散歩をしていると「あたらしい信仰って、現在進行形で生まれているんじゃないか?」と思うことがあります。
教祖様が居るような新興宗教のことではなくて、路上で、ボトムアップ的に生まれる信仰ってあるんじゃないかしら。
はじめてそう思ったのは、確かこれは学芸大学駅の高架下だったと思うのですが、こういうものがありました。
思わずおまんじゅうを置きたくなりませんか。
それぞれはおそらくゴミで、何でもないものなのですが、なんとなく、僕たちの知っている「碑」の形にまとまっています。空き缶がお供えのようにも見えて、新たなお供えを誘うかのようです。
これ、数年後には神になってないかな? なんて思ったんですよね。
日本人は無宗教だと言われていて、それはある意味正しいのだと思います。一方で、僕たちかつてないほどに文化的な素養を共有していて「神の型」をとても良く知っています。例えば鳥居、碑、そのようなものを粗末に扱えないように訓練されています。
この特性によって、新たな神が生まれることがあるのではないかと思ったのです。どういうことか。
アニミズム的な古代の神は、山、泉、滝、自然と我々の想像力から生まれました。
組織的な中世の神が、様々な解釈により理性的に生まれました。
そして現代、「偶然出来たそれっぽい形」を「ぞんざいに扱えない我々の特性」もしくは「ウッカリ」によって、信仰が発生するのではないか、ということです。
そのようなことを思っていたところ、家の近くであたらしい信仰が発生するところを偶然にも観測することができたので、過去に薄い本にまとめたことがあります。偶然碑の形に積み上がった"ただの"コンクリート・ブロックが、お供えをもらいはじめる話です。
家の近くでコンクリート・ブロックが碑の形に立っているのを見つけました。
もしかして、こいつは神になるかもしれない、と思って毎日写真を撮っていたのですが、果たしてこの神候補はいろいろな試練を乗り越えて、半年後にはこうなりました。
これこそ、ボトムアップ的に生まれた現代の神だと考えています。
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予想どおり、あたらしい信仰は生まれていました。きっとみなさんの家の近くにもあるでしょう。
それで、散歩中に「神の型」を発見すると「こいつもお供えもらわないかなあ」と応援したくなります。しかし私はその現象を認識して期待しまっている以上、自分からお供えを誘発することはできません。ただただ、見守っています。
このまま地鎮祭に突入できそうな佇まいの瓶。なんとかうっかり、工事業者がここにお供えをしてくれないだろうか。
これは双体道祖神の素質があると思いました。いわれが様々ある神様ですので、紫のハンガーをも受け入れる包容力がありそうです。一段下のまるくて平らな石は、神と我々を繋ぐものか。
これは神の型としてちょっと"ずるい"のですが、僕の言いたいことはこういうことです。絵が信仰を得た例です。
ところでこの地蔵の絵はほかのエリアでもたまに見ますが、常に信仰を得られるわけではありません。違いはどこにあるのでしょう。
人工雪の結晶を作るとき、綺麗すぎる水ではうまくいかなくて、埃のような異物の粒が結晶の核となると聞いたことがあります。場を乱しそうなものが、最初の重要な動きをすることがあります。
絵やコンクリート・ブロックにお供えを思わず置いてしまうような、突飛な誰かの行動、そういったものがあたらしい信仰の引き金になるのではないかと、僕は考えています。もしかすると、その人はふざけて置いたのかもしれませんが、一度お供えを貰うとフォロワーが発生しやすくなります。何でも無い池に誰かが硬貨を投げ入れると、次々と投げ入れられる、あの感じです。
ところで、今までのお話のなかで「信仰を得ること」と「お供えを貰うこと」を何の説明もなく同義として扱ってきました。お供えとは人の能動的な行動であり、お供えの存在は信仰の発生をあとから確かめられる証拠なので、僕はお供えによって信仰の有無や強さを判断しています。
お供え。これも面白い現象がいくつかあります。次回はお供えについて書こうと思います。