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 あなたは自分の言葉で日本を語れますか?(下)

2013年10月09日 11時08分08秒 | 色んな情報

 あなたは自分の言葉で日本を語れますか?(下)
■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

自分の中の「見えない根っこ」を見出し、
自分の言葉で「日本を語る」必要がある

■1.「大いなる和」の国■

 さて、私が留学した時に本格化した日本の自動車メーカーの
対米進出はその後も着実に進み、現在では米国市場で3割もの
シェアをとるようになりました。そして日系メーカーの圧倒的
な攻勢で、かつては世界に覇を唱えた米国の自動車メーカーも
その経営がぐらついてきています。ここまでくると、もはや日
本の車作りは欧米の模倣ではなく、そこには何か日本人の文化
的個性が働いている、と考えるべきでしょう。

 東京大学ものづくり経営研究センターの藤本隆宏教授は、日
本の製造業の強みを「擦り合わせ」という言葉で表現していま
す。たとえば、車のボンネットを開けてみれば、多くの部品が
ぎっしりと詰め込まれています。それらは自動車メーカーを中
心に多くの部品メーカーが、互いの機能の連携や空間の取り合
いに関して「擦り合わせ」をしながら、車全体の信頼性や性能、
コストを追求しているのです。

 製造においても、日本の「QCサークル」は世界的に有名に
なり、海外でも真似をする工場がたくさん出てきました。これ
は現場の作業者が、小さなグループを作って、その担当工程で
の不良低減や生産性向上のために衆知を集めて、改善を進める
やり方です。

 前号では、わが国は「天皇を中心に国民が心を通わせる美し
い国柄を持った国である」と述べましたが、この特質が製造現
場では協力企業との「擦り合わせ」や、現場での「QCサーク
ル」に現れているのです。

「和をもって貴としとなす」という聖徳太子の言葉があります
が、こうしてお互いに心を通わせながら、共通の目標に向かっ
て、力を合わせていく事を強みとするわが国は、確かに「大和」
すなわち「大いなる和」の国であります。

■2.日本人はグループを組むと何倍もの能力を発揮する■

 それにしても不思議なのは、日本の作業者が、学校で教わっ
たわけでもないのに、何故に「和をもって貴としとなす」とい
う姿勢を身につけているのか、ということです。

 カリフォルニア大学で、私が教わった先生も、「日本人の学
生は、一人ひとりではあまり意見発表もしないが、グループで
共同研究をさせると、途端に何倍もの力を発揮する」と言って
いました。逆に中国人やインド人の留学生は、一人ひとりは授
業中にどしどし発言をしますが、グループを組ませると論争ば
かりして、なかなか結果が出せません。日本人学生は、グルー
プ作業について学校で訓練を受けたわけでもないのに、なぜ、
こういう集団的能力を発揮できるのでしょうか。

 おそらく、家庭や学校、企業という集団生活の中で、お互い
に我が儘を言わずに、力を合わせなければいけない、という不
文律を知らず知らずのうちに、身につけて来たからではないで
しょうか。これが「文化」ということだと思います。こうした
「和」を尊ぶ文化的個性が、多くの人間の連携が不可欠なモノ
づくりにおいて、特に強みを発揮しているのでしょう。

■3.「もったいない」■

 日本のもの作りを強くしているもう一つの文化的個性として、
「もったいない」という感じ方があります。たとえば、製造工
程で不良が作られると、廃棄物として捨てられます。これを
「もったいない」と感じる感性を日本人は持っています。たか
だか月に1万円の損失であったも、なんとかゼロにできないか、
とQCサークルで作業者が一生懸命に智慧を出し合います。

 しかし日本以外の国々では、そういうアプローチはありませ
んでした。そういう改善活動やら設備の改良に100万円かか
るのなら、1万円程度の不良は捨ててしまった方が得だ、とい
う考え方が一般的です。

 しかし、もの作りとは、技術の蓄積です。1万円の不良退治
に100万円かけても、それで品質信頼性が高まり、市場の評
価も高くなって売上が増え、何千万円もの利益増加につながる、
ということがよくあるのです。また、不良退治のノウハウが見
つかると、それを他の工程や製品に展開して、工場全体では数
百万円の不良削減につながる、ということもあります。

 こうして現場が「もったいない」の気持ちを持って一生懸命、
品質とコストの改善に取り組んだ結果、日本の工業製品が世界
の消費者の信頼を得て、圧倒的な市場競争力を持つようになっ
たのです。

■4.物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く■

 ケニア出身の環境保護活動家で、2004年に環境分野で初めて
ノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイ女史が来日した
時に、この「もったいない」という言葉を知って感銘を受けま
した。そして、他の言語で該当するような言葉を探しましたが、
「もったいない」のように自然や物に対する敬意、愛が込めら
れているような言葉が見つからなかったため、そのまま
『MOTTAINAI』を世界共通の言葉として広めようとしています。

「もったいない」とは、もともとは仏教用語で、「物体(もっ
たい)」、すなわち「物の本来あるべき姿」がなくなるのを惜
しみ、嘆く気持ちを表している、とされています。

 たとえば今日の工業製品の原材料は、多くは金属や石油・石
炭など土中から取り出されます。大自然が何百万年もかけて作
り出したそれらの原材料を掘り出して来たのに、我々の技術が
未熟なために、不良品として捨ててしまうのは、世の中に役立
つ製品としてその「物の本来のあるべき姿」を実現できなかっ
た、ということです。それを惜しみ、嘆き、かつ大自然に対し
て申し訳ない、という気持ちが「もったいない」なのです。

 生産現場のQCサークル活動などで、不良を少しでも減らそ
う、と作業者たちが頑張る、その原動力として、「不良を出す
ことはもったいない」という気持ちがあるのです。そして、こ
ういう気持ちがあるからこそ、その問題を解決できた際には、
「今までの不良として捨てていた原材料を立派な製品として世
の中に送り出せた」という達成感を得られるのです。

■5.「木も人も自然の分身ですがな」■

 このように不良を出すことを「もったいない」と感じる日本
人の感性には、文化的な伝統が息づいています。代々法隆寺に
仕えた宮大工・西岡常一氏はこう語っています。[a]

 こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生か
すのが大工の役目ですわ。千年の(樹齢の)木やったら、
少なくとも千年(用材として)生きるやうにせな、木に申
し訳がたちませんわ。[()内JOG注]

「木のいのち」を大切にして、その「本来の姿」を実現できな
ければ「申し訳ない」というのは、まさに「もったいない」に
通じます。その根底には、木も人もこの世に生命を与えられた
同じ「いのち」である、という自然観があります。

 木は物やありません。生きものです。人間もまた生きも
のですな。木も人も自然の分身ですがな。この物いわぬ木
とよう話し合って、生命ある建物にかえてやるのが大工の
仕事ですわ。 木の命と人間の命の合作が本当の建築でっ
せ。

 わたしたちはお堂やお宮を建てるとき、「祝詞(のりと)」
を天地の神々に申上げます。その中で、「土に生え育った
樹々のいのちをいただいて、ここに運んでまいりました。
これからは、この樹々たちの新しいいのちが、この建物に
芽生え育って、これまで以上に生き続けることを祈りあげ
ます」という意味のことを、神々に申し上げるのが、わた
したちのならわしです。

 木も花も、動物も魚も虫も、そして川や山や岩さえも、自然
はすべて「生きとし生けるもの」であり、人間と同様に神様の
「分け命」である、と見なすのが、太古からの日本人の自然観
です。

■6.日本の緑被率第2位は現代世界の奇跡■

 こうした自然観は過去の遺物ではありません。現代の日本を
支えています。日本列島は世界の陸地面積の0.2%しかあり
ませんが、そこに世界の人口の2%が住み、世界のGDP(国
民総生産)の14%を生み出しています。単位面積あたりの人
口は世界平均の10倍、そしてGDPは70倍の水準です。

 そんな狭い国土に周密な人口と無数の工場を抱えながら、緑
被率(森林が国土に占める割合)は67%と、フィンランドの
69%に続いて世界第2位なのです。ちなみにフィンランドの
人口密度は日本の20分の1、世界平均の2分の1に過ぎませ
ん。[a]

 これは現代世界での奇跡とも言うべき現象で、我々日本人が
本当に誇って良いことです。なぜこのような奇跡が実現したの
か、と言えば、日本人が近代産業を発展させながら、同時に自
然を大切にしてきたから、としか説明のしようがありません。

 お隣の中国は緑被率はわずか14%。中国を旅すると、禿げ
山に僅かな緑がしがみついているような風景を、あちこちで見
ますが、何とも痛々しいという気がします。このような禿げ山
を見れば、日本人なら「自然に申し訳ない」と思いますが、ど
うも中国人は、そう感じないようなのです。自然は人間の必要
に応じて好き勝手に利用すれば良い、と考えているようです。

■7.世代を超えた文化の継承■

 もちろん、日本人でも自然を収奪の対象としか見ない人間も
いるでしょうし、中国人でも禿げ山に対して申し訳ない、と感
ずる人もいるでしょう。しかし、人口密度は日本の5分の2で
しかなく、もともと緑豊かな中国大陸だったのに、その緑被率
がわずか14%という所まで荒廃させてしまったという惨状を
見れば、これはもう人間側の自然に対する意識の違いとしか言
いようがありません。

 不思議なのは、日本人は、こういう自然観を学校で教わっ
たわけでもないのに、なぜ持っているのか、ということです。
おそらく、日本人は先祖が築いた緑豊かな国土に生まれ、それ
が当たり前の中で育てられてきました。緑豊かな環境に生まれ
育った子どもは、自ずと自然を尊ぶ姿勢を身につけてるのでしょ
う。

 散らかり放題の家に育った子は、それを当たり前だと思って、
育ちます。そういう子が親になれば、その家庭は乱雑になり、
また孫も同じように育っていきます。乱雑な環境を何とも思わ
ない、という感性は、こうして各世代に引き継がれていくので
す。逆に、美しく整理整頓された家庭に育った子どもは、それ
を当然だと感じる感性を身につけます。その感性が、家庭を整
え、それが孫の世代に伝播していく。

 このように、美しい自然を尊ぶ感性が、美しい自然を作り、
それがまた次世代において、美しい自然を尊ぶ感性を育ててい
く、という形で、世代を超えた国土と感性の継承がなされてい
くのでしょう。民族の文化的個性とは、こうして形成されてい
くものだと考えられます。

■8.日本人としての「見えない根っこ」■

 日本という国の最も誇るべき点を一言で言えば、「世界有数
の緑豊かな国土に世界有数の近代産業を築いた国である」とな
るでしょう。そしてそれを実現してきた原動力は「和をもって
貴しとなす」という倫理観、「生きとし生けるもの」という自
然観を共有する日本人の文化的個性なのです。

 我々、一人ひとりの人間は表面的には個々の肉体を持った別
個の存在のように見えますが、実は心の深いところで、日本人
としての倫理観や自然観という「見えない根っこ」でつながっ
ているのです。

 おそらくはさらにその「見えない根っこ」の最深部には、人
類として共通する心があるのでしょう。どこの国の人でもモー
ツアルトの音楽に心動かされたりするのは、そのためです。自
然の美を愛でる感情も、人類共通のものとして、人間の心の最
深部にあるのでしょう。

 しかし、そこから美しい国土を大切にする根っこを太く逞し
く育ててきた民族と、その根っこが未発達のまま、自然を犠牲
にしてきた民族とがあります。

 このような形で、人類共通の根っこから、各民族がその歴史
を通じて、様々な文化的個性を備えた根っこを育てているので
す。

■9.自分の言葉で日本を語る■

 となると、日本の文化的個性とは、我々自身の個人的個性の
「見えない根っこ」となっています。ですから、「日本を語る」
という事は、単に外国人に日本はどういう国であるかを客観的
知識として語る、ということに留まらず、「我々日本人はどの
ような文化個性を持った民族であるのか、何を大切にして生き
ているのか」という、自分自身の「見えない根っこ」を語る、
という事に他なりません。

 それが外国に行って、外国人に「日本はどういう国か」と聞
かれて答えられない、ということは、豊かな根っこに育てられ
ながらも、それを自覚していないということです。戦後の教育
の一番の欠陥がここに現れています。

 外国人に対して「日本を語る」ことができない、ということ
は、自分の子どもにも「日本を語る」ことはできません。美し
い国土や細やかな人間関係が、言わず語らずの間に、「生きと
し生けるもの」と「和」を尊ぶ心を伝えるでしょうが、意識的
な教育の方で、それを無視していれば、その心はしだいに衰弱
していってしまうでしょう。それは日本国民という国籍は持っ
ていても、日本人としての文化的個性を持っていない「根無し」
人間にしてしまう、ということです。

 このままいつたら「日本」はなくなつて、その代わり、
無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕
な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであ
らう。[b]

 とは、三島由紀夫の警告ですが、文化的個性という「根っこ」
を失った国民が、精神的に充実した幸福な生活を営めるわけも
なく、また国際社会においても、その個性に共感してくれる真
の友人を持てるはずもないでしょう。

 我々の子孫を、そういう不幸な目に合わせたくなかったら、
まず我々自身が自分の中の「見えない根っこ」を見出し、自分
の言葉で「日本を語る」必要がある、と思います。
(文責:伊勢雅臣)


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