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あなたは自分の言葉で日本を語れますか?(上)

2013年10月09日 10時50分37秒 | 色んな情報

■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
 あなたは自分の言葉で日本を語れますか?(上)

海外で暮らすには、心の中で自分を支えてくれる母国が必要だ。

■1.インターナショナル・ハウスにて■

 私がアメリカに留学したのは、昭和55(1980)年夏のことで
した。サンフランシスコ近郊のカリフォルニア大学バークレー
本校の経営学大学院に入学しました。

 最初の一年目はインターナショナル・ハウスという500人
ほども収容できる大きな留学生用の寮に入りました。中央にド
ームが聳え、左右に翼を広げた形で5階建ての宿舎が広がる修
道院のような壮麗な建物です。寮生は半分がアメリカ人で、残
り半分が世界中から集まった留学生です。留学生たちをアメリ
カ人学生と一緒に住まわせて、互いに理解し合う機会を提供し
ようという趣旨でした。

 留学生のためにこれだけの壮麗な建物を建てるというアメリ
カの豊かさ、そして半分はアメリカ人学生を入れてしっかり交
流させようという見識に、到着したばかりの私は「これは敵わ
ないな」とやや気押しされた印象を持ったものです。

 留学生としては、ヨーロッパからはドイツやフランス、南米
からはブラジルやコロンビア、そしてアジアからは台湾、韓国、
中華人民共和国、タイ、インドネシア、そしてわが日本など、
実に多くの国々からやってきていました。

 食事は、これまた修道院のように天上の高いホールで、長テ
ーブルがいくつも並んだ食堂でとります。席は自由ですが、み
な同じバークレーの学生ですから、見知らぬ同士でも、すぐに
「どこから来たか」「専攻は何か」などと話が始まり、いつの
まにか知り合いがたくさんできます。

■2.「どこから来たの?」■

 海外に行って、他国の人々と語り合った日本人は誰でも経験
することですが、やはり会話は「どこから来たの?」で始まり
ます。標準的な答えはもちろん「日本から」です。

「俺は地球市民だ」とか「日本など関係ない」などと肩肘張っ
た日本人が「北東アジアから来た」などと答えたら、よほどの
変人だと思われて、相手は早々に席を立ってしまうでしょう。

「日本」と聞いたら、相手は自分の知っている範囲で、日本に
関する話題を探そうとします。マサチューセッツから来た女子
学生は、「日本のカレンダーを見たら、雪に覆われた高い山や
まの美しい景色だったけど、日本てそういう国なの」などと聞
いてきました。外国人に対して、その母国のことを話題にする
場合に、このようにまずは良い面から切り出すのが、教養と礼
節ある態度です。

 某近隣諸国出身者の中には、相手が日本人と知ると、いきな
り「私の国を植民地にした」などと食ってかかる人もいるそう
ですが、私が大学で出会ったその国からの留学生たちは、礼節
を知る人々ばかりで、そのような子供じみた態度をとる人はい
ませんでした。

■3.「自分は日本についてよく知らない」■

 いずれにせよ、会話は「日本」を軸として始まるわけで、こ
こで私たちは日本とはどんな国か、という事を語らなければな
らなくなります。しかし、そういう状況になると、日本につい
て、何をどう話したらよいのか、当惑してしまいます。

 一つの語り口は、歴史を通じて、こんな国だと語ることです。
たとえば、

 日本の建国ははるか太古のことで正確には分かりません
が、8世紀に書かれた歴史書(古事記、日本書紀のこと)
では、紀元前660年とされています。その時に第一代天
皇が即位し、現在の天皇は第125代で、世界最古の王室
です。

 などと語れば、相手の興味をそそるでしょうが、こういう
「皇国史観」は学校では教えてくれません。

 我々が学校で習ったのは「1868年に明治維新が起こった」
というような「客観的」な知識ですが、これだけでは会話にな
りません。明治維新を語るなら、その前の江戸時代がどんな時
代で、その後の近代化がどう進んだか、という大きな流れを語
らなければ、そもそも「話にならない」のです。

 ここで、多くの日本人は、はたと「自分は日本について、よ
く知らない」ということに気がつきます。海外でこういう経験
をして、もう少し日本のことを知りたいと思い、インターネッ
トを検索していたら、この「国際派日本人養成講座」に出会っ
た、という読者が多いのです。

■4.故郷は自分の一部■

 しかし、自分の国の事を語る、というのは、単なる知的会話
だけの問題ではありません。アメリカ人たちは自国に対する自
信と誇りと愛情に充ち満ちています。それが彼らの人生を支え
る大きな柱の一つとなっています。そういうアメリカ人に囲ま
れて生活していると、自分にも自分を支えてくれる祖国が必要
だということをひしひしと感じます。

 この点を実感することは、日本の中で、特に国を意識しない
でも毎日を過ごしていける日本人には難しいのですが、たとえ
ば山形県あたりから東京に就職で出てきた青年を想像してみれ
ば、多少は理解できるでしょう。東京の人間は、東京が日本の
中心だと威張っている。山形県のことなど、東京の人間はほと
んど知らないし、関心もない。そういう中で、その青年がなん
となく自分が無視されている、という寂しい思いをすることは
想像できるでしょう。

「故郷のことなど私には関係ない。私個人としてしっかり働い
て、周囲から認めて貰えればいいのだ」と青年は割り切ってし
まうかもしれません。しかし、自分が生まれ育った故郷には、
今も父母や親戚や友人たちが暮らしていて、その人々との思い
出があちこちに残っている。そうした思い出を自分には関係な
い、と割り切ってしまっては、自分の体の一部を断ち切ってし
まうのと同じような気になるでしょう。

 そういう意味で、故郷とは自分の一部なのです。母国も同じ
です。

■5.「日本はすごいな」■

 私が留学していた1980年代は、日本の家電製品や自動車が米
国市場に一大旋風を巻き起こしていた時期で、私の出会ったア
メリカ人たちもよくこの事を話題にしました。

 一般大衆の中には「ホンダを買ったけどグレートな車だ」な
どと、手放しで褒めてくれる人がいました。ただ大学教授など
のインテリ層はそう単純ではなく、「自動車はアメリカ人が発
明したのに、日本人の方が良い車を作れると認めることは苦痛
だった」などと、正直に語ってくれた先生もいました。

 学校でのマーケティングの授業でも、「品質の良い物を高く
売る戦略と、良くないものを安く売る戦略がある」と先生が言っ
たら、一人の学生が「いや、良い物を安く売る戦略もあります
よ。メイド・イン・ジャパンのように」などと大まじめに発言
して、思わず苦笑してしまいました。

 ある授業では、何度も日本製品や日本的経営の優秀さが論じ
られたので、インドネシアからの留学生が「授業でも、ジャパ
ン、ジャパン、ジャパンだ。日本はすごいな」などと羨ましがっ
ていました。

 確かに他国からの留学生にとってみれば、これほど持ち上げ
られる日本を母国とする日本人留学生は羨ましい限りだったで
しょう。私自身、それは確かに嬉しいことではありました。

■6.真のお国自慢とは■

 しかし、その反面、経済ばかりが持ち上げられても、単純に
満足は出来ない、という気もしていました。それは自動車にし
ろ家電製品にしろ、もともとは欧米文明の所産です。彼らの作っ
た土俵に割り込んで、彼らの技術に多少の工夫を加えて、部分
的に良い成績を上げた、という事に過ぎないのです。

 たとえて言えば、仙台の中心部には「小東京」と呼ばれるほ
ど高層ビルが建ち並んだ一帯がありますが、東京の人間から
「仙台はすごいね。東京みたいだ」と褒められたようなもので
す。それで素直に喜べるでしょうか?

 それよりも「東北大学のあたりは仰ぎ見るようなメタセコイ
アの巨木が立ち並んでいて、まさに杜の都だね」などと言って
貰った方が、はるかに嬉しいのではないでしょうか。

 自動車生産とか国民総生産のように共通尺度で優劣を競うよ
うなお国自慢では、互いの国に対する理解を深めるような会話
は成り立ちませんし、また、自分自身にとっても虚栄心を満足
させるだけの事で、深いところで自分を支える自信とか誇りに
はつながりません。

 そうではなく、固有の歴史や文化、国柄など、自分の先祖が
営々と築いてきたものに関する愛着の籠もったお国自慢でなけ
れば、我々を心の底で支えてくれるものにはならないようです。

■7.日本の歴史と文化について学んだ経験■

 私が日本の歴史や文化に関する知識をあまり持ってなかった
ら、日本は経済大国だ、というような虚栄心で自分を支えてい
たかも知れません。その場合、90年代のバブルで日米の勢い
が逆転した時には、そんな虚栄心も失って、自信喪失に陥って
いたでしょう。

 しかし、幸い、私には秘かに自分を支えてくれるお国自慢が
ありました。それは学生時代に、社団法人「国民文化研究会」
という教育団体の主催する学生青年合宿教室で、日本の歴史と
文化について学んだ経験です。この団体は、昭和30年代に高
校や大学の先生方が中心となって戦後の教育荒廃を憂えて設立
した団体で、毎年夏に大学生や若手社会人を集めて合宿セミナ
ーを行っていました。高名な文芸評論家の小林秀雄、村松剛と
いった方々も、趣旨に賛同して、よく講義をされていました。

 この合宿教室で、受験用知識としての歴史ではない、まさに
我々が自分の故郷を懐かしく思い出すような姿勢で、日本の歴
史と文化について学んだのです。そこで知った戦後の昭和天皇
の全国ご巡幸のお話に心惹かれ、それを自分なりに文章にして
みました。

■8.日本の歴史と文化について学んだ経験■

 その内容を、まとめなおしたのが、弊誌136号「136 復興へ
の3万3千キロ」[a]です。

 昭和天皇は終戦直後の混乱の中で、「全国を隈無く歩いて、
国民を慰め、励まし、また復興のために立ちがらせる為の勇気
を与へることが自分の責任と思ふ」とのお考えのもと、昭和
21年から約8年半、総日数165日をかけて、沖縄以外の全
都道府県、お立ち寄り箇所1411カ所、行程3万3千キロを回ら
れたのです。

 占領軍の間では「ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男とい
うことを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなく
て人間だ、ということをね」などという声も出て、このご巡幸
を許可しました。イタリアのエマヌエレ国王は国民から追放さ
れており、日本の皇室の運命も風前の灯火のように考えられて
いたとしても不思議はありません。

■9.私の秘かなお国自慢■

 しかし、その結果は、占領軍の予想に反したものでした。昭
和天皇と国民の間には、次のような心の交流がなされていたの
です。[a]

 因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけて
いた。昭和天皇は最前列に座っていた老婆に声をかけられ
た。「どなたが戦死をされたのか」

「息子でございます。たった一人の息子でございました」
声を詰まらせながら返事をする老婆に「どこで戦死をされ
たの?」

「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息
子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。
・・・天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げており
ます。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きをして
ください」

 老婆は泣き伏してしまった。じっと耳を傾けていた天皇
は、流れる涙をそのままに、老婆を見つめられていた。

 引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下
げた。「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったで
あろう」とお言葉をかけられた。一人の引き揚げ者がにじ
り寄って言った。

 天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦
しんでいるのは私だけではなかったのでした。天皇陛
下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。
今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みませ
ん。天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります。

 わが国は戦後の焼け跡の中から奇跡的な経済復興を遂げ、世
界有数の経済大国と発展していったのですが、「天皇陛下さま
と一緒に私も頑張ります」という多くの国民の気持ちが、その
原動力になったのだと、私は信じています。

 この文章を書いた事で、経済大国になったという結果よりも、
その原動力として、天皇を中心に国民が心を通わせる美しい国
柄を持った国である、というのが、私のお国自慢になっていま
した。

 心中にこうした秘かな自信を抱いていましたので、自国への
誇りと愛情たっぷりのアメリカ人に対しても、私は余裕と共感
を持って接することができたのです。
(文責:伊勢雅臣)


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