Stieglitz++ 。+゜:*SarahのBlog*:゜+。 

ヤフーから移転してきました。

しんじられる?って

2023年02月03日 14時40分44秒 | +日記
30歳なんですけどーしんじられる?
生きてると本気でおもってなかったよ
一人暮らししてるんですけど、しんじられる?
拘束されてると言い訳して踏み出す勇気も持ってはいなかったよね
なんか同性好きになったりしちゃってたんだけど、しんじられる?
わかったようでなにもわかってなかったよね
友達ほしいなーなんてしんじられる?
人間滅びろ大嫌い絶滅しろって呪詛しか言わなかったのにな

って人生始まってる人みたいなかんじ
痩せてた時よりはまだまだ太ってるけど精神がいちばん元気
自分という個体が精神が元気になることがあるんだな
ふしぎね


もし過去に言えることがあるとしたら何があるか分からないけど
もし過去で変えられることがあるんならば、その環境からごっそり引き抜く事じゃないのかなってなっちゃうな
やっぱり今思ってもその時できる最大で生きてきたはずだと思うよ

ここに終わる浪漫

2019年06月05日 13時43分01秒 | +日記
なんかかっこいいタイトルをつけようと思ったけど現実の話などをしてみればここに浪漫などなかったな。

私の半生を書き留めたこのヤフーブログももうサービスが終了するというではありませんか。
幾度となく消してしまおうとおもいながらたまり続けたこの言葉の山は今となっては数少ない私の過去の証明であり、このまま消してしまうのは何とも勿体ないのではないかと思ったのです。

​20​06​/1​0/​13​(金​)

ここから私はネットに自分の一部を書き始めました。
それはどこにでもある好奇心ただそれだけでした。
中学生の私は初めてのインターネット環境に心を躍らせてこっそりとヤフーアカウントを取得したのです。

そもそもこの時点ではまだ無知な学生。
その世界は学校と家庭に留まります。
ゲームをしてインターネットをして部活をして勉強はしない学生でした。

ただそれだけだったはずなのですが、どうにもすでに私の境遇は普通とは遠くかけ離れたものであり、そんなことなど知りもしない私はここから変質し始めるのです。
ある日を境にいじめを受けました。
それはクラス内から、教師から、どこにも居場所がなくなりました。
いいえむしろ私の存在はなきものでありました。
家の外では一言も言葉を発さなくなりました。
おかげでここから言葉を失いました。

そして顎関節症と度重なるストレスから自律神経に不調をきたして部活もいけなくなります。
追い打ちをかけるように更年期でヒステリックになっていた親とも言い争いを繰り返します。
ついには部活はやめさせられ、それを境に教師からも疎まれるような対応をされました。
私の居場所はなくなりました。
同居していた義理の父親もすぐに怒鳴り散らす人でした。
私は反発をしません。
いいえしても結局敗れるのです。
ただ泣き崩れて思い至ったのは、あぁどうしてこんなことを言われるのだろう。
その答えとして、自分が悪い。それだけでした。
よくそう言われました。
だからそうなのだと思いました。
だって私の世界も精神もまだ14歳。
たかが知れている。
非常に単純な思考です。

誰が悪いというのは考えてもきりがないと思います。
ですが単純な思考がそれを考えると次第に憎悪へと変わっていきました。
今あることを対処することもできませんでした。
それはあまりに理不尽に私に降りかかっていたと今でも思います。
狭い世界で理不尽と共にぎちぎちに詰め込まれた私はその世界の中だけで何も変えることができないまま何年も過ごすことになるのです。
結果として自覚のないまま精神は崩壊していきました。
恐ろしいことに自覚がありませんでした。
知ってはいたのです。
ですが未体験の事象に確信は持てません。
そこに自尊心の低下が重なると自分の思考でさえも認めようとしなくなるのです。
私は自傷行為をしながらも不登校を繰り返し中学校を卒業しました。
なんだか次があるとは思えないまま高校生になりました。
そこで環境が変わり1からやり直せるのではなんて期待もあるにはあったのでしょう。

知らない顔ばかりでした。
話しかけられて、自分はここで言葉を発していいのだろうか?なんてことを思う程環境が違いました。
再び部活も始めました。
あぁでもそれはどうだったのでしょうか。何が悪かったのでしょうか。
1年もたつとすべてが嫌になります。
どんどんまわりが嫌いになりました。
部活でのトラブルもありました。
それにより自分の存在意義とはなんであるか、と思わされました。
それまでの私は逆境に立ち向かう姿勢がありました。
その時もありました。
ですがあっさりとそれは折れてしまったのです。
2009年の4月に私は首を吊りました。
耐えられなかったのです。
教室に響く声が。机の音が。
何もかもを妬み、忌まわしい気持ちを抱いて日々を過ごしていました。
そして、あぁ、死のう。そう思い首を吊りました。
すべてどうでもよくなりました。
でも死ねませんでした。
その時もはや思考はまともなものではなかったと思います。
この時病院に行けば私はまともな学生生活を送れたのでしょうか。
その機会も自ら拒否しました。
そして私は学校に行かなくなり休学、転校の選択を迫られました。

毎日意味も分からず大声をあげて泣きました。
壁に爪を立てて壁紙が剥がれました。
頭も打ちつけました。
死にたいと思いました。
手首も首も腕も足も切りました。
でももうその力もありませんでした。
光はまぶしくて体に力もなくて部屋にこもり続けました。
体重は一気に10キロ増えました。
何もすることがない毎日で携帯と絵を描くことだけが変化でした。
日にちの感覚もなく、夜は寝れず見る夢は悪夢ばかりでなかでも学校の夢を見続けます。
そのうち夢と現実がわからなくなり夢の延長で学校に行かなくてはと飛び起きて焦るのです。
時間割がわからない、教科書がわからない、と。
まともな人間の精神ではありませんが、それでも私は異常であり病院にかかるべき状態だと行動することはありませんでした。

ですがある日突然学校に行こうと思い立ち復学して下の学年に入りました。
なんだか気は楽でした。
初めて保健室も利用するようになりました。
ほんの少しだけ狭い世界が広がったのかもしれません。
休むことは多くありましたが部活も続けました。
私は初めて4年間在学した学生として功績を残します。
なぜだか完璧主義をこじらせていました。
部活にやったこともない勉強をまともにして資格試験も毎月のようにうけ、いつの間にか卒業する時には成績優秀者として学校長推薦表彰を受けました。
こんなことを成し遂げてしまった私は増えた10キロも減り健康体に近くなっていました。
そしてもっと勉強をしたいと思いました。
今言い換えるなら、もっと評価してほしいと思っていたのかもしれません。
留年した代わりに得たその評価で学校推薦もできると教師のほうから何度も何度も言われたのです。
私はそこにすこし夢を見ました。
ですがお金がないのだと奨学金の名前を出そうと何を言おうと拒否されました。
私には断固として就職しかないのだといわれました。
ここにきてもまだ怒鳴られ続けた私はあきらめました。
理不尽だとまた憎悪がわいてくるのでした。
そして教頭推薦でと郵便局窓口に務めることになりました。
それもまた得られた評価だと思いましたが、その時我が家は生活保護を受けていました。
私の給料は私の手元に来ることなど一度もなく、将来を拘束された気がしました。
それにそもそも未だ言葉を発するということに抵抗を持っていた私はまたストレスを積み重ねるのです。
なんで私が、とこれまで何度思ったかわかりません。
とにかく家を出てしまいたかった。
このおぞましい人間と環境から解放されたかった。
好きなことをしてみたかった。
そう思いました。
この家にいる以上この心が晴れることはないのだとずっと思っていました。
永遠に変えることができない、選択肢すら存在しない、私はこのまま朽ちるのだと。
誰かが手を差し述べてくれないか何度も願ったものです。

自分のプライドと完璧主義と自尊心の低さは同列のものだったのでしょう。
でもそれは精神を病むにはなんて質の良い材料でしかないのでしょうか。
3つ目の職場で初めて正社員となった私でしたが社長が夜逃げしたり理不尽な金の使い方や要望に遭遇し気づきます。
じぶんから反発しなければいけないのだと。
そして職場環境と家庭から再び心が軋んでいきました。
ある日母親に怒鳴られて泣きわめいていました。
私はこの時24歳でした。
私は初めて思いました。
このままでは死んでしまう、自分に殺されてしまう、と。
精神の不安定さは当たり前のように持ちつづけていました。
特に生理が近くなると訳も分からない状態に陥るのです。
そしてその時もそうでした。
初めて自分から選択しました。
そのころから自分で決めよう、そう思って生きていました。
最初に気づかされたのは郵便局をやめた後に通っていたハローワークで、どうしたらいいかわからず毎度泣き続ける面談で担当の職員が言った言葉です。
自分で決めていいんだよ、と。
それは衝撃的な言葉でした。
私は精神的な優等生であり続けていたのです。
自分の人生を自分で選択するという概念がありませんでした。
それを理解するまで何年もかかりました。

そして私はその時泣きながら手にしたスマホで病院を調べました。
その病院はメール相談を受け付けていました。
私はそこに自分の境遇、今までのことなどをメールしました。
完全予約制の心療内科でしたが早急に予約を入れてくれました。
私はうつ病でした。
そしてASDの傾向もありました。
薬を飲みつづけ、副作用に悩みました。
ここまで長らく精神を病み患っていたわたしは結局ここでも仕事をやめました。
もう考える力も衰えて朝起きて夜寝るという当たり前の生活すら困難になっていました。
診察していたことで失業保険を通常より長く適用してもらえました。
でもすがすがしい気分でした。
体調は全くよくありません。
何をしたらいいかわかりません。
それでも何か枷が一つ外れた気がしました。

少し落ち着いてから職業訓練校に通い始めました。
実はそれ以前に進学できなかった未練から通信制の大学に入学し、東京や大阪などでも授業を受けたりしていたのですが、体調の悪化と無気力により退学しました。
ですが職業訓練校で勉強しているとこれでも十分だと思いました。
気が楽になりました。
家での衝突はまだ続き、ネカフェで生活しながら職業訓練校に行っていた時期もありました。
でもそれも無駄ではありませんでした。
自分で選択して行動することができるという自信になりました。
もちろん体調は完全に回復してはおらず、職業訓練に通っている間も休むことは多くありました。
ですが就職活動を始めるときにはある程度回復して、自分から就職先を選択し面接するというハードルまで超えたのです。
いつの間にか言葉、会話への抵抗は薄くなっていました。
私は私が選択していいのだと確信すると世界がようやく広がったようでした。
それはそう、つい最近で去年のことなのです。

ようやく一般的な人間の精神を手に入れたのだと今私は思っています。
いや一般とはだいぶ離れているかもしれません。
それも理解したうえで、この世界である程度生きていく力を得たのだと思います。
私の望みというのはいつの時代も力が欲しいというものでした。
それがあれば認められると思いました。
それがあれば醜態をさらすことはなく蔑まれることもなく生きていられると思いました。
私は今でも他人の評価を気にしています。
でも今私がこのブログを過去の記録として扱うことができるようになったのは何よりの変化です。
私の中でここに残された文字列は忌み嫌うものであり、自分の汚点でした。
見るだけで気分を害されるものです。
でも今なら多少は見返して笑ってやることができます。
だからようやく一般的な精神を手にしたと思えるのです。

私は人間が嫌いです。
かつて世界を愛していると思っていました。
それは変わりません。
でも人間は嫌いです。
私に害をなす可能性があるのだと、記憶が物語っているからでしょうか。
でもそれは今の私自身がそういうものであるだけで世界の評価ではありません。
また別の価値観で世界を見ることもできます。
未だ自尊心は低くてプライドは高くて少し完璧主義は収まったかもしれませんが抑えているだけかもしれません。
ついでに薬を飲んでから20キロくらい増えて今まで最高体重でどうしたらいいのか途方に暮れています。
でも生きようとおもって選んだ行動で私はこれからも選択することを望んでいきたいと思うのです。

そういえば9/6は私の誕生日でしたが去年はその日まさに寝不足の中被災しました。
初めて長時間の停電と大きな揺れを体験しました。誕生日に。
でもすごくすごく星がきれいでした。

かつての私はとっくに変わって今はもういなくなってしまいましたが、私は私を再学習して生きていきたいと思います。
こんなに視野が住んでいることなんて、今までなかったんだから。


追伸
そういえばブログ素材などほぼすべて削除しました。
今までご利用いただきありがとうございました。

みんなやさしいなあ

2015年09月01日 09時51分27秒 | +日記
このブログは中学生のときに開設したものなんだけど
もうそれから何年もたってしまってあの時の私はもういなくなってしまって
それでもこうして見返してみるとあんな中学生相手にみんな構ってくれていて
それなのにこんなひねくれたままの人間になってしまったよ

きれいなものが好きだった
だから好きなものをたくさん並べて必要とされたいなと思ったんだと思う
ここに私の世界を作ろうとしたんだと思う
楽しかったと思う

利用規約等、自分主義なものが文面からも垣間見えた
それでもほとんど完璧だった
差し障りない言葉でそれなりのことが書いてあった
今の私なりにそれぞれ訂正した
ああよかったな
たのしかった