その人生を辿ると、我ら凡人、ただため息がでるのみ、凄い人だったのだ。
東京神田錦町に学士会館があって、そこに新島襄生誕の地の碑が立っている。
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幕末、ここに上州安中藩邸があったそうだ。新島襄は、天保14年、その藩士の子に生まれた。
(この学士会館は、東京大学発祥の地とされ、旧帝大の同窓生が集う会館になっている。)
彼は幕末の風雲の中、蘭学を学び、軍艦操練所で航海術を学び、1864年、21才のとき、函館にいって、アメリカの商船に雇ってもらい、国禁を犯して密出国し、アメリカの地で米人の援助を受けて大学で学び、クリスチャンになった。
(それより丁度10年前には、吉田松陰が伊豆下田からボーハタン号に乗り込んで密航しようとしたが、失敗して伝馬町の牢に入れられている。)
明治4年、明治維新で日本は欧米の社会、文化、技術などを学ぶため、岩倉使節団が渡米した。
新島は、ワシントンで使節の通訳に用いられてヨーロッパ各国を一緒に歴訪した。
本当なら密出国の咎めを受けるところ、森有礼からパスポートと留学免許状を出してもらった。
海外視察が終わると、新島は、新進の教育が日本に必要と考えて、京都で苦労してキリスト教系の同志社英学校を私学として発足させた。
仏教の中心地だったので、随分妨害もあったらしい。
学士会館の生誕碑の説明版にはこんな記述がある。
「知識あり、品位あり、自ら立ち、自ら治め、良心の全身に充満したるますらお」 を育てたい。
このフレーズに合致する大人が、いまどきの日本にどれだけ居るのか。新島襄の掲げた理想は崇高そのものなのだ。
このフレーズをもう一度読むと、私なぞ、どんなだろう、ひとりで反省しているのである。
同志社出身の人ならよく知っているのだろうが、私にはとても新鮮な話だった。
それから、彼の奥様がまた凄い女傑。これは一言で済ませられないので、別項で取り上げようと思う。