運命とは逃れようとした 道すがらに出あうものです。
おもいとは水鏡
揺り動かせば見えません 見ることはかないません
ですが これをしずめれば 答えはおのずとあらわれます
( カンフーパンダ より )
この言葉は 荘 子の内篇徳充符篇第五にある
「人莫鑑於流水、而鑑於止水、唯止能止衆止」
( 人は流れている水面を鏡とはせず静止した水面を鏡にする。静止しているからこそ真の姿が見える。)
を参考にしたものなのでしょうか。
孔子が生きた時代に 王駘(おうたい)という人物がいました。
彼は講義するわけでもなく 議論するわけでもなく 人を指導するようなことは
何もしていないのに孔子と同じくらいの弟子を集めていました。
孔子の弟子である常季(じょうき)は孔子に尋ねます。
「王駘は自分の知恵によって自分の心をとらえて 自分の心をさとっただけの人物です。
とても博学だとは思えません。それなのに どうして多くの弟子が集まるのでしょうか。」
すると孔子は
「人は流れる水を鏡にすることはないでしょう? 止まっている水を鏡にするのです。
止まっているものだけが物事を映し出すことができるのです。王駘はまるでじっと止まって
いる水のように落ち着いた平静な心を持っているので 自分の心を見たいという人々の心を
見事に映し出す。だからみんなの足も止まるのですよ。」
と答えました。
この孔子の言葉から 明鏡止水 という言葉が生まれたと言われています。
「 曇りのない鏡と静かな水。なんのわだかまりもなく、澄みきって静かな心の状態。」(goo辞書)
波風立てず 澄みきった静かな心…凪の心とも通じるものがあります。
あらためて瞑想などする必要はなく 日常生活をこのような心で過ごすことができれば これもひとつの悟りでしょう。
ちなみに 剣道用語としての明鏡止水というものもありました。
明鏡止水
研ぎすました鏡の如く、又静止清澄の水の如く澄み切って、どんな小さなものをも心に写す心境のことで、
剣道では相手の動きをこの浄玻璃に写して直ちに対応しなければならない。心にさざ波が立てば相手の動きを
とらえることはできない。したがって剣道ではこの清澄の心境を「明鏡止水」と称して尊ぶのである。
( weblio辞書より )
そういえば 伊勢神宮の神楽殿にも鏡がありました。
このときの鏡にうつっているのは自分の魂のありようなのでしょう。