やがて祇王は追われる身となり、館を出る前に障子に残した歌が・・
萌え出づるも
枯るるも同じ 野辺の花
いづれか秋に
あわではづべき
その後、妹・母と共に髪を剃りこの地で尼となる。 祇王21歳であった。
祇園精舎の鐘の音諸行無常響きあり・・・
と始まる平家物語、実はこの後にある平清盛と2人の女性の恋物語が祇王寺と深い関わりがある。
時は平安時代、平氏が全盛の時代、京の都に白拍子の姉妹がいた 。
舞が上手でやがて清盛の聞くところになり、気に入った清盛は姉の「祇王」を自分の館で寵愛するようになる。
ある時加賀(現在の石川県)より仏御前という白拍子が自分の舞を見てほしいと清盛の館を訪ねた。
「一白拍子の身分で我が館まで押し掛けてくるとはこざかしい!」
清盛は仏御前という白拍子を追い返そうとした。
そのとき、心優しい祇王は仏御前を館に上げるように取りはからった。
この事が後で仇となるのである。
「いとしい祇王が言うのであれば仕方ない舞って見よ」
仏御前が舞い始めた・・それはすばらしい舞であった。
清盛はあまりにも美しい舞に見とれてしまい、このときから清盛は仏御前に心奪われてしまい、寵愛するようになった。
この日から祇王への愛はどんどんさめっていき、祇王はついに館を追い出されてしまう。
祇王は自分の優しさが仇となり捨てられてしまうのである。
※写真は祇王と仏御前とは別人です。
と始まる平家物語、実はこの後にある平清盛と2人の女性の恋物語が祇王寺と深い関わりがある。
時は平安時代、平氏が全盛の時代、京の都に白拍子の姉妹がいた 。
舞が上手でやがて清盛の聞くところになり、気に入った清盛は姉の「祇王」を自分の館で寵愛するようになる。
ある時加賀(現在の石川県)より仏御前という白拍子が自分の舞を見てほしいと清盛の館を訪ねた。
「一白拍子の身分で我が館まで押し掛けてくるとはこざかしい!」
清盛は仏御前という白拍子を追い返そうとした。
そのとき、心優しい祇王は仏御前を館に上げるように取りはからった。
この事が後で仇となるのである。
「いとしい祇王が言うのであれば仕方ない舞って見よ」
仏御前が舞い始めた・・それはすばらしい舞であった。
清盛はあまりにも美しい舞に見とれてしまい、このときから清盛は仏御前に心奪われてしまい、寵愛するようになった。
この日から祇王への愛はどんどんさめっていき、祇王はついに館を追い出されてしまう。
祇王は自分の優しさが仇となり捨てられてしまうのである。
※写真は祇王と仏御前とは別人です。
抹茶はサービスですって。
でも抹茶付きで千円の入園料だから、サービスって言わないんじゃない?
(係員の反論;抹茶を召し上がらなくても千円ですから、抹茶はサービスです・・)
お茶をにごすってこういうことかしら・・
でも抹茶付きで千円の入園料だから、サービスって言わないんじゃない?
(係員の反論;抹茶を召し上がらなくても千円ですから、抹茶はサービスです・・)
お茶をにごすってこういうことかしら・・
10分ほどの散策コース、なんて書いてあったので、気軽に歩き始めたものの、曲がりくねった上り坂。
登りきったところの茶室で一休み。
「大河内傳次郎って知ってる?」
「うちのおじいさんがよく物まねでやってたよ。シェイハタンゲ、ナハシャジェン・・なんてね」
登りきったところの茶室で一休み。
「大河内傳次郎って知ってる?」
「うちのおじいさんがよく物まねでやってたよ。シェイハタンゲ、ナハシャジェン・・なんてね」
大正・昭和期の映画俳優、大河内傳次郎の山荘。
戦前から活躍した時代劇スターで、「丹下左膳」は特に有名。
昭和9年(1931年)、傳次郎34歳のとき、永く消えることのない美を追究するため自身で設計しこの庭の造営を始めた。
映画出演料の大半を注ぎ込み64歳で亡くなるまで30年の歳月をかけてこつこつと作り上げたものである。
場所は小倉百人一首でも知られる小倉山の南東面、嵐山公園(亀山公園)に挟まれた約2万平方メートルの荒地であったところに位置している。
(立っている人はいわきの大河内傳次郎こと村田寿和)
戦前から活躍した時代劇スターで、「丹下左膳」は特に有名。
昭和9年(1931年)、傳次郎34歳のとき、永く消えることのない美を追究するため自身で設計しこの庭の造営を始めた。
映画出演料の大半を注ぎ込み64歳で亡くなるまで30年の歳月をかけてこつこつと作り上げたものである。
場所は小倉百人一首でも知られる小倉山の南東面、嵐山公園(亀山公園)に挟まれた約2万平方メートルの荒地であったところに位置している。
(立っている人はいわきの大河内傳次郎こと村田寿和)
天龍寺での集合写真。
京都五山の第一位であるこの寺は、霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)といい、1239(暦応2)年に吉野で不遇の中に崩御された後醍醐天皇を慰めるために、足利尊氏が高僧夢窓国師を開山として、嵐山を背景とする亀山離宮を禅寺にあらためたのがはじまりである。 天皇が幼少の頃を修学に過ごされた地に、敵味方の別なく南北両朝の戦死者の英霊を慰めること、「怨親平等の精神」もこの寺の開創の目的であった。 これまで長く中絶していた中国との貿易を再開して、その利益をこの寺の建立資金とした夢窓国師の、この造天龍寺船による貿易事業は、その後も室町時代を通じて行われ、わが国の経済や文化に寄与するところが多かった。 創建以来650余年、その間に8度も兵火にかかって今は殆ど古建築をみることができない。(寺院案内パンフレットより)
京都五山の第一位であるこの寺は、霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)といい、1239(暦応2)年に吉野で不遇の中に崩御された後醍醐天皇を慰めるために、足利尊氏が高僧夢窓国師を開山として、嵐山を背景とする亀山離宮を禅寺にあらためたのがはじまりである。 天皇が幼少の頃を修学に過ごされた地に、敵味方の別なく南北両朝の戦死者の英霊を慰めること、「怨親平等の精神」もこの寺の開創の目的であった。 これまで長く中絶していた中国との貿易を再開して、その利益をこの寺の建立資金とした夢窓国師の、この造天龍寺船による貿易事業は、その後も室町時代を通じて行われ、わが国の経済や文化に寄与するところが多かった。 創建以来650余年、その間に8度も兵火にかかって今は殆ど古建築をみることができない。(寺院案内パンフレットより)