朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

苦しんでいる人、その人は祈りなさい

2018-02-16 22:16:41 | 聖書から
神よ、私の心は確かです。
私は賛美の歌を歌います。詩108:2

 あなたがたの中で苦しんでいる人は、
祈りなさい。
喜んでいる人は、
賛美の歌をうたいなさい。ヤコブ書5:13

 ゼカリヤ書7:2~13
 申命記26:1~15(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/;土)


 私たち、心を確立して、揺るぐことなく、
天の神、主、「『わたしはある』という者』と名乗られる方に向かって
賛美の歌を歌うようにしていただけるのだそうです。
苦しんでいる時、私たちの叫びに答えてくださり、
私たちが生きていくのに必要なすべてのものを備え、
私たちを喜ばせようとしていてくださる方に。

 「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている私たちは、
断食をして嘆く時も、
食べたり飲んだりするときも、
それを自分のためにするばかりで、
天の神、主のためにするのではない者なのですね。

 天の神、主、万軍の主から、
「わたしが、『正しいさばきを行い、互いに誠実を尽くし、憐れみ合え。
やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。
互いに心の中で悪をたくらむな』と言っても、
彼らはこれを聞こうともせず、
肩を怒らせ、耳をふさいで聞き入れなかった。
彼らは心を金剛石(ダイヤモンド)のようにして、
万軍の主がその御霊により、
先の預言者たちを通して送られたおしえとみことばを、
聞き入れなかった。
呼ばれたときも、彼らは聞かなかった。
そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない」(ゼカリヤ7:9~13)と言われてしかたのない者です。

 そのような私たちを、天の神、主は、
なお、愛し、憐れみ、大切に思ってくださって、
イエスが十字架刑での処刑を受けてくださったことによって、私たちを赦し、
そのイエスを通して〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
受け入れる者の心に〔父である神〕の御思いを置いてくださり、
受け入れる者が〔父である神〕と同じ思いを思い、
願うようにしてくださって、
実現に至らせてくださり(ピリピ2:13)、
喜び、賛美するようにしてくださるのだそうです。

 〔父である神〕が与えてくださった恵みの十分の一をもって、
レビ人(産業を持たないで、天の神、主に仕えることを専門にしている人)、
在留異国人、みなしご、やもめのために用い、
共々に喜び合い、賛美の歌を歌い合うようにも(申命記26:11~13)。
今日も。

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憐れみを受け、時宜にかなった助けをいただくように、と。

2018-02-16 00:14:39 | 聖書から
主の言葉:
わたしを呼ぶがよい。
苦難の日、わたしはお前を救おう。
そのことによって、
はわたしの栄光を輝かすだろう。詩50:15

 憐れみを受け、
時宜にかなった助けをいただくために、
大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。ヘブル書4:16

 ロマ書7:14~25a
 申命記25:1~16(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/16;金)

 天の神、主、「『わたしはある』という者と名乗られる方は、仰るのですね。
「苦難の日にわたしを呼び求めよ。
わたしはあなたを助け出そう。
あなたはわたしをあがめ、
私の栄光を輝かすことになる」、と。
イエスが、大祭司として、
〔父である神〕の前に立っていてくださるのだそうですから。


大祭司であるイエスは、
私たちの弱さに同情できないような方ではないのだそうです。
罪は犯されませんでしたが、
すべての点で、私たちと同じように試みに会ってくださったのだそうですから。

ですから、私たちは、
憐れみを受け、また恵みをいただいて、
おりにかなった助けを受けるために、
大胆に恵みの御座に近づいていいのだそうです。

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
「あろうとするとおりにある」ことが出来るお方、
「あろうと思われるとおりにある」お方なのだそうです。


しかし、私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知るように」なった人間は、
使徒パウロが言うとおりで、
「あろうとするとおりにある」ことが出来ない者なのですね。
「善をしたい」という願いはいつもあっても、
それを実行することがない。

 自分のしたい善は行わないで、したくない悪を行っている実態があります。
そして、自分の努力では、その実態をどうにもできない、
そのみじめさの中にあって、
そのままで、大祭司であるイエスによって、
「神に感謝する」(ロマ7:14~25)のだそうです。

 私たちの身代わりとなって、十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、三日目に死人の中より、新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスによって、
大胆に、はばかることなく、
恵みの御座の前に出て行っていいようにしていただいているのだそうですから。

 そして、その大祭司となってくださっているイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
受け入れる者を上からすっぽりと覆って下さり、その者の内にあって
〔父である神〕が一人一人に対して思っておられる御思いを心に置いてくださり、
受け入れる者が、〔父である神〕の思われるとおりに「ある」ようにしてくださるのだそうです。

 自分の肉(〔生まれたときからの私〕という霊)を、
さまざまな情欲と欲望とともに、十字架につけたものとしていただいた者は、
御霊によって生き、
御霊が心に置いてくださる御思いに導かれて、進むのだそうですから(ガラテヤ5:24~25)。
今日も。

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