東岸には、清澄庭園がある。
この庭園は、紀伊国屋文左衛門の屋敷跡とされ、明治初期、三菱財閥の祖、岩崎弥太郎が迎賓館として整備し、今は都の公園、庭園となっている。
庭園の東には、松平定信の墓所、霊巌寺がある。
徳川中期、田沼意次が老中として、賄賂政治をほしいままにしたとされるが、白河藩主だった松平定信は、田沼失脚により、老中首座となり、政権と施政を大粛清した。
このため、息のつまるような緊縮政治が行われ、国中閉塞感に満ち満ちて、当時次の狂歌がはやったことは有名である。
「白河の 清きに魚の 住みかねて もとの濁りの 田沼こひしき」
すぐ横には、今でも定信の墓所にちなんだ白河という町名がある。
清澄という地名も、定信を風刺した狂歌に由来するとの説もあるらしいが、清住町の町名は、すでにそれよりも古い資料に残っているそうだ。
周辺は、江戸の庶民文化の栄えた土地でもあり、里見八犬伝の滝沢馬琴の生誕地とか、松尾芭蕉の芭蕉庵跡などもある。
芭蕉が奥の細道に旅立つ前の像ということであるが、庵のアルミサッシュやガラス障子が何とも今風だ。
蛇足で付け加えさせてもらうと、松平定信は、教育にも大変熱心な方だった。
昌平坂学問所(当時の官学)に、初めて学問吟味という筆答試験の制度を導入した。
当時、武家社会は、とかく世襲で立場が保証されていたので、学問でぼんくらでも、上士の子なら相当の職に登用された。これを実力主義に改めたのだろう。
当時だって、優秀な人もいたし、イマイチの人もいたはずだ。
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T.F(同期生)
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