今日は、「天皇誕生日」から「みどりの日」になり、
いよいよ、GWに突入!・・・したけれど、R子K太は暦通り。
Mるパパだけは5日までずっと休みの7連休。
言うまでもなくA子は年中休み
前半の3連休の初日、R子はお友達とお買物&カラオケ。
MるパパとK太は床屋さんのあと鉄模Shopへ。
A子だけはいつもと変わらずの一日。
・・・ということで、今日はほぼ一日R&Kのアルバム作り。
春休み後半からポツポツと取り組んでいるが、まだ2010年5月・・・
ふたりのアルバムは、ずっとB4版のスクラップブックで作っていた。
スクラップブックのいいところは、
写真は勿論のこと、食事したところの箸袋から旅行のときのパンフレットまで、
もう何から何まで貼れて、好きにコメントを書き込める。
これ は毎年の誕生日のページ。
手形足形は毎年取っているので、それを切り抜いて貼ったり、
届いたバースデーカードやケーキの箱に貼られた誕生日当日の
日付シールまで貼ったりする
2009年までにR子は27冊。K太は18冊。
今のところ、其々の本棚にほどよく収まっているのだが、
年々増えて行くスクラップブックに一抹の不安(?)を感じ、
とうとう昨年からは、PCでA4サイズにまとめ、
A4のクリアファイルのアルバムにしよう!と方針転換をした。
・・・とは思ったものの、5月にふたりが其々行った修学旅行。
箸袋、おみやげを買ったときのレシート、観光地のパンフレットなどを大事に持ち帰ったふたり。
その後、学校で注文した沢山の写真が手元に届いた頃から、
これらはいったいどうしよぉ~!?
A4の紙に貼ってファイリング?! えぇ~どうしよう???
・・・と悩み始めた途端、2010年5月以降アルバム作りは停まってしまった
きっかけは3月11日の大震災・・・かな
TVに映し出された、思い出探し隊の人たちを始め、
多くの方が瓦礫の中からアルバムや写真を捜す姿・・・。
2010年5月以降の我が家の写真は、PCに保存されたまま、
或いは箱に入れられたままになっていることを思い出し、
せっかくの思い出の日々、見られる状態にしなきゃ・・・と。
できれば、電源を入れたりなんかせずに、
見たいと思ったときに好きなだけ見られる状態にしたいなぁ・・・と。
お気に入りの一枚は、しっかり写真用紙にプリントしたり、
思い出の品も貼り付けたり・・・と、
またあのスクラップブックのアルバムを復活させようと決めた!
R子は1年に3冊のペースが何年も続いた。
写真は年々減るだろうと思いきや、
年中デジカメを手にするペーパー子のようなA子がいる限り、一向に減らない・・・。
貼るものはしっかり厳選し、2010年に関してはとりあえず、
「1年で1冊」を目標にまとめようと思う。R子No.28 、K太No.19 ・・・。
出来れば連休中、お出掛けしないで毎日これやってれば、
母は満足なんだけどなぁ~
ちょっと不健康か
明日はMるパパが帰ってくる。さすがに帰ってきてまたおうちでタイ料理・・・は嫌だろうから、今のうちに3人で ???????? ・・・タイ料理
主食はタカヒロちゃん提供の?????? そして、?????????? と ??????????????
タイ料理=辛い=唐辛子=カプサイシン
この辛味成分の「カプサイシン」。
内臓脂肪の燃焼促進、整腸作用、免疫力アップ!・・・といいこといろいろの反面、
摂り過ぎると、味覚異常になったり、脳の海馬の働きを阻害するために記憶力や判断力が低下する・・・というデメリットもあるらしい。
さぁ~て、辛いの食べて代謝アップを図るべきか、食べずに記憶力低下を阻止すべきか・・・。どっちを取ろうかねぇ・・・とタカヒロちゃんにこの話をしたら、「代謝は運動で克服よ!!辛いものは控えて記憶力はキープしなきゃ!」・・・と。
はい。「うんど~」 心がけます
朝から風が強いこと強いこと
洗濯物が早く乾きそうでいいけれど、花粉が沢山飛んできそう
洗濯物に付いた花粉も吹き飛ばして欲しいわぁ~
明日R子はバス遠足。おやつを買いたいからと、昨夜K太を迎えに行ったときにコンビニに立ち寄った。
R:何これ??
A:え? ポッキーじゃん。
R:え?これがぁ~?
A:あぁぁ・・・。むかしのだわ。復刻版だね。
R:へぇ~。
ポッキー45周年の復刻版。
R子に言われるまで全く気付かずいつものポッキーとして見ていた
CMシールギャラリー1枚付 全30種
中のパッケージも其々だけど製品は現在販売されているポッキーでした。
懐かしい懐かしい~ と思う、人や物や出来事。
半世紀近く生きている証・・・だね。
なんだか最近、昔を懐かしんだり、過去ばかり見ているような気がするなぁ・・・。
もう先が見えてるとか未来はないというわけじゃぁないんだけどね。
自分の未来はあんまり考えないように・・・みたいな、もしかして老いからの逃避!?
子どもたちの将来は楽しみで、自分の将来はもう・・・ってな感じで
でもこれってどうなの?
昔のことは覚えてて最近のことを忘れがち・・・。
認知症の始まりかしら???
まいいか
秋でもないのに、しばらくノスタルジーな気分が続きそう・・・
パソコンに向かい、EXCEL使って何やら真剣に取り組んでいたK太。
出来上がったのは先ずこちら
『K太仕様のDS』らしい・・・
続いて何かプリントアウトしてリビングの入口に貼ったのがこちら・・・
学校から帰ってくるとカバンを背負ったままリビングまで帰ってきちゃう(?)R子
だからR子が帰ってきたあとは、リビングにR子の物が散乱し始め、そのまま翌日になってしまうこともしばしば・・・
要は、玄関を入ったら自室に直行して、カバンや上着などは自分の部屋へ置いてくればいいことでしょ!? ・・・と毎回言っても効果なし・・・
そこで、K太がダメモトでこの表示を作成してリビングのドアに貼ってくれた
まぁ何となく最近、効果あり・・・って感じ
おねえさん、しっかりしてくださいよぉ~
この筋金、正式には『 KANEDA DEVICE 』という。
ステンレス製なので劣化はしないようです!
今後劣化するのは・・・周りの骨でしょうね
しっかり牛乳飲んで、煮干でも食べて???
おひさまも適度に浴びて運動もして、
骨粗しょう症予防を心がけましょう
1990年4月21日(土)
山梨県韮崎市から長野県佐久市までの78kmを最長約18時間かけて歩く「競歩」ならぬ「強歩大会」。
高校2年のときが初エントリー。早朝の野辺山高原で見た八ヶ岳のモルゲンロートが忘れられず、もう出るまい出るまい と言いつつ、その年は5回目のエントリーだった。
ひたすら走って翌日の明け方5時台にゴールする人もいる。だが大概の人はヘッドランプや懐中電灯を手に黙々と歩き続ける。
ゴールの締め切り時間は翌日の午後3時。途中午前6時、午前11時、午後2時までに通過しなければいけないチェックポイントもあり、それに間に合わなければその時点で棄権することになる。
過去4回参加して踏破したのは3回。自己最高記録は88年の12時間44分。総合75位、女子3位。
5回目となったあの年は、仲間全員踏破!の目標と、自己の記録更新もちよっと狙っていたんだけどなぁ・・・。
20時30分、韮崎小学校をスタート。
最初の10km地点までは団体行動で、1,000人近い参加者が長い列を作ってぞろぞろと歩く・・・。
午後22時15分。10km地点の山梨県北巨摩郡須玉町(現山梨県北杜市)に到着。
23時の再スタートまでにはまだ時間があった。10km歩いたこの時点で既に多少の筋肉痛があった。荷物のチェック、服装のチェックなどを済ませ、あとは軽くストレッチ。ちょっと緊張を解そうと、手に持ったバンダナを夜風になびかせつつ立ち上がり、ゆっくりと一歩二歩。
この二歩目のとき、一歩目よりちょっと一段下がった感じがした。
「あれ? ここ階段なのかな?」
一瞬頭に階段をイメージしながら三歩目を踏み出した。
・・・が、三歩目は宙を踏んでいた。
その先に道があると思ったのに、なかったんだよぉ~
夜通し歩くのだからと、電池が消耗しないようにヘッドランプを消していたのも拙かった・・・。
足元は真っ暗でぜんぜん見えてなかった。
落ちていくとき、どこまで落ちるんだろう!?・・・とふと思った。
でもそんなことを思った瞬間には背中に激痛が走り呼吸が出来なくなった。
地面に背中を強打したために呼吸が出来なかったのだ。
やっとの思いで息を吸い込み、次に息を吐き出すと同時に叫びに叫びまくった!
「痛い!!痛い!!痛い!!!」
助けてぇ~!ではなかった。と・に・か・く 痛いのだ!!!
こんなところにいたら誰も気がついてくれないんじゃないかとも思って、必死に声を上げた。
幸い、一緒に参加していた仲間が、立ち上がったと思ったらふと暗闇に消えた私を目撃していた。
仲間のもう一人が、何か聞こえない??・・・と暗闇の方を覗く。
何かじゃなくてA子だよA子A子が落ちたんだよ
高さにすると約3m。
駆けつけた大会スタッフも一緒にいた仲間も、なかなか下に降りられなかった。
やがて救急隊員らによって担架で引き上げられ、病院へ搬送・・・。
骨盤骨折かもね・・・と運び込まれた病院の当直医。
間の悪いことに、その日は土曜の夜。明日はお休みなので、月曜にならないとレントゲンは撮れないと言う。その夜は安静にして、痛み止めの点滴で凌ぐことに・・・。でも、痛み止めなんてぜんぜん効かなくて、寝返りも出来ず、殆ど眠れない長い夜だった。
翌22日(日)朝。血尿も出ていないので内臓の損傷はないでしょう・・・と一安心。病室からは、ベットに寝ながらにして櫛形山と富士山が見えるという、最高の景色だった。ここでゆっくり養生することだね・・・と病院スタッフ。
そんな長閑な日曜日を経て、翌23日(月)。何となく痛みが軽くなった分、両脚が重く感じた。とりあえず10kmは歩いたからその疲れかな・・・と思っていた。朝からレントゲン撮影やら何やらいろんな検査が始まった。夕方、担当医が診察に来た。そこでようやく、両脚がいうことを利かなくなっていることに気付いたのだった。
寝た状態で両膝を立てて・・・と言われるのだが、特に左脚はだるくてぜんぜん動かない。
え? なんで? ちょっと待って???・・・考えて動かすようなものでもなし、でも、どう考えても待っても動かない。ちゃんと曲げて膝を立てよう!と頭では思っているのに、全く思いが脚に届かない。
そのうち、先生が手伝ってあげるから・・・と膝を曲げて立ててくれた・・・が、保持できずにあっという間にクタっと伸びてしまうのだ。やっぱりね・・・と先生。何がやっぱり???
背骨のレントゲン写真を見せられた。説明では、第1腰椎が粉々になっていて、その欠片が脊髄に刺さっており、このままでは脊髄が切断されて脚は完全に動かなくなるというのだ。
この時は、レントゲン写真を見ても何が何だか良くわからなかったし、あまり重大なこととして受け止めていなかった。
手術を要するであろうからと、設備の整った松本の病院まで搬送されることになった。
中央道をサイレン鳴らしてひた走る救急車。その間車内では、同乗した山梨の病院の先生のお説教と我が母の愚痴に耐える一方で、僅かな振動による痛みにも耐える・・・
松本の病院へ到着した頃は消灯時刻を過ぎていた。
翌24日(火)。当時の婦長さんからの質問。
「車椅子の生活始めますか? それとも手術を受けて歩く人生続けますか?」
そんなの歩きたいに決まってるじゃん!何でそんなこと聞くんだろう???不思議だった。
車椅子の生活も今の時代、身近で普通の生活なんだということ・・・。
自分は今、ぎりぎりのところにいるんだ・・・と実感した。
手術・・・お願いします・・・。それしか言えなかった。
昼間の手術予定はいっぱいで、夜中の緊急オペとなった。
4月25日(水)20時手術室へ。病室へ戻ったのは翌26日(木)2時30分。
今となっては貴重だね・・・
そして、使われた『 kaneda device 』。
左の肩甲骨の下からツツツーッと斜めにおへその左脇までの約40cm、65針の傷と、身体の中にはこのステンレス製の筋金が残された。
のちに親に聞いたところ、術後、場合によっては車椅子を要することもある・・・と言われたらしく、親はすぐに車椅子でも暮らせる家の改造を真剣に考えたらしい・・・。
退院後、現場を見に行ったが、現場脇には橋があり、自分が横たわっていた近くにはコンクリートの橋脚部分があった。もしあのコンクリートに頭を打ちつけていたらどうなっただろう??? 傷や金具で済んだのは不幸中の幸いだ・・・。
あの日の夜、スタート地点の小学校は桜が満開だった。術後、寝たきり状態になった病院のベットの上からは、鏡を使って新緑の景色を見た。その新緑も日毎に濃くなり葉が茂り、季節は夏に向かっていた。セミが鳴くまでには退院!を目標に過ごした。
初めてベットの上に起き上がれた日。横の世界から縦の世界になっただけで、見えていた世界は一変した。いろんなものの大きさ高さが実感できて新鮮だった。
初めて歩行が許可された日。二十数年前に生まれた自分が、初めて歩いたときはどんなだったんだろうと想像した。父や母、そして姉が見ていたのだろうか?この日も、術後初めて歩いた自分の姿を、父と母はどんな思いで見たのだろう・・・。
そして迎えた7月19日退院の日。無事に自分の脚で歩いて病院を出ることが出来た。
78kmなんてもんじゃない超長距離の強歩大会がやっと終わった感じだった。
3ヵ月ぶりの我が家。大会に向かったあの日は花でいっぱいだった庭もすっかり葉が茂り、留守にしていた時の長さを実感した。
愛犬「幸多郎」はちぎれそうなくらいしっぽを振って歓迎してくれた。
家の中では、7月10日に生まれたばかりの甥っ子を抱いた姉がリビングのソファに座って待っていてくれた。自分の目にも姉の目にも涙がいっぱいだった・・・。
姉は怪我をした翌朝一番に病院へ駆けつけてくれた。現場に一番近かったのが姉の家だったからね・・・。近いと言っても車で1時間はかかるのに、7カ月の大きなおなか抱えて来てくれた頼もしい姉・・・。
それにしても自分は3ヶ月ものあいだ、何処へ行ってたんだ?
4月21日以前の自分が別の何処かに存在するのでは?
ここにいるのは誰なんだろう?
退院後の自分が自分でないような、とても不思議感覚だった。
21年経ても傷は消えていない。
レントゲンを撮ればしっかり写し出される Kaneda device 。
将来火葬するとこの金属一式が残るわけで、自分で実物を見ることはない
何これ!?・・・と思われるだろうねぇ~。
平均寿命を全うするとしたら、
この婆さん、若いときゃ相当無茶して親不孝してたらしいよ・・・と言われるんだろうなぁ~
今を大切に生きること。
それがお世話になった親や姉を始め周りの人々への最低限の恩返し。
日常の当たりまえを、当たりまえと思ってはいけない。
こうして今自分がこの世に存在していることは奇跡的なこと。
忘れちゃいけない・・・。
今存在する意味、過去があってこそ今存在できる。
その過程を再認識するべし・・・。
購入から約5年経過した洗濯ハンガー。
洗濯ばさみが劣化してきて、冬の終わりごろから、つまもうとするとパチッ!と音を立てて割れるものが続出
その度に取り換えてたけど、色がまちまちで、
見た目がなんとなく纏まりなくてよろしくない・・・
そこで!思い切ってぜぇ~んぶ新しい洗濯ばさみに取り換えることにした
残っていたものも、あと一ヶ月持つかどうか・・・という感じに劣化していた。
全部取り換えたら、なんだか新品みたい
台所でも何か新しいキッチングッズを買うと、料理をする気がアップする
それと同様に、明日からは洗濯物を干す時間が楽しくなりそう
たったこれだけのコトでね・・・。つくづく単純だなぁ~
今日の雨、強く降ったかと思うとピタッと止んで薄日がさしてきて・・・。でもまた土砂降りになって・・・と目まぐるしく変わる降り方。夜になっても時々窓を打ち付けるような強い降り・・・。
明日は晴れるようだけど・・・。
雨の中食餌にやってきたチュンとキバちゃん。
キバちゃんがいなくなるとチュンが来た。
今日はキバちゃんが全部食べ尽くすこともなく、チュンも存分に食べられた様子
平和なチュンとキバちゃんのマンションです。
一方、人間が暮らす我がマンションは、今日は管理組合の定期総会だった。
4年に1度回ってくる管理組合のお役目。
Mるパパが理事長を務めた2007年から4年。
今回は理事長は免除になったものの、その他の副理事、会計、監事をジャンケンで決定。
結果・・・、副理事長になった。
ところが、理事長になられたお宅は今秋までにお引越しされるのだとか・・・。
その場合は改めて役員補充をするかしないか、そのときになったらまた考えるらしい・・・。
管理組合のないチュンとキバちゃんのマンションに引っ越したいなぁ・・・。