七、聖徳太子像の謎
聖徳太子(574~622)用明天皇を父として、穴太部間人皇女を母として誕生した。厩戸皇子と呼ばれ優れた功績と仁徳によって聖徳太子と称され多くの名前で呼ばれて、古くより日本人の畏敬の理想人格像として賞賛されている。
太子の偉大とされる功績の事例として、仏教導入に積極的に活動され深く帰依された。人格を形成された「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」講義するほどの見識と徳性は、仏教は高句麗の渡来僧慧慈(とらいそうえじ)と百済僧(そう)慧(え)聡(そう)によって、儒教は百済の渡来人の覚によって習得されたものと思われる。
国政においても剛腕な馬子が一目を置くほどの聡明さと手腕によって、推古女帝に代わって摂政をされて辣腕を振るわれて、太子(次期天皇として)して地位が約束されていた。
国家祈願の仏教として、西暦593年に四天王寺を建立、続いて14年後に法隆寺を建立された。
外交面で隋に新羅・百済が朝貢国であることを知らしめるために、対等外交を展開されて隋に「遣(けん)隋使(ずいし)」を派遣「日出ずる処の天子、書を日没する天子に致す」の国書を奉呈した強気の外交政策が窺えるものであった。
太子は新羅・百済積極外交を展開、新羅と任那(みまな)(大和朝廷側)の衝突に、援軍を派遣遠征は成功したという。また遠征軍の太子の実弟の来目皇子が将軍となって行ったが途中で客死した。後任に異母弟の当麻皇子を派遣、この皇子も同行の妻が播磨で客死し結果新羅への遠征は中止された。
しかし太子の身内を戦場に送り出す、その身を削る痛みの共有が朝野の信頼を得たのかも知れない。遠征の失敗後は内政に注がれ官吏の序列を定めた「冠位十二階」定め、有名な「憲法十七条」を制定し国体を組織化された。
◆遣唐使*推古朝から朝廷より派遣された使節『隋書(ずいしょ)』倭国伝に当時の倭王「多利思比孤(たりしひこ)」
とみえ聖徳太子に否定できる。遣隋使の航路も対馬・壱岐・筑紫が見える北航路である。『日本書紀』には四回の派遣が見え、『隋書』倭国伝に三回、同煬(よう)帝(だい)紀に(608)日本から二回の朝貢が見える。派遣回数・派遣主体に諸説があるが、隋と倭国に外交関係があったことは明白である。
この外交は朝鮮三国と外交の駆け引きの為の目的に意識され、思惑があったのだろう。この『遣隋使』の交流の成果は『簡易十二階』『十七条憲法』への中国の参考資料の導入や学生の渡来によって摂取されたものと考えられる。
◆『三経義疏』聖徳太子が作成をしたと言う『法華経』『勝(しょう)鬘(まん)経(きょう)』『維摩経』の注釈書、(法華経義疏・勝鬘義疏・維摩義疏)の総称。『日本書紀』は注釈書について触れていないが、聖徳太子の作成とされている。仏教に対する見識があって注釈書は解読に欠かせない手引きともいえる。一部学者は聖徳太子の作成を疑問視する説もある。
◆『簡易十二階』『十七条憲法』隋との外交で得て摂取された文化の数々の中で国家体制の根幹を成そうとする法規制と階級の導入は倭国に取り一流国家への布石であった。
冠位十二階制度は儒教に基づく徳目で徳・仁・礼・信・義・智の六階級に大小の組み合わせによる十二階の制定である。冠の色については、紫・青・赤・黄・白・黒の順で大小の濃淡で表現したものである。『十七条憲法』は『日本書紀』の日本最古の成文法とされ倫理の面の強調になっている。
①仏教の崇拝②詔の重視③臣君の道、礼の強調④歓善微悪⑥からは官吏として民に対する事柄を明記されている。これらは大化の改新に少なからず影響を与えていると思われる。
※こう言った輝かしい聖徳太子の遺徳に懐疑的な説、「聖徳太子は実在を否定」と言った学者の学説に、聖徳太子の称号と功績の事例は後に作り上げられたものと、その功績に疑問を掲げる説まで多様に否定する論説まで様々、国民の心情は聖徳太子の遺徳を冒涜するものとして怒りを覚える人も多い。
聖徳太子として上宮家の数々の記述に、四天王寺・法隆寺の建立に、新羅・百済の朝貢の史実に、任那救援などの記録に「冠位十二階」「憲法十七条」の制定は太子の聡明な見識であり、「遣隋使」中国の『隋書』に記述が残され、前例のない輝かしい外交であった。
新羅遠征も身内を失った事柄が架空のものとしてとらえ難く、聖徳太子を否定する奇抜な仮説で注目を引くための説ならば日本人の心情を傷つける許し難いものがある。
厩戸の皇子の死後早くから宗教的信仰の対象とされ、法隆寺の調査で造られた仏像は聖徳太子の思慕の為の仏像の文字が発見され、作られた聖徳太子像と実際にあった厩戸皇子の実像の虚像とまで言えないのではないだろう。
『聖徳太子未来記』聖徳太子に仮託された預言書。文書と碑文の二つの形態がある。『聖徳太子伝暦』四天王寺から発見された『四天王寺御手印縁起』など断片的に見られ、河内は磯長陵から瑪瑙(めのう)石(せき)から『御記文』が発掘されなどあった。数々の聖徳太子伝説が死後発生し形成された面も否めない。
また聖徳太子の死後の上宮家の悲劇が道場を呼び、その後聖徳太子像に美化されていったことも一因と言えよう。
それらは一史実を拡大解釈によって増幅された面も考えられる。
聖徳太子(574~622)用明天皇を父として、穴太部間人皇女を母として誕生した。厩戸皇子と呼ばれ優れた功績と仁徳によって聖徳太子と称され多くの名前で呼ばれて、古くより日本人の畏敬の理想人格像として賞賛されている。
太子の偉大とされる功績の事例として、仏教導入に積極的に活動され深く帰依された。人格を形成された「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」講義するほどの見識と徳性は、仏教は高句麗の渡来僧慧慈(とらいそうえじ)と百済僧(そう)慧(え)聡(そう)によって、儒教は百済の渡来人の覚によって習得されたものと思われる。
国政においても剛腕な馬子が一目を置くほどの聡明さと手腕によって、推古女帝に代わって摂政をされて辣腕を振るわれて、太子(次期天皇として)して地位が約束されていた。
国家祈願の仏教として、西暦593年に四天王寺を建立、続いて14年後に法隆寺を建立された。
外交面で隋に新羅・百済が朝貢国であることを知らしめるために、対等外交を展開されて隋に「遣(けん)隋使(ずいし)」を派遣「日出ずる処の天子、書を日没する天子に致す」の国書を奉呈した強気の外交政策が窺えるものであった。
太子は新羅・百済積極外交を展開、新羅と任那(みまな)(大和朝廷側)の衝突に、援軍を派遣遠征は成功したという。また遠征軍の太子の実弟の来目皇子が将軍となって行ったが途中で客死した。後任に異母弟の当麻皇子を派遣、この皇子も同行の妻が播磨で客死し結果新羅への遠征は中止された。
しかし太子の身内を戦場に送り出す、その身を削る痛みの共有が朝野の信頼を得たのかも知れない。遠征の失敗後は内政に注がれ官吏の序列を定めた「冠位十二階」定め、有名な「憲法十七条」を制定し国体を組織化された。
◆遣唐使*推古朝から朝廷より派遣された使節『隋書(ずいしょ)』倭国伝に当時の倭王「多利思比孤(たりしひこ)」
とみえ聖徳太子に否定できる。遣隋使の航路も対馬・壱岐・筑紫が見える北航路である。『日本書紀』には四回の派遣が見え、『隋書』倭国伝に三回、同煬(よう)帝(だい)紀に(608)日本から二回の朝貢が見える。派遣回数・派遣主体に諸説があるが、隋と倭国に外交関係があったことは明白である。
この外交は朝鮮三国と外交の駆け引きの為の目的に意識され、思惑があったのだろう。この『遣隋使』の交流の成果は『簡易十二階』『十七条憲法』への中国の参考資料の導入や学生の渡来によって摂取されたものと考えられる。
◆『三経義疏』聖徳太子が作成をしたと言う『法華経』『勝(しょう)鬘(まん)経(きょう)』『維摩経』の注釈書、(法華経義疏・勝鬘義疏・維摩義疏)の総称。『日本書紀』は注釈書について触れていないが、聖徳太子の作成とされている。仏教に対する見識があって注釈書は解読に欠かせない手引きともいえる。一部学者は聖徳太子の作成を疑問視する説もある。
◆『簡易十二階』『十七条憲法』隋との外交で得て摂取された文化の数々の中で国家体制の根幹を成そうとする法規制と階級の導入は倭国に取り一流国家への布石であった。
冠位十二階制度は儒教に基づく徳目で徳・仁・礼・信・義・智の六階級に大小の組み合わせによる十二階の制定である。冠の色については、紫・青・赤・黄・白・黒の順で大小の濃淡で表現したものである。『十七条憲法』は『日本書紀』の日本最古の成文法とされ倫理の面の強調になっている。
①仏教の崇拝②詔の重視③臣君の道、礼の強調④歓善微悪⑥からは官吏として民に対する事柄を明記されている。これらは大化の改新に少なからず影響を与えていると思われる。
※こう言った輝かしい聖徳太子の遺徳に懐疑的な説、「聖徳太子は実在を否定」と言った学者の学説に、聖徳太子の称号と功績の事例は後に作り上げられたものと、その功績に疑問を掲げる説まで多様に否定する論説まで様々、国民の心情は聖徳太子の遺徳を冒涜するものとして怒りを覚える人も多い。
聖徳太子として上宮家の数々の記述に、四天王寺・法隆寺の建立に、新羅・百済の朝貢の史実に、任那救援などの記録に「冠位十二階」「憲法十七条」の制定は太子の聡明な見識であり、「遣隋使」中国の『隋書』に記述が残され、前例のない輝かしい外交であった。
新羅遠征も身内を失った事柄が架空のものとしてとらえ難く、聖徳太子を否定する奇抜な仮説で注目を引くための説ならば日本人の心情を傷つける許し難いものがある。
厩戸の皇子の死後早くから宗教的信仰の対象とされ、法隆寺の調査で造られた仏像は聖徳太子の思慕の為の仏像の文字が発見され、作られた聖徳太子像と実際にあった厩戸皇子の実像の虚像とまで言えないのではないだろう。
『聖徳太子未来記』聖徳太子に仮託された預言書。文書と碑文の二つの形態がある。『聖徳太子伝暦』四天王寺から発見された『四天王寺御手印縁起』など断片的に見られ、河内は磯長陵から瑪瑙(めのう)石(せき)から『御記文』が発掘されなどあった。数々の聖徳太子伝説が死後発生し形成された面も否めない。
また聖徳太子の死後の上宮家の悲劇が道場を呼び、その後聖徳太子像に美化されていったことも一因と言えよう。
それらは一史実を拡大解釈によって増幅された面も考えられる。