朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

天の神、主が、私たちと共におられて

2018-10-17 22:15:15 | 聖書から
 行くがよい。

主がお前と共におられるように。サムエル記上17:37



 何をするにしても、

すべて神の栄光を現すためにしなさい。Ⅰコリント10:31



 Ⅰコリント14:26~33

 黙示録3:1~6(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/18;木)


 戦いをいどむペリシテ人、

ガテ出身の巨人ゴリアテを前にして、

少年ダビデは、サウル王に言ったのだそうです。

「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、

あのペリシテ人からも私を救い出してくださいます」と。



 そのような特別なときばかりではなく、

普段の、日常の生活の中の一つ一つの出来事においても、

天の神、主、

「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方が

共にいてくださって、

〔父である神〕の御思いのとおりに

事を為させてくださっているのだそうです。



 だから、どんな小さいと思えることも、

食べられるのも、飲むことができるのも、

「神の栄光の現れ」なのですね。



 だから、感謝し、賛美をささげるのは

正しい在り方なのでしょうね。



 それで、私たちが集まるとき、

それぞれの人が、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いによって、

賛美したり、教えたり、黙示を話したり、

異言を話したり、解き明かしをするのですが、



 〔父である神〕は、

そのすべてのことを、

みんなの徳を高めるためにしてほしいのだそうです。



 それで、もし、だれかがみんなに向かって

メッセージや証しをするように異言で話すのならば、

ふたりか、多くても三人が順番に話し、

ひとりは解き明かしをするように、と言われるのですね。



 もし解き明かす者が誰もいなければ、

みんなに向かっては黙っていて、

自分だけで、神に向かって話しているようにと。



 預言をする者も、ふたりか三人が話し、

ほかの者は、その預言を吟味するとよいのだそうです。



 もし座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、

先の人は、話すのをその人に譲って、黙って座るのですね。



 私たちは、みながかわるがわる預言ができるのであって、

すべての人が学ぶとができ、

すべての人が勧めを受けることができるのだそうですから。

 私たち自身は、
自分に与えられた霊的な賜物も、
誇り、自己主張したい者ですが、

 私たちと共におられる神は
混乱の神ではなく、
平和の神なのだそうですから(Ⅰコリント14:26~33)。

 イエスは、
御自身と思いを同じくし、心を一つにして、
共に歩む者の名を、
〔父である神〕と御使いたちの前で
言い表してくださるのだそうですから(黙示録3:4~5)。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕と思いを同じくし、心を一つにして、
共に歩む。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

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きのうも今日も、永遠に変わることのないお方が

2018-10-17 07:54:50 | 聖書から
 彼の王国に権威は増し、
平和は絶えることがない。イザヤ書9:6


 イエス・キリストは、
きのうも今日も、
また永遠に変わることのないお方です。ヘブル書13:8


 エフェソ書5:25~32
 黙示録2:18~29(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句10/17;水)


 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』 という者」と名乗られる方は、
イザヤを通して預言して言われました。


 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちのために与えられる。
主権はその肩にあり、
その名は「不思議な助言者、力ある神、
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、
その平和は限りなく、
ダビデの王座に着いて、その王国を治め、
さばきと正義によってこれを堅く建て、これを支える。
今より、とこしえまで。
万軍の主の熱心がこれを成し遂げる(イザヤ9:6~7新改訳)、と。


 そのイザヤが預言した方、イエスは、
きのうも今日も、永遠に変わることのないお方、なのだそうです。
だから、異なった教え、
違ったイエスを教える教えに惑わされないように、と言われるのですね。


 その、
〔父である神〕と心を一つにしていらっしゃる
イエスの御思いを、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に置いていただいた男は、
イエスが御自分に信頼する者の集まりを愛し、
その人々のために御自身をささげられたように、
自分の妻を愛するのだそうです。


 イエスが、みことばにより、水の洗いをもって、
御自身に信頼する者の集まりをきよめて聖なるものとし、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、
聖く傷のないものとなった栄光の人々を
御自分の前に立たせられるように、


 夫も自分の妻を
自分のからだのように愛するようになるのだそうです。


 〔父である神〕の御心は、
「人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」
というものなのだそうですから(エフェソ5:25~32)。


 御子イエスが私たちに代わって受けてくださった
十字架刑での処刑で、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている(創世記3:5、22)
〔生まれら時からの私〕という霊を、
処刑が終わっているもの、死んだものとしていただき、


 そのイエスを通して来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る
〔父である神〕の御思いによって生き続ける者、
最後まで、神と思いを同じくし、心を一つにして歩む者は、
イエスの御国において、
明けの明星の栄光を与えていただけて、
諸国を支配する権威を与えていただくことになるのだそうです(黙示録2:26~28)。


 イエス・キリストは、永遠に変わることのないお方なのだそうですから。
今日も。


(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

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