前回書いた鳥居みゆきさんの漫談なんですが、書いてから今頃になって「なるほど」「もしかしてこれは」と思ったことがあります。俺も鈍いもんだからそのときは気がつかなかった。
◆南アルプスってのは、リニアのルートの件と絡ませているのかな。南アルプスと聞いたら天然水を思い出すのは普通でしょうが、トンネル工事で天然水の水枯れも懸念されているというニュースを聞いたことがあります。バシャバシャの部分は、深い意味はないと思うんですけど、もしかしたら「水掛け論」と掛けてるんでしょうか。
◆「正統派女流漫談」の「正統」も「政党」に掛けてるのかな。
◆「この部分、明日はやらないと思いますけど」云々の部分は、つまり、「やらない」んじゃなくって「自粛させられる」って意味だったんだな。ああ、そんなことに気づかないとは。。。
◆左脚を折り曲げて斜に構えたあの姿勢、深い意味はないと思っていたんですが、あれ実は「軸脚は右」「左は地に足が着いていない」という揶揄なのでは?左ってのはもちろん自称リベラル/左翼の意味で、現政権がブレブレなのをおちょくっているんだと思う・・・だけど前回漫談を披露した「スクール革命」でも左脚はあの状態だったので、単なる偶然・・・かもしれないけど、いやしかし・・・。
・・・まあ深読みしすぎかもしれないし、また逆にこれ以外にも気付いていない部分があるのかもしれない。いずれにせよ、彼女のネタは巧みな言葉遊びと緻密な構成が楽しいし、聞き手にある程度の知識がないと面白さが理解できないものも多い。裏を返せば聞き手のイマジネーションが膨らむというか、考える余地を残してくれているわけで。明瞭簡潔な単純な笑いがストレートの剛速球だとしたら、彼女は高速スライダーやスプリットフィンガーファストボールなどもポンポン投げてくる。ああ見えて本質が技巧派なのはファンなら誰もが知るところです。
有名なところでは、異様なテンションと日本語ならではのリズムの上に豊富な言葉遊びと知識をちりばめた「ちんどんや(妄想葬儀)」とか(自分の葬式の宣伝という設定が素晴らしい)、学生運動や日本赤軍をパロディにした紙芝居「赤ずきんちゃん」とか、ああいうのはこちら側に予備知識がなければ全然面白くない。ひとことで言えば聞き手を選ぶ・・・別の言い方をすれば聞き手の力量が問われるようなネタですね。
もちろんそれはファンの視点であって、そうでもない人からは、それこそ「勢いだけの芸」「よくわからない」としかみなされない辛さもある。そもそもそんなに理屈っぽく構えんでもいいわけで、十人十色の楽しみ方があると思う。
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【天才芸人】 鳥居みゆき 「妄想葬儀」
(クリックした後、「YouTubeで見る」をさらにクリック)
この動画は投稿者の方による詳しい解説がついているんだけど、逆に言えば、ここまで解説しないとわからない人にはわからないのかもしれない。
俺は「連絡網シード」の意味だけがわかりませんでした。だって子供の頃にそんな仕組みはなかったもの(笑)
akazukin
これはもう、中高生などが見てもさっぱりわからないんじゃないのかな。そもそもなんで「あかずきん」なのかもわからんだろうし。ちなみに、紙芝居の中の女の人はオノ・ヨーコじゃないですよ(笑)
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まあ、そういった部分も徐々にテレビで出せるようになった(出すようになった)のは嬉しいことです(「あかずきん」はさすがに地上波じゃ無理だろうけどw)。ネタの難しさという観点について、例を挙げるならば、今の地上波で一つの主流となっている「短い持ち時間でのネタ見せ」番組。ここでの彼女は常に戦っているような印象を受けます。誰と戦っているか。それは単純でお手軽な笑いを良しとしている風潮にです。だけどそういう番組に出る以上、そういうことをしなければならない。「米のよしだ」から「山崎春のパン祭り」のくだりをカットして演じなければならない。人は誰しも最低限妥協せざるを得ない部分ってのがあって、こだわりとの折り合いをつけるための葛藤ってのがあります。テレビにはテレビの、舞台には舞台のルールやお約束があって、そのルールからあからさまに外れてしまうと仕事がなくなる。要領のいい人ならもっと上手くやれるだろう(妥協を通り越して完全にテレビ用にネタを作ってしまう)。しかし彼女はネタに対して不器用なまでに真面目なこだわりがあるだろうし、舞台を本職を考えているような人だと思うので、いや、テレビをおろそかにしているわけでもないんだろうけど、まあそのあたりには苦労してるんだと思う。テレビに打って出るために作ったポップな「まさこ」ネタを減らしていくのは、じつは想像以上の労力があるんだろう。でもいつまでもマサコでは生き残れないことを、彼女はちゃんと知っているんだろう(そのへんは小島や髭男爵は本当に悩んでいるだろうな)。
次に彼女のネタの危なさ(風刺精神)の問題。彼女は自分で「放送コードをゆるめた女」と言ってましたが、あながちそれは嘘じゃないだろうし、結果的にそれができたのは彼女の実力(がわかる人にはちゃんと認められてきたこと)によるところが大きい。そもそもテレビの放送コードなんて最大公約数的な自主規制が多いのも事実だし、そもそもあれはテレビ局側のリスク回避にすぎません。「こんなことを言ったらどこどこから苦情が来るからやめよう」とか。それを彼女が「よくよく考えれば、これくらいはいいんじゃないの?」と制作側に気付かせた部分もあるだろうね。鳥居さんが強かったのは、あのキチガイのような「マサコ」のキャラだからこそ言えた、ってのもあると思うんです。「しょうがねぇなぁ、コイツは」的に許してもらえる部分ってのもあったと思う。堕天使キャラではそこまでの突破力はなかっただろうね。
キャラについては、例えば多くの芸能人が自分自身のキャラを持っていて、それは鳥居さんもそうなんだけど、彼女が面白いのは演目スタイルごとにキャラを使い分けているってこと。例えば髭男爵が「貴族と執事」というキャラで始終一貫しているのとは違って、彼女の場合は「マサコ」ではマサコになりきり、「漫談」では南アルプス鳥居になりきっている。そりゃもう見事なまでに。もちろんコントや一人芝居ってのはネタごとにキャラを設定するものなんだけど(典型的なのが落語・・・あれは文字通りキャラを演じなければならない)、鳥居さんの場合はまたちょっと違うような気がする。例えば友近や柳原可奈子はなにをやっても友近であり柳原だけど、鳥居さんは「なにをやっても鳥居」という感じじゃないんですよね(そう思うのは俺だけかもしれないけど)。あ、くれぐれも友近や柳原を否定してるわけではないんですよ。
わかりやすく言えば、友近のコントを5本並べて見ても、同じ人がやっているのは誰の目にも明らかでしょう。しかし鳥居さんのコントを5本並べて見たら、すべて違う人に見えるかもしれない。彼女がブレイクした「カンニングの恋愛中毒」において、「ネタ見せ~トーク」の彼女と、その後の「竹山とのコント」の彼女を見て、俺は別人かと思いましたよ。同じ服を着て同じ髪型同じメイクなんだけど、別人に見えたね。
だからこそ「本当の彼女はどんな人なんだろう」と一般人は疑問を抱くわけで、ロンハーの「鳥居みゆき24時」があんなに好評をもって受け入れられたりする。もちろん首尾一貫として「鳥居みゆき」らしさは持っているんだけど、使い分けというかスイッチの切り替えというのが、本当にしっかりしていて、つまり彼女は見事なまでにキャラを演じ切っていると同時に、「芸人」をも演じ切っていると思うわけですよ。だからファンは、むしろ彼女のプライベートな部分なんて知りたくもないという思いも強い。
彼女は時として戸川純のフォロワー的な扱いもされるし、彼女自身「戸川純さんみたいになりたい」と公言もしてましたが、それとは別に、どちらかというとフランク・ザッパや中島みゆきといったアーティストと同一線上の匂いを感じてしまう。そこに(戸川純も含めて)共通するのは、大げさな言い方ですが「研究対象となり得る」ということです(実際に研究したりはしないけど)。
まあ彼女を好きになってから、少なくともテレビ(地上波)におけるお笑いというものを考えるようになったのは確かで、これまで「テレビに出てるから売れっ子」と疑いも無く感じていたのを、「この人たちってテレビ以外ではどんなことやってるんだろう」などと思うようになった。これまで自分が見ていたのはお笑いの中の極ごく一部、目に入ってくるものだけだったんだな、と気付きましたね。
・・・なんか長々と垂れ流しましたが、こういう芸人さんにめぐり合えたのはありがたいことだと思います。
◆南アルプスってのは、リニアのルートの件と絡ませているのかな。南アルプスと聞いたら天然水を思い出すのは普通でしょうが、トンネル工事で天然水の水枯れも懸念されているというニュースを聞いたことがあります。バシャバシャの部分は、深い意味はないと思うんですけど、もしかしたら「水掛け論」と掛けてるんでしょうか。
◆「正統派女流漫談」の「正統」も「政党」に掛けてるのかな。
◆「この部分、明日はやらないと思いますけど」云々の部分は、つまり、「やらない」んじゃなくって「自粛させられる」って意味だったんだな。ああ、そんなことに気づかないとは。。。
◆左脚を折り曲げて斜に構えたあの姿勢、深い意味はないと思っていたんですが、あれ実は「軸脚は右」「左は地に足が着いていない」という揶揄なのでは?左ってのはもちろん自称リベラル/左翼の意味で、現政権がブレブレなのをおちょくっているんだと思う・・・だけど前回漫談を披露した「スクール革命」でも左脚はあの状態だったので、単なる偶然・・・かもしれないけど、いやしかし・・・。
・・・まあ深読みしすぎかもしれないし、また逆にこれ以外にも気付いていない部分があるのかもしれない。いずれにせよ、彼女のネタは巧みな言葉遊びと緻密な構成が楽しいし、聞き手にある程度の知識がないと面白さが理解できないものも多い。裏を返せば聞き手のイマジネーションが膨らむというか、考える余地を残してくれているわけで。明瞭簡潔な単純な笑いがストレートの剛速球だとしたら、彼女は高速スライダーやスプリットフィンガーファストボールなどもポンポン投げてくる。ああ見えて本質が技巧派なのはファンなら誰もが知るところです。
有名なところでは、異様なテンションと日本語ならではのリズムの上に豊富な言葉遊びと知識をちりばめた「ちんどんや(妄想葬儀)」とか(自分の葬式の宣伝という設定が素晴らしい)、学生運動や日本赤軍をパロディにした紙芝居「赤ずきんちゃん」とか、ああいうのはこちら側に予備知識がなければ全然面白くない。ひとことで言えば聞き手を選ぶ・・・別の言い方をすれば聞き手の力量が問われるようなネタですね。
もちろんそれはファンの視点であって、そうでもない人からは、それこそ「勢いだけの芸」「よくわからない」としかみなされない辛さもある。そもそもそんなに理屈っぽく構えんでもいいわけで、十人十色の楽しみ方があると思う。
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【天才芸人】 鳥居みゆき 「妄想葬儀」
(クリックした後、「YouTubeで見る」をさらにクリック)
この動画は投稿者の方による詳しい解説がついているんだけど、逆に言えば、ここまで解説しないとわからない人にはわからないのかもしれない。
俺は「連絡網シード」の意味だけがわかりませんでした。だって子供の頃にそんな仕組みはなかったもの(笑)
akazukin
これはもう、中高生などが見てもさっぱりわからないんじゃないのかな。そもそもなんで「あかずきん」なのかもわからんだろうし。ちなみに、紙芝居の中の女の人はオノ・ヨーコじゃないですよ(笑)
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まあ、そういった部分も徐々にテレビで出せるようになった(出すようになった)のは嬉しいことです(「あかずきん」はさすがに地上波じゃ無理だろうけどw)。ネタの難しさという観点について、例を挙げるならば、今の地上波で一つの主流となっている「短い持ち時間でのネタ見せ」番組。ここでの彼女は常に戦っているような印象を受けます。誰と戦っているか。それは単純でお手軽な笑いを良しとしている風潮にです。だけどそういう番組に出る以上、そういうことをしなければならない。「米のよしだ」から「山崎春のパン祭り」のくだりをカットして演じなければならない。人は誰しも最低限妥協せざるを得ない部分ってのがあって、こだわりとの折り合いをつけるための葛藤ってのがあります。テレビにはテレビの、舞台には舞台のルールやお約束があって、そのルールからあからさまに外れてしまうと仕事がなくなる。要領のいい人ならもっと上手くやれるだろう(妥協を通り越して完全にテレビ用にネタを作ってしまう)。しかし彼女はネタに対して不器用なまでに真面目なこだわりがあるだろうし、舞台を本職を考えているような人だと思うので、いや、テレビをおろそかにしているわけでもないんだろうけど、まあそのあたりには苦労してるんだと思う。テレビに打って出るために作ったポップな「まさこ」ネタを減らしていくのは、じつは想像以上の労力があるんだろう。でもいつまでもマサコでは生き残れないことを、彼女はちゃんと知っているんだろう(そのへんは小島や髭男爵は本当に悩んでいるだろうな)。
次に彼女のネタの危なさ(風刺精神)の問題。彼女は自分で「放送コードをゆるめた女」と言ってましたが、あながちそれは嘘じゃないだろうし、結果的にそれができたのは彼女の実力(がわかる人にはちゃんと認められてきたこと)によるところが大きい。そもそもテレビの放送コードなんて最大公約数的な自主規制が多いのも事実だし、そもそもあれはテレビ局側のリスク回避にすぎません。「こんなことを言ったらどこどこから苦情が来るからやめよう」とか。それを彼女が「よくよく考えれば、これくらいはいいんじゃないの?」と制作側に気付かせた部分もあるだろうね。鳥居さんが強かったのは、あのキチガイのような「マサコ」のキャラだからこそ言えた、ってのもあると思うんです。「しょうがねぇなぁ、コイツは」的に許してもらえる部分ってのもあったと思う。堕天使キャラではそこまでの突破力はなかっただろうね。
キャラについては、例えば多くの芸能人が自分自身のキャラを持っていて、それは鳥居さんもそうなんだけど、彼女が面白いのは演目スタイルごとにキャラを使い分けているってこと。例えば髭男爵が「貴族と執事」というキャラで始終一貫しているのとは違って、彼女の場合は「マサコ」ではマサコになりきり、「漫談」では南アルプス鳥居になりきっている。そりゃもう見事なまでに。もちろんコントや一人芝居ってのはネタごとにキャラを設定するものなんだけど(典型的なのが落語・・・あれは文字通りキャラを演じなければならない)、鳥居さんの場合はまたちょっと違うような気がする。例えば友近や柳原可奈子はなにをやっても友近であり柳原だけど、鳥居さんは「なにをやっても鳥居」という感じじゃないんですよね(そう思うのは俺だけかもしれないけど)。あ、くれぐれも友近や柳原を否定してるわけではないんですよ。
わかりやすく言えば、友近のコントを5本並べて見ても、同じ人がやっているのは誰の目にも明らかでしょう。しかし鳥居さんのコントを5本並べて見たら、すべて違う人に見えるかもしれない。彼女がブレイクした「カンニングの恋愛中毒」において、「ネタ見せ~トーク」の彼女と、その後の「竹山とのコント」の彼女を見て、俺は別人かと思いましたよ。同じ服を着て同じ髪型同じメイクなんだけど、別人に見えたね。
だからこそ「本当の彼女はどんな人なんだろう」と一般人は疑問を抱くわけで、ロンハーの「鳥居みゆき24時」があんなに好評をもって受け入れられたりする。もちろん首尾一貫として「鳥居みゆき」らしさは持っているんだけど、使い分けというかスイッチの切り替えというのが、本当にしっかりしていて、つまり彼女は見事なまでにキャラを演じ切っていると同時に、「芸人」をも演じ切っていると思うわけですよ。だからファンは、むしろ彼女のプライベートな部分なんて知りたくもないという思いも強い。
彼女は時として戸川純のフォロワー的な扱いもされるし、彼女自身「戸川純さんみたいになりたい」と公言もしてましたが、それとは別に、どちらかというとフランク・ザッパや中島みゆきといったアーティストと同一線上の匂いを感じてしまう。そこに(戸川純も含めて)共通するのは、大げさな言い方ですが「研究対象となり得る」ということです(実際に研究したりはしないけど)。
まあ彼女を好きになってから、少なくともテレビ(地上波)におけるお笑いというものを考えるようになったのは確かで、これまで「テレビに出てるから売れっ子」と疑いも無く感じていたのを、「この人たちってテレビ以外ではどんなことやってるんだろう」などと思うようになった。これまで自分が見ていたのはお笑いの中の極ごく一部、目に入ってくるものだけだったんだな、と気付きましたね。
・・・なんか長々と垂れ流しましたが、こういう芸人さんにめぐり合えたのはありがたいことだと思います。