S.A.T(seeker after trouth)求道者
という意味があります。
一回きりの人生ですが、過ぎ去った時間はあまりにも早く、振り返って、あの時、あの道を選んでおれば、こんなにはなってないのに・・・・・と思ってみても、そこには戻れない・・・・・・・
街で、すれ違う人を見ても、後悔なんかしてないぞというふうにして歩いている。
自分だけなんかな・・・・・
みんな心の中は満たされているんだろうな・・・・・・・
街を歩けば、あふれかえった豪華な品物を並べた商店街。
美味しそうなレストラン。
楽しそうな、遊園地。
幸せそうな立派な邸宅。
あんな風になれば、こんなところに行けたらと思ってそれを得ても、次から次に訪れる、欲望を完全に埋めることは不可能。
生まれて、いつか死を迎える時まで、その時間は、そんなに長くありません。
長い階段を登りつめることに、疲れて、生きることを止めようと思う人もいます。
私も、2度、3度、頑張ることより人生にギブアップしようとしたことがあります。
逃げ道がなくなり、話を聞いてもらっても
誰も、今の心境を変えてくれるとも思えず
何度も電車線路のわきを歩き続けました。
何台も、列車は通り過ぎます。
あそこに、一歩入れば、この心の重たさはなくなるんだ・・・・
でも、次の駅近くに行っても、その決断はできず・・・・何度かの繰り返しの後、
山に入って静かにその時を待とうと選択しました。
12月の山は、心の中の冷たさより、身体を凍らせます。
自分で選んだ道ですが、意識があるうちは
心の中で、氷細工が砕かれるようにくずれてゆき、後戻りしても見えてこない道に失望だけしかない・・・・・・・
大きな岩の陰で2日が過ぎた、葛藤することも疲れ出した頃、自分の座っている足元に
寒い時期なのに、小さな虫の這っているのを見つけたのです。
普段なら気にもしない存在のものですが、
そんな心境の自分には寂しさを紛らすものだったのです。
手の上に、その虫を乗せ、歩き回る姿を見ていると、単純なその行動と一途さは、あまりにも滑稽で、無意味なもののように感じましたが、そんな状況の私には、無邪気な子供のように思えたのです。
虫が歩き回って落ちないように何度か、手を添えては眺めていたのです。
気が変わって、私が、ポンと手をたたけば
その小さな存在は無くなってしまうでしょう。
冷え切った心を埋めるほどのものではありませんが、一時の夢中になれた物でした。
そんなことを繰り返しに飽きだした頃、手の上の虫に対する自分の視線が変わりだしたのです。
私にとっては、まるっきり縁のない、関係のない存在の虫が、まるで自分のように見え出したのです。
決して自分の人生を投げ出すために、ここまで来たんじゃないけれど、あまりにもこれ以上進むには、重たい荷物ばかり・・・
この先の目的もない、ただ無意味に突き進む姿は、目の前の小さな虫と何にも変わらないのじゃないのか・・・
そんな、視線の持ち方をしだした時、
手の上の虫を見ているように、岩の上に座り込んでいる私を見ている、別の私があるのです。
「いったい、お前の存在はなんだ・・
何のために今まで生きてきたんだ・・
そんなところに居てなんだ・・」
そんな問いかけが始まりました。
自分を見ている視線は、徐々に高くなり、山の上に上がり、空高く昇りだすと自分の姿は、どんどん小さくなっていくのです・
そして、その視線は地球を飛び出し、宇宙にまで広がるのです。
宇宙から見る地球は、あまりにも小さな星屑です。
その広大な宇宙も、沢山の小宇宙が存在し大宇宙を形成しているのです。
今の科学では、計算上、その広大さを算出することはできるらしい・・・
そんな、果てしのない広大さを感じた視線から、小さな山の岩陰に座り込んでいる自分を見つめたとき、地球という星の存在さえも無に等しいのに、何十億人という人間が存在しているのだから、表現できないほどの微小さなのだ・・・
広大な宇宙と、微小な自分との対比・・
あまりにも比較できない物同士の存在・
24時間で自転し、365日で太陽を公転する地球・・宇宙の一員として、守り抜く存在。
月でさえ、進む道は守っている。
そんなことが見え出したとき、無のような自分の存在感が変わりだしたのです。
滑稽に見えていた手の上の虫さえ、存在の意味があり、周りにある岩や木々も大きな意味をもって存在することに気づいたのです。
その時、何かの目的を見つけたのではないけれど、自分の存在の意義を見つけようと
山を下りました。
という意味があります。
一回きりの人生ですが、過ぎ去った時間はあまりにも早く、振り返って、あの時、あの道を選んでおれば、こんなにはなってないのに・・・・・と思ってみても、そこには戻れない・・・・・・・
街で、すれ違う人を見ても、後悔なんかしてないぞというふうにして歩いている。
自分だけなんかな・・・・・
みんな心の中は満たされているんだろうな・・・・・・・
街を歩けば、あふれかえった豪華な品物を並べた商店街。
美味しそうなレストラン。
楽しそうな、遊園地。
幸せそうな立派な邸宅。
あんな風になれば、こんなところに行けたらと思ってそれを得ても、次から次に訪れる、欲望を完全に埋めることは不可能。
生まれて、いつか死を迎える時まで、その時間は、そんなに長くありません。
長い階段を登りつめることに、疲れて、生きることを止めようと思う人もいます。
私も、2度、3度、頑張ることより人生にギブアップしようとしたことがあります。
逃げ道がなくなり、話を聞いてもらっても
誰も、今の心境を変えてくれるとも思えず
何度も電車線路のわきを歩き続けました。
何台も、列車は通り過ぎます。
あそこに、一歩入れば、この心の重たさはなくなるんだ・・・・
でも、次の駅近くに行っても、その決断はできず・・・・何度かの繰り返しの後、
山に入って静かにその時を待とうと選択しました。
12月の山は、心の中の冷たさより、身体を凍らせます。
自分で選んだ道ですが、意識があるうちは
心の中で、氷細工が砕かれるようにくずれてゆき、後戻りしても見えてこない道に失望だけしかない・・・・・・・
大きな岩の陰で2日が過ぎた、葛藤することも疲れ出した頃、自分の座っている足元に
寒い時期なのに、小さな虫の這っているのを見つけたのです。
普段なら気にもしない存在のものですが、
そんな心境の自分には寂しさを紛らすものだったのです。
手の上に、その虫を乗せ、歩き回る姿を見ていると、単純なその行動と一途さは、あまりにも滑稽で、無意味なもののように感じましたが、そんな状況の私には、無邪気な子供のように思えたのです。
虫が歩き回って落ちないように何度か、手を添えては眺めていたのです。
気が変わって、私が、ポンと手をたたけば
その小さな存在は無くなってしまうでしょう。
冷え切った心を埋めるほどのものではありませんが、一時の夢中になれた物でした。
そんなことを繰り返しに飽きだした頃、手の上の虫に対する自分の視線が変わりだしたのです。
私にとっては、まるっきり縁のない、関係のない存在の虫が、まるで自分のように見え出したのです。
決して自分の人生を投げ出すために、ここまで来たんじゃないけれど、あまりにもこれ以上進むには、重たい荷物ばかり・・・
この先の目的もない、ただ無意味に突き進む姿は、目の前の小さな虫と何にも変わらないのじゃないのか・・・
そんな、視線の持ち方をしだした時、
手の上の虫を見ているように、岩の上に座り込んでいる私を見ている、別の私があるのです。
「いったい、お前の存在はなんだ・・
何のために今まで生きてきたんだ・・
そんなところに居てなんだ・・」
そんな問いかけが始まりました。
自分を見ている視線は、徐々に高くなり、山の上に上がり、空高く昇りだすと自分の姿は、どんどん小さくなっていくのです・
そして、その視線は地球を飛び出し、宇宙にまで広がるのです。
宇宙から見る地球は、あまりにも小さな星屑です。
その広大な宇宙も、沢山の小宇宙が存在し大宇宙を形成しているのです。
今の科学では、計算上、その広大さを算出することはできるらしい・・・
そんな、果てしのない広大さを感じた視線から、小さな山の岩陰に座り込んでいる自分を見つめたとき、地球という星の存在さえも無に等しいのに、何十億人という人間が存在しているのだから、表現できないほどの微小さなのだ・・・
広大な宇宙と、微小な自分との対比・・
あまりにも比較できない物同士の存在・
24時間で自転し、365日で太陽を公転する地球・・宇宙の一員として、守り抜く存在。
月でさえ、進む道は守っている。
そんなことが見え出したとき、無のような自分の存在感が変わりだしたのです。
滑稽に見えていた手の上の虫さえ、存在の意味があり、周りにある岩や木々も大きな意味をもって存在することに気づいたのです。
その時、何かの目的を見つけたのではないけれど、自分の存在の意義を見つけようと
山を下りました。