観音様のお供えの記録をはじめて、3年以上経ちました。
何故こんなことをしているかについて、ちょっと書いてみようと思いました。
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前回、僕の趣味であるところの「あたらしい信仰」について書きました。
前回の記事では、ただのコンクリートブロックや絵にお供えをして信仰を作り出してしまう人の存在を確認しました。これは決して珍しい現象ではなく、全国各地で見られるものだと思います。
この現象を作り出しているであろう人たちの特徴をおさらいします。それは以下のようなものでした。
- 信仰の型(=碑、池、神々しさ、素朴さ、etc.)にカジュアルに反応してしまう
- お供えのハードルが低い(気前が良い? 刹那感? ちょっとしたふざけ? etc.)
今も昔も、このような人たちが信仰を発生させてきたのではないでしょうか。僕は「型に反応する人達」と呼んでいます。信仰のファーストペンギンはきっと彼らなのでは、と考えています。
ところで、あたらしい信仰の発生および「型に反応する人達」を追っているうちに、気づいたことがあります。コンクリートブロックにお供えを置いてしまうような人達は、日頃から既存の神仏に対してもお供えをしているのではないか。むしろ、お地蔵様などへのメインお供え活動の余波として、コンクリートブロックにもお供えを置いているのでは。
たとえば、道ばたに雑多にお供えが置かれているお地蔵様があったとして、もちろん、このお地蔵様の信者や管理者によるまっとうな? お供えもあると思いますが、この中には「型に反応する人達」による(神仏のことをよく知らぬままの)刹那のお供えが混じっているのではないか。
そんなことを考えたものですから、古い信仰のお供えにも興味が湧いてきました。それで、近所の馬頭観音様のお供えが気になりだしたのでした。
これらのいくつかは「型に反応する人達」による刹那のお供えである可能性がある。わくわくしませんかね?
ねんのため申し上げると、信仰の有無とか、お供えの価値とかを話題にしたいのではありません。単純に「型に反応する人達」の生態に興味があるのです。
果たしてここは比較的自由なお供えの場で、彼らの仕業と思われるお供えがたびたび登場しました。
例えば、スロットのコインのようなものが登場しました。型に反応する人達ってコイン置きがちなんですよ。いわれのない池に沈んでいる硬貨とか。でもそうか、お金でなくても「ぽさ」があればいいのか。そうだよな。神仏っぽさ、に反応して行動いる彼らのお供えは「ぽさ」で成立するのか。そんな気づきを得ました。
※ スロットのコインのお供えはTwitter検索したらほかの場所でも見つかったので、もしかするとギャンブルのお祈りとかでそういうのがある可能性もありますが……
だからリンカーンの1セント硬貨でも完全成立します。価値的には200円らしいし。
そんな感じでお供えから「彼ら」を見ていたのですが、彼らの観察を抜きにしても純粋にお供えは面白くて。だいたい、複数人の思惑が交錯する場というのは物語が生まれます。さまざまなお茶が入れ替わり立ち替わり登場したり、石が積まれたり。それで、もう純粋にお供えを見ている、という面は正直あります。
最新のお供え状況は僕のTwitterで確認できて便利です。
春のお供え、茶が動く pic.twitter.com/FEnPgwOeRV
— yasunori (@yasunori) April 9, 2022
ところで、前に入院して、そのときとてつもなく大きな台風が来ていたのでお供えの状況を心配していたのですが、何も言ってないのに翌日妻から報告が来ました。有り難いことです。
全く変わってなかったそうです。あの風雨に耐えたの? 奇跡のいろはすとして5万円で売ろうぜ。
水の位置が変わっていたという重大な報告を病室で受ける。ありがとうございます。
飽きるまでもうちょっと続けるかもしれません。
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