らば~そうる “IN MY LIFE”

旅、音楽、そしてスポーツのこと。過去、現在、そして未来のこと・・・「考えるブログ」。

1191.2009・ボウリング業界について思う

2009-02-08 | 22.Bowling
【中山律子プロ】

 去る7日の土曜日の夜、テレビ朝日系列でスポーツの名場面特集が
放送されました。内容は、1976年の「アントニオ猪木vsモハメッド・
アリ」、1988年の「10.19 プロ野球・ロッテvs近鉄」といった感動的
なシーンでした。しかし、私にとって最も感動的だったのは、記憶の
中に微かに残っていた、1970年の「プロボウリング・中山律子プロの
パーフェクトゲーム」です。

 映像が残っていたんですね。当時はVTRを消去してしまう時代で
した。「なぜ残していたのか」・・・ともあれ、そのおかげで今現在
その場面を動画で観ることができるのです。NETさんに感謝です。

 時は1970年 8月21日、会場は府中スターレーン。1970年の女子プロ
8月月例会の優勝決定戦における出来事でした。当時のNETテレビ
(現在のテレビ朝日)がこの模様を『レディズ・チャレンジボウル』
にて収録していたのですが、いわゆる地上波のテレビ中継中に、女子
プロ初の公認パーフェクトゲームが飛び出したのです。

 映像を観ると、ギャラリーはもちろんのこと、実況アナウンサーや
解説者の「ワクワク感」が伝わってきます。観る、魅せるスポーツは
やはり、この「ワクワク感」が重要だと再認識しました。そしてその
緊張感は当の中山プロからだけではなく、対戦相手の海野房枝プロや
ボウラーズ・ベンチでゲームを見つめていた須田開代子プロや並木恵
美子プロからも伝わってきたのです。

 ・・・やはりこれですね。

 1970年当時、ボウリング・ブームが沸き起こりました。ボウリング
を「テレビで観て自分でやってみよう」と試みる人が急増したのです。
現在、ボウリング業界は熱心な競技ボウラーとスポットの一般顧客に
支えられています。消費者の価値観が多様化し、世代を問わず趣味や
余暇活動に対する投資判断の目もシビアになっています。

 中山律子プロのパーフェクトゲーム達成の瞬間の映像に再び感動し
ながら、ふと現在のプロボウリングを含めたボウリング業界の現実に
立ち返りました。業界を盛り上げようと、各プレイヤーが努力されて
います。残念ながら、先の理由によりあれほどのブームは到来しない
と思うのです。しかし、それはそれで別の視点から業界を盛り上げて
いく可能性はあります。しかし、そのためには業界の各プレイヤーの
「協調体制」が成功要因となります。コミュニケーション不足や誤解
による「カベ」が残存したままでは、業界は成長しません。リーディ
ング・プレイヤー(強固な姿勢だけではNG)は「ボウラーの視点」
を常に念頭に置いて、場を作り上げていくことが要求されるのです。
あくまでも、主役は「ボウラー」なのですから。

 昨年秋に発生した米国金融危機による世界的経済不況が、今後影響
してくると予測します。従って、新たな手を打つタイミングが本当に
「今」でよいのでしょうか。先ほどの「各プレイヤー間の協調体制の
状況」や「世界的動向における日本国内の経済状況の推移」を十分に
検討した上で的確に「判断」を下すことができるのがリーディング・
プレイヤーであるための必要条件だと考えます。



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4 Comments

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1967年からのカラー放送 (mino)
2009-02-12 00:19:58
一連のNETの50周年番組見ました。

NETは昭和42年からカラー放送が始まったそうです。当時までに開局していた系列局を含む在阪、在名民放各局すべてが41年までにカラー化が完了していたわけですから12チャンネル同様、在京TV局では遅い方ですね。
NETは番組のアーカイブスが極端に悪い局ですので「プロボウリング・中山律子プロのパーフェクトゲーム」が残っていたのは奇跡に近いでしょう。
しかもこの番組はカラー化直後の昭和45年ですから貴重なカラー&2インチVTRです。後42から45年にかけてのカラーによる歌番組が数本残っているそうです。

白黒、カラーにかかわらず「氷点」「だいこんの花」等、家庭VTR普及前の2インチVTRが残っているのはとにかく貴重です。
『レディズ・チャレンジボウル』他の回も残っているみたいなので是非BSチャンネルでもいいから再放送して欲しいものです。
返信する
昭和40年代の番組に対する郷愁 (らば~そうる)
2009-02-12 01:25:09
to:minoさん

そういう事情があったのですか。NETテレビ。
思えば、昭和42年当時
新聞のテレビ番組欄を見ると「カラー」という表示がされていたのを思い出しました。
その表示が次第に増え、いつの間にか無くなりました。

再放送に関しては同感です。
著作権問題もあると思いますが、なんとか放映していただけるとうれしいですね。
昭和40年代で観てみたい番組はたくさんあります。
返信する
Re:昭和40年代の番組に対する郷愁 (mino)
2009-02-12 23:23:18
to:らば~そうるさん

カラー放送については昭和41年頃から2インチVTRが新フォーマット(編集可能なハイ・バンド)となり、在京、在名、在阪局のカラー放送比率が飛躍的に高くなっていきました。時代は生放送、フイルム制作からVTR時代となったわけです。
NETと12チャンネルは当時教育放送の放映義務があり、局の性格上カラー化が遅れたのではないかと思います。(ただし、不思議な事に当時の系列局で教育放送局でもあった名古屋TV、毎日放送はNETよりも早くカラー局化されていた)

NETカラー化前年、ビートルズは幸運な事にカラー化完了局であった日テレ、中部日本放送が放映権をもったため、導入されたばかりの2インチ新フォーマットVTRで記録される事となった訳です。アメリカもエド・サリバンショー最後の出演時までは白黒旧フォーマットしか残っていませんが、翌年のVTR出演の時(ペーパーバックライター、レイン)はカラー新フォーマットでした。

VTR時代の到来はデメリットもあります。それはフイルム制作であれば過去の名作も現在まで残っていますがVTR制作は殆どが消去されて残っていないという事です。

団塊世代が定年を本格的にむかえる昨今、昭和40年代の番組の需要はさらに高まるでしょう。しかしデマンド等で旧番組を配信しようにもVTR素材が少ないのが現実です。あの山口百恵のデビュー曲VTRさえ残っていないのですから。。。

ところで本格的にアーカイブスが始まる前の放送局に残っていない1970年代の番組素材はどうでしょう?それはみなさんの家庭用VTRテープに眠ってます。
自分もいつか暇になったら撮貯めた70年代のVTR整理してみようかな。。。ただしハードがまだ使えればだけど。。。
返信する
1970年代に対する郷愁 (らば~そうる)
2009-02-14 19:57:38
to:minoさん

NETテレビ、毎日放送という言葉を聞き
「腸捻転」なるキー・ワードを思い出しました。
関東圏で10チャンネルで放映していた
「アップダウンクイズ」がある日突然
1975年 3月31日を境に6チャンネルに変わり
当時「なぜだろう?」と不思議に感じていました。

1970年代の番組。
観てみたい番組がたくさんあります。
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