
今日は川崎市多摩区の南菅中学校で起きたいじめ自殺事件を多くの川崎市の教師は忘れてはいけない。未だ校内暴力の全国での発生率の中でも川崎市は高い。自殺した篠原真矢君は、いじめられた友人を助ける為に立ち上がり、逆にいじめをしていた加害者からいじめを受け、彼はいじめられた友人を守れなかったと遺書を残し、自宅トイレで硫化水素を発生させ自殺した。まだ彼は14歳だ。彼のような純粋な生徒を死に追いやった南菅中学校の教職員全員の責任だ。

あの学校には以前大きないじめの問題を抱えていたにも関わらず、学校側はその教訓を生かす事が出来なかった。

これはまさしくいじめに対しての認識不足と生徒指導が全然なっていなかった。この学校の教職員に責任がある。真矢君はこの無責任な学校の教職員に殺されたのだ。真矢君が亡くなってからあと4カ月で2年。彼を亡くした家族の事を考えるとやり切れない気持ちだ。

それにしても川崎市の小中高の校内暴力は全国の政令指定都市の中でもいつも上位という事は、川崎市の教職員にはいじめに対しての認識がない。少しは真矢君の死を考えてもらいたい。私もこれからも彼の死について、どんどん追及して行く予定だ。まだまだこの問題に関しては我々は納得出来ない。もう一度彼の遺書を書き込みますが、彼が死を選んだ気持ちを考えてもらいたい。
篠原真矢君の遺書
お父さん、お母さん、お兄さん、婆さん、先立つことをどうかお許しください。
俺は「困っている人を助ける・人の役に立ち優しくする」それだけを目標に生きてきました。
でも、現実は人に迷惑ばかりかけて、Fのことも護れなかった…
それに俺には思い出が多すぎました。
こんな俺が、人並みに生きて、友達を作って、人生を過ごしていく…そんな事があっていいはずないんです。
俺がいて不幸になる人は大勢いる。それと同時に俺が死んで喜ぶ人も大勢いるはずです。
でも俺は F をいじめた、 B、 C、 D、 E を決して許すつもりはありません。
奴等は、例え死人となっても必ず復讐します。
でも、この十四年間楽しいこともたくさんありました。
春は桜が出会いを運び
夏は花火が夜空に消えて
秋は紅葉が空を染め上げ
冬は白雪が乾いた心を潤す
季節が過ぎていく中で色々ありました。それが全ての想い出となって心に残っています。
家族のみんなにはお願いがあります。
1つは、自分達をどうか責めないでください。
俺が死ぬのは家族のせいじゃありません。俺自身と、 F をいじめた連中が悪いんです。
大丈夫。
ある日は日の光となり、ある時は雨となって、あなた達の心の中で生きています。
だから哀しまずに、俺の死を糧として、全力で生きていって下さい。
2つは、俺の臓器が無事だったら、それを売ってお金にしたり、お婆ちゃんや爺ちゃんの治療に使って下さい。
それが俺に出来る唯一の罪滅ぼしだから…
それと、爺ちゃんには優しくしてあげて下さい。過去には色々あったと思いますが、それでも大事な家族です。
大切にしてあげて下さい。
そして赤、青のバッティンググローブは形見として下さい。
今まで本当にありがとう
そしてさようなら
君がため 尽くす心は 水の泡
消えにし後は 澄み渡る空
以上、ここまでが遺書の一部それと十数人の友人の1人ひとりに最後のメッセージを送っている。
山形マット死事件
1993年1月13日、山形県新庄市立明倫中学校の体育館用具室で、同校1年生・児玉有平くん(13歳)がマットの中に逆さに突っ込まれる形で死亡しているのが発見された。
児玉有平君は幼稚園を経営する児玉家の次男として生まれた。児玉一家は1976年頃に新庄市に引っ越してきたが、「裕福」であり、「標準語」を話す「地元出身」ではない家庭だったため「新参者」と言われていた。地元の人々にとって、児玉一家に対して妬みがなかったと言えば嘘になる。
有平君は小学校の高学年頃からいじめにあっていた。漫画家かアニメ製作の仕事を志すようになっていた。
「現代人が忘れた『心』を伝えたい」 家族にはよくそう語っていたという。
1992年夏頃、部活動でいじめられた経験のある兄(中3)が、「部活でいじめられていないか」と有平くんに尋ねると、有平くんは「いじめられてもギャグを言って切り抜けているから大丈夫」と答えていた。
1992年9月 集団宿泊研修から、有平くんが顔を腫らして帰宅したため、家族が学校に「いじめられているのでは」と相談。学校側は有平くんから事情を聴くが、いじめられたことを認めなかったため放置。

画像は、漫画家の神様と呼ばれてる手塚治虫先生
夢を作る仕事(山形マット事件)六年 児玉有平くんの作文
僕は将来漫画家あるいはアニメスタッフになるのが、夢です。
他にもたくさんやりたいことがあるんだけどやっぱりこの二つが今一番です。
二つとも空想からキャラクターが、生まれ、時代が生まれ、世界が生まれます。すべてが、人の頭心から生まれます。
ぼくはそうやって人に話を聞かせたり、見せたりするのが、大好きです。
自分の作った作品を見て泣いたり笑ったりして、感動した人の心が晴れ晴れしたら僕は、何よりもうれしいし、作品が成功したら心から喜べるでしょう。
そしてもし出来るなら、映画を作り、自分が監督し、脚本を作り主演者を、チャップリンや、ヒッチコックみたいのをやってみたいです。
しかし僕の夢は、思ったより簡単にはかなえられません。
漫画家やアニメ業界などでは、貧乏で、プロちゅうのプロにならないと
食べていくのが、難しいそうです。
でも、くじけずにやっていこうと思います。
漫画家になりたいという人は、全国にたくさんいますが、漫画家は、宝くじよりあたらないといわれています。
自分でも、なんで僕の将来の仕事は、こう貧乏で苦労続きで、世間から
あまり認められないのだろうかと、思います
昔、漫画家なんていうのは、全く認められない仕事でした、
そこで、現れたのが、現在漫画家の神様と呼ばれてる手塚治虫先生です。
彼は、ライバルのいない天才だ。

数々の、作品には社会的なこともあり、もちろん夢を語ったものもありました。
彼は、漫画家を、世間に広く広めました。
そして、いまも数限りない多くのファンがいます。
そして、その手塚先生の後でも、どんどん漫画家が出てきています。
限りない夢を求めて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アニメを完成させるには、一作品に40人は必要です。
そのうちの20人は、アニメーターです。
アニメは、セル画、一枚約、一秒というから、例えば30分の番組だとするとものすごい、セル画の量だということが、わかります。
特に、アクションが、見せもののアニメなんかは、ふっとばされたり飛び上がるシーンなど、はっきり見るには、とてもスローモーションではわかりません。
アニメの素晴らしいところは、おもしろく、かっこよく、いろんなひとを自由自在にあやつることです。
ぼくが、アニメーターになりたいというのは、映画と同じように見た人が、感動して喜べるからです。
日本は、世界一の、経済大国です。
でも何か、貧しくさびしいです。心が・・・・・・・・・・・・・・・・・
かたっぽ一万円する靴を履き、たっぷりの肉を食べる現代っ子は、目先の欲にとらわれ、何か大切な、お金では買えないものを、忘れていないでしょうか。
その忘れものは、夢です。
その忘れかけた、大事な忘れ物を、届けるために、僕は漫画やアニメの仕事をしようと思います。

新潟で開催されたシンポジウムに参加
1995年11月27日 上越市・中1、伊藤準君(13)がいじめを苦に自殺。
午前3時30分ごろ、新潟県上越市の自宅の庭で市立春日中学校1年の伊藤準君(13歳)がロープで首を吊って死んでいるのを新聞配達員が発見した。
準君の死後、自殺に至るまでのいじめの苦痛を学校の「連絡ノート」につけていたことが判明。それには11月に入ってから「自殺しようと思った」、「あいつらうらんでやる」、「この世にみれんがある」などと書かれていた。(連絡ノートは11月22日以降、担任に提出していなかった)
さらに10月下旬には、ある女子生徒から「準君ともう1人がいじめられているようだ」との訴えが学校に出されていた。それでも学校側はいじめの把握と対策の努力を行わなかった。
上越市教育長と中学校長に、現地に行き公開質問状を提出


伊藤準くんの遺書(原本コピー)
愛媛いじめ自殺事件:遺書の内容明らかに
愛媛県今治市の島嶼部の中学校に通っていた1年生の男子生徒がいじめ を苦に自殺した事件(8月17日発生)に関して、男子生徒が残した遺書の内 容が明らかになりました
最近生きていくことが嫌になってきました。クラスでは「貧乏」や「泥 棒」と言う声がたえず響いていて、その時は悲しい気持ちになります。 それがもう3年間も続いていて、もうあきれています。それに、毎日おもしろおかしくそいつらは笑っているのです。そう言うことでこの度死ぬことを決意しました。
私が、死んだ後の物は(弟2人の名前)で分けて下さい。机にある小 判は私だと思って持っていて下さい。
(弟2人の名前)は僕の分まで長生きして、いい職について下さい。
いつも空から家族を身(原文のまま)守っています。
さようなら
いままで育ててくれてありがとう
母さん父さん
By.(男子生徒の名前)
【岐阜・中2自殺】 「特に××さん…これでお荷物が減るからね」

遺書にバスケ部4人の実 名…「いじめ」の可能性?
メモの全文(××はチームメート4人の実名)
皆さんへ 今、誰かが私の手紙を見ている時、きっと私は死んでいるでしょう。 この忙しい時に御迷惑をおかけします。
今まで、私を愛し、育ててくれた家族、ありがとう。
今まで仲良くしてくれた友達、ありがとう。じいやん、がんばって早く良くなってね。
部活のみなさん、特に××さん、××さん、××さん、××さん、本当に迷惑ばかりかけてしまったね、これでお荷物が減るからね。 もう何もかもがんばる事に疲れました。
それでは、さようなら。"
【松木友音(ともね)さんの残した遺書11通】

2005年9月9日北海道滝川市立江部乙(えべおつ)小学校の教室で当?6年生の松木友音(ともね)さんが11通の遺書を残し、教室で首をつり、翌年の1月そのあまりにも短く尊い一生を終えた。
学校のみんなへ
"この手紙を読んでいるということは私が死んだと言うことでしょう"
"私は、この学校や生とのことがとてもいやになりました。それは、3生のころからです。なぜか私の周りにだけ人がいないんです。5年生になって人から"キモイ"年と言われてとてもつらくなりました"。
"6年生になって私がチクリだったのか差べつされるようになりました。それがだんだんエスカレートしました。一時はおさまったのですが、周りの人が私をさけているような冷たいような気がしました。何度か自殺も考えました。"
"でもこわくてできませんでした。
でも今私はけっしんしました。(后略)"
6生のみんなへ年
"みんなは私のことがきらいでしたか?きもちわるかったですか?私は、みんなに冷たくされているような気がしました。それは、とても悲しくて苦しくて、たえられませんでした。なので私は自殺を考えました。(后略)
※一部抜粋、仮名遣いなどは原文のまま"

2005年12月6日未明、高山裕太君(16才)が命を絶ちました。
この少年は、長野県立丸子実業高校1年生で、バレーボール部に所属していました。 バレーボール部内のいじめや暴力によって、8月末から不登校になっていました
この事件は、テレビのワイドショーが取り上げましたが、長野地方の新聞以外はほとんど報道していません。テレビと新聞の報道 から、自殺までの経緯を見てみます。 少年は声帯を痛め、声が出にくい状態であったこと。これを上級生などが真似て、からかうことがあった。2年生部員が1年生部員をハンガーなどでたたくことがあった

福岡県城島中学3年、大沢 秀猛君(1996年1月23日自殺)遺書全文 1996年1 月24日、両親が公表。
(文中の実名は仮名にしました)
お父さん、お母さんごめんなさい。
僕がこの町にきて中1の初めの日にA君に後ろからつつかれたり蹴られたりされて、ついおこって「いいかげんにしろ」と言ったそしたら泣かされた。その日からずっと1年間泣かされつづけた。何回か先生に言ったらA君もおこったが、僕が口が悪いと言われた。そして、2年 になって口の悪いやつがいてそいつがいってもないことをいつもB君言いつけなぐられつづ けた。
3年になり1学期は、なにもおこらなかったのでことしは、なにもないだろうと思っていたら2 学期の初めの日にC君につよい人がおまえに「スーパーファミコンをもってこい」と言ってき た。初めは、にげまわっていたがスーパーファミコンぐらいいいと思いわたした。そしてこんど は、お金をようきゅうされ初めは、わたさなかったが、「うでをおるぞ」と言われてわたしてしま った。そしてずっとお金をとられつづけている。いま30万円ぐらいとられている。またお金を ようきゅうされた。しかしそのお金がないので死にます。

朝まで生テレビテレビ朝日朝まで熱い討論トーク番組
国旗は日の丸、国歌は君が代