私が戴いた書
現在は三男の接骨院に掲げてあります。
平成元年(1989年)9月発行のふるさとアサヒ第10号
私が編集発行していたミニコミ紙です。
昭和51年文部大臣就任祝賀パーティの1枚
津島青年会議所のメンバーと
平成2年1月のふるさとアサヒ第13号
懐かしい顔です
議員時代 箱根のホテルで夕食に招いていただきました。
私は平成11年に仕事を辞めて市議会議員に転出しましたが、立候補した初めての選挙中に我家の事務所前で海部さんに応援演説をしてもらいました。
地元の人たちには私と同時期に県会議員に当選した井桁さんの縁で海部さんの応援をいただいたと思われているものの、実際には私の立候補を心配する稲沢市の先輩たちが海部さんの地元事務所(稲沢市)まで連れていっていただき、海部事務所の指導を仰ぐようになりました。
「靴を3足履きつぶす覚悟で地元を歩け」と、海部さんの弟で秘書の尚樹氏に激を飛ばされて選挙運動をスタートさせましたが、それをさかのぼること10年前に地元で発行していた「ふるさとアサヒ」の挨拶文を、当時一宮市にあった海部さんの事務所を訪れて依頼しており、この挨拶文をミニコミ紙へ掲載したことで海部系と思われ、ミニコミ紙の複数の配布場所から置くことを断られました。
さて、議員になってからも色々と海部さんのお世話になりましたが、しばらくして行われた市長選挙で海部陣営の推した候補者を私が応援しなかったため、津島市の海部陣営の政治関係者から締め出され、海部事務所を訪れることは無くなりましたが、元々が津島市の海部陣営の関係者とは無縁だっただけに無念な思い出となりました。
海部さんの訃報を現実のものとして、受けた恩は多いものの、何一つとして恩返しができないままに現在に至った後悔は大きく、私にとっての海部さんは国会議員でありながら、政治上のつながりではなく、私のためなら何でもやると言われたランカ堂写真店の高橋さんとの写真つながりの延長で、高橋さんは海部さんのご尊父とも親交のある津島市で一番の海部ファンでもありました。
私と海部さんをつないでくれたのは、決して政治的な打算や計算ではなく、その間をつないでくれた私の恩人や先輩が存在していたことから、引退された直後にでも当方から訪れて何かしら微力でも恩返しなり御礼ができておれば良かったと思いますが…
知人は勿論ですが、恩人や先輩の訃報が身体に堪えるようになり、元気に散歩に連れられていく愛犬を見ても相棒の姿を探していることがあり、何時でも会えるとの感覚を改め今を大切にして生活していきたいと思います。
1月16日の一言
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