あなたは
大海のどよめき、
諸国の民の騒ぎを鎮(しず)める方。詩65:8
あらゆる人知を超える神の平和が、
あなたがたの心と考えとを
キリスト・イエスによって守るでしょう。フィリピ書4:7
使徒9:36~42
コヘレト(伝道の書)6:1~12(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句9/19;水)
天の神、主、
「『わたしはある(Iam)』という者」と名乗られる方は、
大海のどよめきを、
また、大海のどよめきのような諸国の民の騒ぎを鎮められる方。
私たちが、
この方に、
あらゆる思い煩いをお話ししていくとき、
その大能の御力をもって
私たちの心と考え、思いを、
キリスト・イエスにあって守り、
御自身の平安の中に包んでくださるのだそうです。
ヨッパという町にいた
タビタ(ギ:ドルカス;かもしか)という女性が病気で死んだとき、
人々はルダという町にいたペテロに
使いを出し、来てもらったのだそうです。
ペテロが神に祈り、みこころを受けて、
「タビタ。起きなさい」というと、
神は彼女を生き返らせ、
悲しんでいるやもめたちに返されたように(使徒9:36~42)。
伝道者(ソロモン王;栄華を極め、やりたいことは全部やった人物)は言います。
私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。
それは人の上に重くのしかかっている。
神が富と財宝と誉れを与え、
彼の望むもので何一つ欠けたもののない人がいる。
しかし、神は、この人が楽しむことを許さず、
外国人がそれを楽しむようにされる。
これはむなしいことで、それは悪い病だ。
もし人が百人の子どもを持ち、
多くの年月を生き、
彼の年が多くなっても、
彼が幸いで満たされることなく、
墓にも葬られなかったなら、
私は言う。
死産の子どものほうが彼よりもましだと。
その子はむなしく生まれて来て、
やみの中に去り、
その名はやみの中に消される。
太陽も見ず、何も知らずに。
しかし、この子のほうが彼より安らかである。
彼が千年の倍も生きても、
――しあわせな目にあわなければ――
両者とも同じ所に行くのではないか。
人の労苦はみな、自分の口のためである。
しかし、その食欲は決して満たされない。
知恵のある者は、愚かな者より何がまさっていよう。
人々の前での生き方を知っている貧しい人も、何がまさっていよう。
目が見るところは、心があこがれることにまさる。
これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。
今あるものは、何であるか、
すでにその名がつけられ、
また彼がどんな人であるかも知られている。
彼は彼より力のある者と争うことはできない。
多く語れば、それだけむなしさを増す。
それは人にとって何の益になるだろう。
だれが知ろうか。
影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、
何が人のために善であるかを。
だれが人に告げることができようか。
彼の後に、
日の下で何が起こるかを(伝道の書6:1~12新改訳)。
なのだそうですから。
心を通り過ぎる思いの一つ一つも知っていただきながら。
今日も。
(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)
大海のどよめき、
諸国の民の騒ぎを鎮(しず)める方。詩65:8
あらゆる人知を超える神の平和が、
あなたがたの心と考えとを
キリスト・イエスによって守るでしょう。フィリピ書4:7
使徒9:36~42
コヘレト(伝道の書)6:1~12(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句9/19;水)
天の神、主、
「『わたしはある(Iam)』という者」と名乗られる方は、
大海のどよめきを、
また、大海のどよめきのような諸国の民の騒ぎを鎮められる方。
私たちが、
この方に、
あらゆる思い煩いをお話ししていくとき、
その大能の御力をもって
私たちの心と考え、思いを、
キリスト・イエスにあって守り、
御自身の平安の中に包んでくださるのだそうです。
ヨッパという町にいた
タビタ(ギ:ドルカス;かもしか)という女性が病気で死んだとき、
人々はルダという町にいたペテロに
使いを出し、来てもらったのだそうです。
ペテロが神に祈り、みこころを受けて、
「タビタ。起きなさい」というと、
神は彼女を生き返らせ、
悲しんでいるやもめたちに返されたように(使徒9:36~42)。
伝道者(ソロモン王;栄華を極め、やりたいことは全部やった人物)は言います。
私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。
それは人の上に重くのしかかっている。
神が富と財宝と誉れを与え、
彼の望むもので何一つ欠けたもののない人がいる。
しかし、神は、この人が楽しむことを許さず、
外国人がそれを楽しむようにされる。
これはむなしいことで、それは悪い病だ。
もし人が百人の子どもを持ち、
多くの年月を生き、
彼の年が多くなっても、
彼が幸いで満たされることなく、
墓にも葬られなかったなら、
私は言う。
死産の子どものほうが彼よりもましだと。
その子はむなしく生まれて来て、
やみの中に去り、
その名はやみの中に消される。
太陽も見ず、何も知らずに。
しかし、この子のほうが彼より安らかである。
彼が千年の倍も生きても、
――しあわせな目にあわなければ――
両者とも同じ所に行くのではないか。
人の労苦はみな、自分の口のためである。
しかし、その食欲は決して満たされない。
知恵のある者は、愚かな者より何がまさっていよう。
人々の前での生き方を知っている貧しい人も、何がまさっていよう。
目が見るところは、心があこがれることにまさる。
これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。
今あるものは、何であるか、
すでにその名がつけられ、
また彼がどんな人であるかも知られている。
彼は彼より力のある者と争うことはできない。
多く語れば、それだけむなしさを増す。
それは人にとって何の益になるだろう。
だれが知ろうか。
影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、
何が人のために善であるかを。
だれが人に告げることができようか。
彼の後に、
日の下で何が起こるかを(伝道の書6:1~12新改訳)。
なのだそうですから。
心を通り過ぎる思いの一つ一つも知っていただきながら。
今日も。
(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)