歴史の足跡

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歴史が語る古代の世界① 『古事記』『日本書紀』と太安万侶・稗田阿礼

2014-08-22 11:18:27 | 例会・催事のお知らせ
『古事記』と『日本書紀』と太安万侶(おおのやすまろ)・稗田阿礼(ひえだのあれい)

わが国で最も古い書物と言えば『古事記と日本書紀』である。
『古事記』の編算は西暦六八一年頃、天皇家の歴史を伝えるために、天武天皇の願いで作られた。
その資料に神話・伝説や『帝紀』『旧辞』などを編纂し、舎人(とねり)・稗田阿礼(ひえだのあれ)に誦習させた。阿礼は聡明で多くの事柄を一度見るだけで覚えて暗誦することが出来たという。
その後、編纂の作業は西暦六八六年に天武天皇の崩御で中断、三〇年後に再開され、学者であった太安万侶(おおのやすまろ)が筆記し編纂されて、元明天皇に献上された。近年奈良市の郊外から遺骨と墓標誌銘が出土された。
『日本書紀』については、日本初の正史として西暦六八一年、天武天皇の命によって編纂が始まった。作成には川島皇子の他六名の皇族ら官人、学者が参画し、後に紀朝臣清人、三宅臣藤麻呂、太安万侶も加わったと思われている。その後、四十年の歳月を経て養老四年(720)に完成され舎人皇子が元正天皇に献上された。『日本書記』については誰がどのように作成したかは記述はなく、時の権力者藤原不比等が関与したのではと思われている。
二つの古書の違いについては過去から様々な論議や推測がされているが、その意味には多くの謎が残されていている。
『古事記』は天皇家の私史として、神話の天地開闢から推古天まで、出雲編と氏族の詳しく述べられ、和文体を併用した漢文体で、全三巻で構成されている。
『日本書記』は対外的に正史として、天地(てんち)開闢(かいびゃく)から持(じ)統(とう)天皇(てんのう)まで、漢文で全三十巻系図一巻で作成されている。日本正史として六国史『日本書記』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』が明記され、『古事記』『日本書記』は互いに比定しながら、欠落部分を補完しつつ日本の起源を探る基本古書となっている。
古事記研究には四大国学者の研究によって少しずつ今日のような形に解明されていった。

『古事記』の原本は現存せず、いくつかの写本が伝わる。『古事記』の存在を証明する物証もなく、従って古くより古事記偽書説がながれ、最古の写本が室町時代のものとされ、懐疑的な論議がなされたが、近年、昭和五十四年(1979)太安万侶の墓が発見され、昨今その墓が「太安万侶の墓」と確定された。その事によって『古事記』と「太安万侶」の編纂と実在性が明らかになって行くのである。
近年難波に宮跡発掘で7世紀中頃の、日本最古の万葉仮名文が書かれた木簡が発見され、万葉仮名は七世紀末とされているが、これらの発見で二、三十年遡ることになる。
万葉仮名は漢字一字を一音にあてて表記したもので、その後太安万侶の『古事記』編算で一句の中に音と訓を交えている、言ってみれば日本語、漢字の「併用表記」と言えるのではないかと思われる。
そう言った点、稗田阿礼の記憶している記憶されている『古事記』の事柄に太安万侶の苦心が窺われる。

『古事記』については偽書説(ぎしょせつ)が一部の学者から提起されたが、近年、『古事記』実在の裏付けと、その記述の真価が認められ、再認識されている。
『古事記』の写本は主として「伊勢本系統」と卜部本系統の別れ、最古の初本は真福寺古事記三帖(国宝)である。奥書の祖本は上下巻が大中臣定世本、中巻が藤原通雅本で、道果本で真福寺本に近いとされ、その他は卜部本(うらべほん)系統(けいとう)とされている。
これら室町時代、南北朝時代の写本となっている。

その後近世になって下記の国学者らによる『古事記』の研究が盛んになって行き、新たな『古事記』の再評価に繋がって行った。
荷田春満(1669~1736)京都は伏見稲荷社の神官の二男に生まれた。賀茂真淵(かもまぶち)(1697~1769)が荷田春満に入門し、田安家の和学の御用となった。
本居宣長(1730~1801)伊勢の商家に生まれ、医者を続けながら「記紀」を研究しながら「古事記」前44巻を著した。平田篤胤(1776~1843)出羽秋田藩士の子。脱藩し宣長に師事し、後に復古神道に貢献し神道の基礎を確立した。
上記の学者らによって、「記紀」で『日本書記』のテキスト、参考文献でなかった『古事記』を『日本書記』以上に重要性を世に知らしめた。
近年津田左右吉、折口信夫などの学者によって、新たな『古事記』に対する新説が生まれ、様々な評価もなされて行き、今から1300年前に記され、『記紀』に思いを巡らせ議論が重ねられ、古代の謎を解く鍵と深い推測が生まれつつある。

★太安万侶(おおのやすまろ)(?~73)日本最古の『古事記』の撰者。安麻呂とも書く、祖は神武天皇の第二皇子八井耳命と伝えられる。父は壬申の乱で大海人皇子側の功臣(おおの)多臣品(おみほ)治(むじ)と言われ国内外で活躍した氏族で、天武朝で朝臣、大宝二年(702)薩摩で多褹(たね)の反乱で功績をあげて元明天皇より稗田阿礼誦習(しょうしゅう)の「帝紀」『旧辞』の編纂(へんさん)を命じられた。
翌年には『古事記』3巻を撰上。1979年(昭和54年)奈良市此瀬町の茶畑から、太安万侶の遺骨と墓誌その他が発見された。重文(じゅうぶん)、墓(ぼ)文(ぶん)には「左京四条四坊(さきょうしじょうよんぼう)従(じゅう)四位下勲五等太朝臣安万侶以(しいのげくんごとうお)癸(みずのと)亥(がい)」太安万侶伝造営の墓の日、「左京四条四坊」は安万呂の本籍で奈良市三条添川町。三条大宮付近に当る。
され『古事記』となった。

★荷田春満(かだのあずままろ)(1669~1736)江戸(えど)中期(ちゅうき)の国学者(こくがくしゃ)。羽倉(はくら)氏(し)。通称(つうしょう)斎宮(さいぐう)斎(さい)。京都(きょうと)伏見(ふしみ)稲荷社(いなりしゃ)の神官(しんかん)羽倉(はくら)信(しん)詮(せん)に次男(じなん)として生まれ、家学の神道、歌学を修めた。古義学を提唱し、伊藤仁斎や山崎暗斎の門下の大山爲起(おおやまためき)の影響を受けて、霊元天皇皇子妙法院宮に仕え、和歌を進講。
その後江戸に出て神道、故実、儀礼を講義、13年後帰京し。多くの門人を得た。また赤穂浪士の討ち入りに助力し
★稗田阿礼(ひえだのあれ)夷(い)(生没年不詳)天武天皇の舎人推定681年二十八歳の時、天皇はこれを認めた『帝(てい)紀(き)』(」)『(「)旧辞(きゅうじ)』(」)の誦読(じゅどく)を命じられた。稗田氏は天宇受売(あまのうずめの)命(みこと)の子孫とする。
猿女の一族である。大和国稗田(現在の奈良県大和郡山稗田の在)漢字の訓読ができて、阿礼誦習(あれいじゅしゅう)の『帝(てい)紀(き)』『旧辞(きゅうじ)』の編纂をしたという。
★本居宣(もといのり)長(なが)(1730^1801)伊勢松坂の木綿商小津定利の後妻の長子として生まれ、幼名富之助、通称弥四郎、小津一族は代々松坂の有数の商家であり、宣長も裕福な教育を受けて、両親の熱心な浄土宗信仰を受けて仏教的教義を培った。
11歳の時に父が亡くなって家は没落し、家督は兄が継いだ、19歳の時に他の商家に養子に行き二年後に離縁をして実家に戻った。この頃から和歌に没頭し、この頃に伝統文化に帰属すべき所を見いだし予感した。やがて兄が亡くなって家督を相続し医者に志23歳の折、上京し医学を学び、同時に小津氏の先祖が武士だった本居氏に改名しやがて契沖(けいちゅう)の著作に接し、日本古典を読んで開眼、景山や荻生徂徠(おぎゅうそらい)の著作から示唆されて和歌を詠み複雑な人間同士の表現方法として『護(ご)園談余(えんだんよ)』を読み、中国も日本も淳朴な「神の代」から始まったと言う見解に出会って、日本文化の原点の「神の代」の求める思想の可能性に予感した。
★平田(ひらた)篤(あつ)胤(たね)(1776~1843)江戸(えど)時代(じだい)の国学者(こくがくしゃ)、大角(おおかく)または大壑(おおかく)とも称し、秋田(あきた)藩士(はんし)大和田(おおわだ)祚(とし)胤(たね)として四男(よんなん)として出羽国久保田に生まれる。
二十歳で江戸に出従するがその後の静動は不明。1800年には備中松山藩に平田(ひらた)藤平篤穏(とうべいあつやす)の養子になる。その後は半兵衛篤胤名乗った。篤胤は幽契により本居宣長の生前に門人になったと言っているが、実際は死後に宣長を知っている。講本の形で『古道大意』『俗神道大意』を著し、本居宣長の影響は大きい。


※『古事記』の編纂、作成についてはそれまで『旧辞(きゅうじ)』(」)『(「)帝(てい)紀(き)』を文書化された当時の非常なる決意と熱意を持ってなされたことが窺える。
『古事記』は奈良、平安時代には『日本書紀』の古事記を補足資料程度に扱われた時期があったが、江戸時代には再評価され、今日では『日本書紀』以上に重きに置かれて再評価され特に神話の部分が日本の起源を解く鍵をもっと多く含まれているのではないかと思われている。
また『古事記』の真偽性について検証は近年の発掘で太安万侶の墓碑、墓文によって存在を確認しつつある。