青少年育成連合会 | 日本の未来を【夢と希望に満ちた国】にする為に日本人の心に訴えたい
子どもは日本国の宝|私たちは【子どもをいじめと虐待、性犯罪から守る】為にあらゆる方法を講じ解決にあたります



千葉県東金市で起きた成田幸満ちゃん5歳の死体遺棄事件の勝木諒容疑者21歳が逮捕された。奴の部屋には、女児のアニメのポスターとか、本棚には少女漫画が部屋一面に貼ってあったとか事件後に若い女性を着け回すとか、おそらく異常性ではないだろうか、とにかく最近の事件は、異常すぎる。

 第三部  実録青少年育成連合会関西支部長山本親子のいじめ撃退   

S先生とであったのは小学校3年生の時。見た目はごく普通の、それでもよく言えば、優しそうで面白そうな先 生だった。今はもう、少しずつの記憶でしか覚えていないが、とにかく冗談の大好きな先生で、例えば、ゲーム の”罰ゲーム”などと言って「椅子の上→机の上で片足あげて→机の上で回って」と生徒にやらせてその姿を楽 しんでみたり、給食で残ったご飯つぶを自分の手で真っ黒になるまで丸めて嫌がる女の子をからかってみたり、 クラスで比較的おとなしい子を話のタネにして男子生徒と一緒になって、「気持ち悪い」とか「エロ本を隠して るんだろ」などと言い、笑いものにしていた。そんな担任だった。先生の言っていることは正しいんだと思って いた時もあった。三年生と四年生、S先生とは二年間の付き合いだった。四年生の秋頃、東京からWさんが転校 してきた。それまでは私は、Mちゃんととても仲が良く学校ではもちろん帰ってからもよく公園や私の家で遊ん でいた。そんな楽しかった毎日のはずなのに、ある日突然、WさんがMちゃんを奪っていくようになった。「恵 美ちゃんは嫌だ。Mちゃんと二人がいい・・・」無視されたり嫌がらせされたり、何故こんな目にあわなくて はならないのか、涙でいっぱいだった。母はS先生にWさんへの指導を要望してくれた。しかし、要望を聞いて くれるなんて、とんでもない。母が何度も学校に電話を入れ、娘の苦しみを伝えても、数ページに及ぶ連絡帳に 苦しみを綴っても、何も変わらなかった。変わらなかったどころか、S先生自らがWさんや他の生徒にまで「山 本さんとは遊ばないほうがいい」と言っていたのだ。たちまち、私の周りから友達が消えていった。ある日、生 徒達の要望で、席替えをする日があった。”好きな女の子同士”私が最も恐れていたものである。好きな子って 誰だろう?周りの楽しそうな声ばかりが聞こえ、私の胸は苦しさでいっぱいだった。「じゃあ好きな子同士○人 で集まったら座りなさい」先生が言う。皆は楽しそうに○人グループを作ろうとしている。男子は決まる。私は 入るところがない。入れてくれるところがない。皆、私の方を見ていた。手で口を覆い、目だけは力強く私を見 ていた。どうしていいかわからなかった。辛すぎて、涙さえ出てこなくて「一人」を思いきり感じた。ここから 逃げ出して、今すぐお母さんに会いたかった。すごく辛かった。結局、席替えは出来なかった。その日、学級新 聞が配られた。係りが手作りで作るもので、なぞなぞやくらすでのなんでもナンバー1などが書かれているもの であった。その中に、S先生の字でこう書かれていた『「席替えしたい」と言うだけ!席を決められない4年2 組。はてしなくまぬけでみじめな子はだあれ?』はてしなく、まぬけで、みじめな子・・・第4部に続く




我々は、笠先生とは長い付き合いをしています。特に先生は、テレビ朝日の政治記者を長年やってきた経験を評価 ,特に教育問題に熱心であること、誰とでも、気楽に話す気さくな人、それに幅広い視野で政治や社会問題について、地域の人達と、直接教育タウンミーティングを通じて対話をしている。それに非常に解りやすい。我々も、時々勉強をさせて頂いてます。さすが、日本一の松沢神奈川県知事の推薦には間違いが無い日本には絶対必要な本物の政治家だ。ここで、笠先生の政治家としての信念を聞いてください。

衆議院議員の笠ひろふみです。国会議員になって2年9ヶ月。一貫して人づくり・教育改革が重要であることを訴えてきました。現在、衆議院の文部科学委員会・教育基本法に関する特別委員会に所属し、民主党では文教部門の役員、教育基本問題調査会(事務局長代理)・教育再生本部(事務局長)として活動しています。
昨今、信じられないような事件・犯罪が続発しています。まさに、目を覆いたくなるばかりです。こうした現状に不安を抱えている人が多いのではないでしょうか。様々な原因、背景があるでしょう。ただ、一つだけ共通していることは、全ては人が起こしているということです。だからこそ、人づくり・教育を真剣に考えていかねばなりません。テレビ記者出身の私は、政治家にとって現場を見て歩くことが何より大切だと思っています。「現場主義に徹する」を信条に、これまでも多くの学校現場を歩き、関係者の皆さん、保護者の方々とも意見交換をしてきました。また、教育タウンミーテイングを開き、地域の皆さんとの対話も重ねています。こうした中で感じることは、多くの方が今の教育に不安・不満を抱いているということです。「政治・行政が悪い」「学校・先生に問題がある」「親が悪い」など意見は様々です。それぞれに一生懸命頑張っている人もいれば、問題のある部分も多々あります。
ただ、言えることは、もう犯人探しに終始している時間はありません。今、必要なことは、学校教育のみならず、家庭教育、地域での教育なども含めて広い意味での教育の在り方について、政治家はもちろん多くの国民の皆さんと一緒に考え、実際に変えていくために行動していくことだと思います。このブログを通じて、私なりの想いを発信すると同時に、皆さんの意見を広く聞かせて頂き、教育についての議論を巻き起こしていければ幸いです。

、衆議院議員 笠浩史
生年月日 1965年1月3日(43歳)
出生地 福岡県
出身校 慶應義塾大学文学部
学位・資格 文学士
前職 テレビ局社員
所属委員会
内閣役職 文部科学委員会理事
外務委員会委員
世襲 世襲ではない
選出選挙区 比例区南関東ブロック(神奈川県9区)
当選回数 2回
所属党派 民主党
党役職 国会対策副委員長
神奈川県総支部連合会代表
会館部屋番号 衆・第一議員会館420号室
笠ひろふみ公式ウェブサイト
笠 浩史(りゅう ひろふみ、1965年1月3日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。

目次 [非表示]
1 経歴
2 主な所属議員連盟等
3 文献
3.1 著書
4 関連項目
5 外部リンク
 [編集] 経歴
福岡県出身。修猷館高等学校、慶應義塾大学文学部卒業後にテレビ朝日に入社し、営業部・報道部に勤務。首相官邸などを担当した。小渕恵三・元首相に最後にインタビューしたのは笠である。その際には、小渕の数秒間の沈黙に注目が集まった。その後退社し2003年11月9日に行われた第43回衆議院議員総選挙に神奈川9区より、松沢成文神奈川県知事の後継として出馬し、新人ながら小選挙区で勝利した。2005年9月11日に行われた第44回衆議院議員総選挙では自民党の山内康一に敗れるも比例区南関東ブロックから復活当選し2度目の当選を果たした。
テレビ朝日出身だが、松原仁、長島昭久らと共に民主党内の保守系議員の1人として知られ、鳩山由紀夫・幹事長に近い。但し、鳩山が在日韓国人等に参政権を付与することを目的とする在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟に参加しているのに対し、笠は党内の外国人参政権反対派の永住外国人の地方参政権を慎重に考える勉強会に参加するなど慎重な姿勢を示している。慰安婦問題と南京事件の真実を検証する会の呼びかけ人、南京の真実の賛同者でもある。米下院121号決議の全面撤回を求める歴史事実委員会主導の全面広告に賛同者として名を連ねている。


第二部  実録青少年育成連合会関西支部長山本親子のいじめ撃退   

一つの問題が解決したものの、(学校へものを言う)という噂が広がり
続け、(恵美ちゃんのお母さん怖い)とか(恵美ちゃんと遊ぶとすぐお母さんが学校に言)などと色んなことを言われるようになった。
4年生の時、音楽が大好きな私は生まれて初めて部活というものに出会い音楽部に入部した。たくさんの期待と不安を持ちながら初日の部活に参加したあの日のことを今もよく覚えている。(それぞれのパートを決めるから)と言われ、私は友達と一緒にバトンをすることになった。バトンのグループは廊下のほうに集められ、六年生の先輩を中心に、バトンの回し方など教えてもらった。
一人の六年生Aが、(じゃあ、四年生一人ずつやってみて)と言ったので、私はまだ、ほんの数分前に始めて触ったバトンを、それでも一生懸命回してみた。(・・・・トーン)バトンは落ちた。すると突然Aに謝れといわれたのだ。私は、なぜ謝らなくてはいけないのかもわからないし、謝ることはないと思ったので小声でなぜ謝らなくてはいけないのと言った。Aはさらにきつい口調で、謝れ、謝らなければ殴るぞと言ってきたのだ、周りの六年生は楽しそうに見ているだけ、一人の六年生に、謝ったほうがいいよと言われた。私は、急に怖くなって、すいませんでしたと言った。それからその後も黒板に、赤字で山本恵美しっかりやれと書かれ、Aを含む六年生、また五年生から、嫌がらせを受けた。私は、家に帰るとすぐに母の胸に飛び込み泣いた。泣きながら今日の事を母に話した。母は学校に連絡し、事実を確かめてほしいと伝えた。あの頃、母が私を助けてくれるために、どれだけ苦労し辛い思いをしているか、全くわからなかった。母は、いつも私には、大丈夫だよお母さんに任せときなさいと笑ってくれた。その笑顔を見るたびほっとして学校へ行きたがらない足が前に進んだ。私の知らないところで母は学校と戦った。事実を確かめてくださいと言ってから、数日後教頭先生に聞くと、きちんとやりましたと答えるのみで、どんな指導を生徒にしたかと聞くと、言う必要は無いと答えたそうです。母が親として知る権利がある、娘の話と学校の調査にくい違いがあってもいけないし、どんな指導をしてくれたかを知り、娘を安心させて部活に参加させたい・・・・・と言っても、学校に任せてくださいと言っただけだった。それなのに教頭先生が突然自宅に来て、指導がいいかげんでした、これからはしっかりやります。と、頭を深く下げ、菓子折りを差し出した。ところが、肝心の部活の事実関係も指導の中身も全く話されず、母が聞いてもあわてて逃げ帰ったという。学校側が、オープンにはっきりさせることを嫌がり、なるべく小さく収める事を考えています。母は、学校の汚さを見たと同時に更に怒り狂い納得いくまで立ち向かっていった。私の知らないところで母は、学校と戦い、教育委員会に出向き事実を確かめようとした。母が学校に御願いしているのに、教頭先生から、Aさんは、お宅の娘さんが私語が多いから注意した、と言われた。また、黒板に赤字で書いたのも、激励だというのだ。また謝れ、謝らなければ殴るぞと・・言った後に、それはウソだといった。と、言っているからいいのではないかと、言われたそうだ。
学校が必死に作ったごまかし母は学校側と戦い続け数ヵ月後、学校側がすべて悪かった事を認めた。また部活の顧問に六年生のAさんと私は呼ばれ、顧問の先生とAさんは、私に土下座した。別に土下座をして謝ってもらうことでないと思う。部活初日に辛いことがあったという母へのSOSを、母が学校へ伝えてくれ、学校側が事実を確認しAさんに指導してくれれば、良かったと思う。なぜ話しを延ばし、学校は、事実から逃げたのか・・・・広がり続ける母の噂・・・・・山本恵美のお母さんは怖い人、この言葉を何度耳にしたか・・・・・・運が悪かったのか。当時担任のS先生までも、地域一緒になって、私たち親子を苦しめてきた。  第3部に続く・・・・・・

 

 




(財)全日本空手道連盟松涛館流空手道拳心会師範西谷賢先生は青少年育成と特に子供のいじめ問題に取組んでいる唯一の先生です。ここに紹介します。

 名古屋市在住、市民グループいじめを無くす会代表、関西支部長、青少年育成連合会副理事長山本博美さんが、長女が、小学3年生だった十数年前ひどいいじめにあっていた。止めるべき、先生が加担するような状態で、学校にも教育委員会にも訴えたが、なかなか改善されなかった。6年生の時校長が代わって対策チームを、作るなどようやく本格的に取組んでもらえるようになった。それからが本当の戦いで長い道のりだったが、戦いの経験者として、是非皆さんに娘さん (山本恵美)の書いた文を読むことによって何か、得るものがあればと思いここにブログの記事として載せました。

一部、最初私は、この卒業論文を(子供の心に環境はどのように影響するのか)というテーマで進めていた。数冊の文献を読み子供の生きる力の根っこになってるものは何か、また親の役割とは、どんなものかなどを調べていた。その中で、辛い時や困った時に親がいてくれることが、何よりも子供の安心感に繋がっていて親から(私は特別に愛されている)と感じれるような時間やぬくもりが必要なんだと思った。そこで、先生からアドバイスを頂いたのをきっかけに、自分の今までの経験をまとめることになりテーマも改めて変更した。過去をこれ程深く思い返したのは初めてである。小学校4年生の時に(いじめ)にあった。ということを、思い返すということは、正直とても辛いことであり、複雑な気持ちだった。しかし今こうして保育者になることを、志し生活している私にとって、必要なことは何かと考えた時自分自身を振り返り見つめ直すということが大切であり、またそこから新しい何かと出会えたらいいと思った。過去は過去のまま、終わらすのではなく、過去から何かを学び、未来へ繋げていけたらいいと思う。あの時感じた気持ちや、あの時流した涙が決して無駄にならないように、人を思いやる気持ちを大切にしこれから出逢う子供達一人一人に幸せを与えてあげれるような保育者になりたい。あれから、十年以上も過ぎようとしている。時間はどんどん過ぎていくけれど、あの時、あの場所、あの気持ち を、忘れることは無い。十年以上たった今も、あの頃だけがなぜか長く重く感じる。 (いじめ)というきっかけが何だったかはよく解らない。分団登校の事で母が学校に要望の電話を入れた。私の家は一軒家で、住宅に囲まれたところにある。分団というのは、近くの子供同士が、グループになって、登下校するのだが、住宅のグループと住宅以外のグループに分けられていた。そこで問題なのが、住宅のグループの子供達は、車も自転車も通らない安全な住宅の中の、公園を通って、学校へ行くのに対し、住宅以外のグループは横断歩道も無く、どこから車がやってくるかもわからない四つ角で、しかも路上駐車だ らけの道を通って学校へ行くことになっていたのだ、また幼い小学生の集団が一番大きくても、六年生の判断で、道路を渡る、というのは、危険が大きすぎる、大型トラックまでも頻繁に通るこの道で、いつ、事故が起こ るかわからない。という現状のなかで、母は娘の命を守りたい一心で学校に安全な道で登下校させてくれ、と連 絡をした。学校に何かを言う・・・・・そのことがいつしか、地域中に広まって母は、何様のつもりだ、学校に口出しするな、出て行けといわれるようになった。母の周りにいた友達でさえ、地域の中で、一番偉そうにしている人や、PTAの人達の影響で、離れていき、そのうち母は、一人になった。皆と違うことをすると、冷たい目で見られる。それが正しいことであっても。皆が違うといえば違うとなってしまう現実、正しいことは何か、という前に多い方はとちらか、で、決められてゆく。母はだれに何を言われようが、自分の意思を曲げずどんどん前へ、立ち向かっていった。結局、この件に関しては、母の力で、横断歩道を付ける事になったし、路上駐車禁止の看板も置かれるようにな った。また、私も住宅のグループの子達と一緒に安全な住宅内を通って登校できるようになった。


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