サンズ・トーク

隅田川 橋物語(二) 清洲橋

中央区日本橋中洲と江東区清澄をつないでいる清洲橋は、ドイツ、ケルン市のライン河にかかる吊橋を模した優美なデザインの橋である。



東岸には、清澄庭園がある。
この庭園は、紀伊国屋文左衛門の屋敷跡とされ、明治初期、三菱財閥の祖、岩崎弥太郎が迎賓館として整備し、今は都の公園、庭園となっている。

庭園の東には、松平定信の墓所、霊巌寺がある。
徳川中期、田沼意次が老中として、賄賂政治をほしいままにしたとされるが、白河藩主だった松平定信は、田沼失脚により、老中首座となり、政権と施政を大粛清した。
このため、息のつまるような緊縮政治が行われ、国中閉塞感に満ち満ちて、当時次の狂歌がはやったことは有名である。

「白河の 清きに魚の 住みかねて もとの濁りの 田沼こひしき」

すぐ横には、今でも定信の墓所にちなんだ白河という町名がある。
清澄という地名も、定信を風刺した狂歌に由来するとの説もあるらしいが、清住町の町名は、すでにそれよりも古い資料に残っているそうだ。

周辺は、江戸の庶民文化の栄えた土地でもあり、里見八犬伝の滝沢馬琴の生誕地とか、松尾芭蕉の芭蕉庵跡などもある。



芭蕉が奥の細道に旅立つ前の像ということであるが、庵のアルミサッシュやガラス障子が何とも今風だ。

蛇足で付け加えさせてもらうと、松平定信は、教育にも大変熱心な方だった。
昌平坂学問所(当時の官学)に、初めて学問吟味という筆答試験の制度を導入した。
当時、武家社会は、とかく世襲で立場が保証されていたので、学問でぼんくらでも、上士の子なら相当の職に登用された。これを実力主義に改めたのだろう。
当時だって、優秀な人もいたし、イマイチの人もいたはずだ。

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コメント一覧

T.F(同期生)
東京でなく、江戸の方がなんとなく合いそう。
そうゆう風情を感ずる
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