さんぜ通信

合掌の郷・倫勝寺のブログです。行事の案内やお寺の折々の風光をつづっていきます。 

供養の心~古人の歌によせて

2010-11-07 17:25:57 | お坊さんのお話



古人の詠んだ歌に次の一首があります。

「誰がために砕きし骨のなごりぞと思えば袖に玉ぞ散りける」

鎌倉時代の頃の歌で、ある高僧が亡くなった時、そのお弟子さんが詠んだものと言われています。
この歌が詠まれた時代も、今と同じようにお葬式をしました。
高僧と呼ばれたほどの人物ですから、多くのお弟子さんや信者の人達が、悲嘆にくれながらお葬式を執り行ったに違いありません。






その人達にとってお師匠様が亡くなるということは、親兄弟を失うのと同じくらい、あるいはそれ以上の悲しみがあったことだと思います。
「私達はこれから何をたよりに生きてゆけばよいのだろう・・・。」
葬儀が進むにつれ絶望の淵に追いやられ、暗い夜道に灯火を見失ったような感じがしたことでしょう。





野辺の送りとなり、荼毘(だび)に付される時がきました。
一時間で収骨となる今の火葬場と違い、当時は野原で、しかも二日二晩の時間をかけて荼毘に付したそうです。

その間、悲しんでばかりはいられません。
きれいに御骨が残るよう火の番をしたり、臭いに誘われた野犬に襲われないよう不寝番をしたりと、横になって休む事もできなかったのです。

そしていよいよ収骨となりました。燃えさしのなかからひとつひとつのお骨を丁寧に拾い上げながら、お弟子さん達の目には新たな涙が溢れ出してきました。
そして、この歌を詠んだお弟子さんも、悲しみの中でお骨を拾っていました。






「あれだけ元気でおられたお師匠様がこんなお姿になってしまわれた。何度困難な目に遭ってもそれをくぐり抜け、私達を導いてくれたあのお師匠様が・・・。」
お葬儀やその準備、荼毘の不寝番の疲れだけでなく、お師匠様を亡くしたという深い悲しみから、手が震えたのでしょう、拾い上げたお骨の一つを取り落としてしまいました。
そして、地面に落ちたお骨がまた二つ三つと砕けてしまいます。

しかし、その砕けたお骨の一つひとつを拾い上げているうちに、違う想いが心の中に湧き出てきました。

「お師匠様のお骨が砕けているのは、荼毘の火に焼かれたり、年を取っていたからではない。
私達弟子や信者を導くために、見えないところで絶えず心を砕き、骨を折って来られたに違いない。
その精進のお姿が、砕けたこのお骨になって現れているのだ。」





そう気がつくと、お骨の砕けた様子が本当に尊いものに思え、有難さに涙が出てきたのでした。
お師匠様と同じ時代に生まれることができてよかった、お師匠様の教えを受ける事ができて本当によかった、と。
そしてその尊いご恩に報いるために、自分達は何をなすべきなのかを心に誓ったのです。

この歌の「誰がために」とは残された弟子や信者達のことでしょう、そして「玉ぞ散りける」とは涙の粒が袖を濡らすという意味でしょう。
しかしその涙は悲しいだけの涙ではなく、報恩の誠をお誓いする感謝の涙でもあったのではないでしょうか。




時代が変わり立場が違っても、親しい身内が亡くなったときの悲しみに変わりはありません。同じ様に、この歌が示すことも私達の胸に変わりなく響いてきます。
それは師匠と弟子や、親子の深い情愛です。

供養とはお経を挙げてもらうことや、お線香を上げて仏壇に手を合わせる事だけではありません。
何かの折に、ふと亡くなった人の面影が胸をよぎる事があります。
そのときしっかり心の中で手を合わせ、その人が自分に残してくれたものは何か、そしてそれを自分はどう使っているのか、さらに次の世代にどのように伝える努力をしているのかをしっかり
確認してみましょう。
亡くなった人の想いを自分なりに行動に移すことも、尊い供養なのです。





今日はここまで。



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