、説明板に書いてある通り、墓の位置を示すものであったと考えるのが自然かもしれません。

 木柱の耐用年数は分かりませんが、もし墓の位置を示すものだとすると、数回立て直したということは、数世代に渡ってこの場所を示す状態に置かれたということになります。

 ではつづいて、この遺跡の目玉でもある環状木柱列へ行ってみましょう。
 


 まずは説明板を読んでみてください。



 北陸を訪れたことがないと、この環状木柱列が異様に珍しく見えるのですが、石川県と富山県では他にも例があります。

 クリの木を縦に半分に切って、平らな方を外側に向けて立てますが、本数は8本か10本が多く、6本の例もあります。

 さらに入口らしきものを設けることもあります。

 真脇遺跡の場合は、6回の立て替えが確認されており、A環と呼ばれるものは、縄文時代晩期に造られています。







 南側に設けられた門扉状遺構を正面から見ます。



 中に入ると・・・

 何もない!



 この何もないのが特徴なのですが、何で何もないのかこれもまた謎なのです。

 半裁された丸太の様子。



 西側から見ると、門扉状遺構の入口らしき感じが分かると思います。



 縄文館を見ます。



 それでは遺跡をあとにしましょう。





 シンプルな遺跡公園でしたが、復元展示されているものが私のようによそから来た者にとっては珍しいものなので、強烈な個性を感じる面白い遺跡です。

 つづいて、能登島へ向かいますよ。

 (つづく)


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