朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

御心を行う者にしていただけるのだそうです。この方によって。

2015-03-16 23:47:06 | 聖書から
主の道は正しい。
神に従う者はその道に歩み、
神に背く者はその道につまずく。ホセア書14:10

イエスの言葉;
わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、
天の国に入るわけではない。
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。マタイ7:21

      (ローズンゲン日々の聖句3/17;火)

 私たちが御心を行うことが出来るのは
聖である霊と呼ばれる方によるようですね。
 天の神、主は、一人の人、アブラハムを選び、
この一人の人から、イスラエルの民族をつくり、
この民族に、モーセをとおして、
人間が生きて行ってほしい御心を文章にして示し、
自分の努力でこれを行うよう、契約を結ばれたのですが、
これを全うできた者は一人もいなかったのだそうです。
 それどころか、聞き従おうとせず、自分の思うままにしていったので、
ついには国を失い、世界中に離散することになったのだそうです。
 今は、御子である方が、人間イエスとして人間の世に来て下さり、
私たち人間が受けるはずであった一人一人の罪の刑罰のすべてを、
ご自身におって下さり、十字架刑で処刑されて下さって、
神から呪われた者として、
天と地の間にかかげられて下さったことにより、
私たちが了承しさえすれば、
このイエスの処刑を私の処刑と見なして下さって、
私たちは処罰済みの者として、
御前に立たせていただけるのだそうです。
「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」のだそうです(新共同訳;ヨエル書3:5、新改訳;2:28)。
 けれども、イエスは言われたのですね。
「主よ、主よ」と呼んでいる者の中にも、
天の国に入れる者と入れない者とがいると。
 私たち、自分の努力で御心を行うことが出来ないので、
イエスが身代わりに十字架刑で処刑されて下さって
私たちの救いが成った者なのですから、
もう一度、自分の力で御心を行いなさいと言うことではないのでしょうね。
 天の神、主は、もう一つの道を
旧約聖書の初めから啓示して下さっているのだそうですね。
その道は、御子イエスの十字架刑での処刑で始まり、
復活し、天に帰られ、御父の右の座に就かれたイエスが派遣して下さる、聖である霊と呼ばれる方が私たち人間一人一人の中に来て下さって、
この方が私たちの心を一新して下さることで完成する道なのだそうです。
 生まれた時からの私という霊から来る思いで生きて来た私たちが、
新しく来て下さった聖である霊と呼ばれる方から来る、
天の父の、私たち一人一人に関わる御思いで生きる者になるのだそうです。
 私たちは、自分の力によるなら絶望的ですが、
この、私たちのうちに働く、聖である霊と呼ばれる方の働きによって
天の父の御心を行う者にしていただけるのだそうですね。
今日も。


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私たちのところへ来て一緒に住んで下さるのだそうです。あの方。

2015-03-16 00:31:32 | 聖書から
わたしの声に聞き従え。
そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、
あなたたちはわたしの民となる。エレミヤ書7:23







イエスの言葉:...
わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。
わたしの父はその人を愛され、
父とわたしはその人のところに行き、
一緒に住む。ヨハネ14:23




            (ローズンゲン日々の聖句3/16;月)







 これを行えば、幸せになり、
生きることができるお言葉を与えて下さったのですね。
出エジプトの時、モーセを通して、天の神、主は。




「しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、
悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、
前進するどころか後退した。
あなたがたの先祖がエジプトの国を出た日から
(7~800年たった)今日まで、
わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、
毎日朝早くから、たびたび送ったが、彼らはわたしに聞かず、
耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。」(エレミヤ7:24~26)

と、天の神、主が嘆かれる結果だったのだそうです。







 人間の愛は、愛する相手を、情に絡めて、
自分の思ったとおりに支配しようとするものですが、
完全な愛とか、尊敬は、愛する相手の思っていることが実現することを
ひたすら願うもののようですね。




 あの本を、特にヨハネによる福音書などを読むと、
御父は、御子を、聖である霊と呼ばれる方を愛して、
御自分の思いの全部を知らせておられ、





御子である方、聖である霊と呼ばれる方は、御父を愛して、
その御父の御思いが実現することをひたすら願い、
それを御自身の生き甲斐、存在意義としておられるようです。




 御子イエスは、全知・全能の神でありながら、自分からは何ひとつしようとしないで、

御父を愛するゆえに、ただ、御父の御思いのとおりに行動しておられたようですね(ヨハネ8:28、12:50、14:10)。

それで、イエスは、はばかることなく、
「わたしと父とは一つです(ヨハネ10:30)」、
「わたしを見た者は、父を見たのです(ヨハネ14:9)」と、
大胆に言うことができたのですね。







 私たちにも、もし、この完全な愛が心に来れば、
御父の御思いが成ることが、
あるいは、私の願い、生き甲斐になるかもしれませんね。




 復活されたイエスが弟子たちに言われました。
「聖霊を受けなさい(ヨハネ20:22)。」




天に帰られる時にも言われたのですね。
「わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、聖霊のバブテスマを受けるからです(使徒1:4~5)」と。




 聖である霊と呼ばれる方が来て下さるなら、
この方の御父への、御子イエスへの愛の思いが私たちの心にも伝わり、
また、御父が私たち一人一人を通してしようと思っていらっしゃる御思いを、

私たち一人一人の心に書き記して下さって、
イエスがそうであったように、私たちも、
御父がしようと思っておられることをしていく者に
していただけるのかもしれませんね(エゼキエル36:27、ヨハネ14:12)。
この新しい1週間も。


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